邪馬壹國 都城の大荘園<1>
  都城の邪馬壹國
                           著者  国見海斗 [東口 雅博] 


<1ページ> 
 都城の真夏、八月一日から、三日迄毎年確農にオギョオンサア祇園祭がやって

くる。

 八月の暦が明治五年以前の太陰暦か以後の陽暦か知る由も無いが、此の地に

古くから伝わるロッガッドオ六月堂と言う祭事が、今町七月に町の各地に別れて

盛大に今打はあの町、明日は此の町と花火を上げて市民の喜ぶ姿を見ていると、

暦のことなど目の中に無く、来る年も来る年も引き雑がれて行事が楽しめればいい

と言う風潮が有る。

 祇園祭の出発は地元の守護神、疫病の神八奴神社より始まる。

 八坂神社の境内の一角に一年前格納された各地の山車や神輿を整備して、老い

も若きも加わり地元宮丸の氏神八坂神社に集結し、ここを起点に祇園祭のクライマ

ックスが始まる。

 当日は前夜祭をとおし八坂神社で一泊、朝神柱神社に詣でるため日暮らし町を練

り歩き行列を繰り出す。

 やがて神柱神宮に帰り着きその日は一泊、翌日も前日と同様八坂神社に詣でてフ

イナアレを向かえその後、八坂神社に格納される。

 ここで地元都城が、遥か離れた京の都から平安時代の文化や制度の影響を受けて

いた様子を祇園、或いは祇園祭、八坂神社、神柱神宮、明治の頃の人を通じて順次

探訪して見よう。

 明治二十二年四月一日、自治制が実施されたが内容の確立精度の高い市町村治

績録があり、其の中に明治、大正の地方自治に天皇陛下直接のお言葉が有る。

 朕地方共同の利益を発達せしめ衆庶臣民の幸福を増進することを欲し、隣保団結の

旧慣を存重して益々此れを拡張し、更に法律を以て都市及び町村制を裁可して此れを

公布せしむ。

<2ページ>
 以上の聖旨はその本義を説明したものであり、当時の創設者である山形有朋も、自治

元来是れ国基、百年の長計遅疑する莫れと言い、この治績録からみる都城及び周辺の

大正以前を垣間見ることにする。

 都城市、戸数、六四九九、人口、三三、一五七、沿革、太古高千穂の旧跡と伝える、旧

島津藩、社寺、神柱神社、母智丘神社、寺院二、名勝、小松原企園、姫城山、一万城、

九皐殿北諸県郡庄内町、戸数一五一七、人口、一〇、一二四、村社二、無格社五、寺

院一、名勝、関の尾漠布北諸県郡五十市村、歩兵第二十三連隊、名勝、高千穂宮旧跡都州

 北諸県郡中郷村、戸数一五〇〇、人口、八九四七、社寺、五

 北諸県郡沖水村、戸数、一六八九、人口、一一七六二、名勝、稲荷神社、早水の池、

 北諸県郡志和池村、戸数九五六、人口、七五七五、名勝、志和地城跡

 北諸県郡西岳村、戸数七五六、人口五三六四、以上今は都城市に名を変えている。

 北諸県郡三股村、戸数二〇四七、人口二一八五九、社寺、郷社一、村社三、寺院一、

 北諸県郡山之口村、戸数、一〇∧五、人口、六八二五、本村は元鹿児島県に属し

山之口郷と称す。明治四年廃藩置県と共に鹿児島県に属し、次いで同県の所管となり、

六年一月宮崎県を置かるると共に此れに属し、九年鹿児島県に隷し、更に十六年宮崎

県に帰属する。社寺、郷社一、村社三、無格社五、寺院一、北諸県郡高城村、戸数一八

三一、人口、一一六八一、社寺、郷社一、村社六、無格社一四、寺院、一、名勝、高城城

址北諸県郡山田村、戸数二二六〇、人口、八四九六、明治維新地頭制時代、三島地頭の

下に黒木、上村の両氏、本村を治められしが、その後都城の人、野田、種子田の両氏戸

長と為り専ら本村のために尽くされたり。村社山田神社、無格社一、寺院一、名勝山田城

址、島津の荘有り。

 北諸県郡高崎村、戸数一九六五、人口一一七九一、社寺、郷社一、村社五、無格社六、

寺院一、名勝、東霧島神社

庄内、五十市、中郷、沖水、志和池、西岳を現在のように都城に編入して戸数、人口

を見て見ると一二九一七戸数に対し七六九二九人で有る。

<3ページ>
  此の数字が語ろうとする意義は、取りも直さず江戸時代の戸数、人口がほば間違い

なく想定できることであり、更に遡らせて見ることもできる。

 三股、山之口、高城、山田、高崎各村の戸数と人口の合計は、戸数九一八八、人口

五一六五二になる。

 此の数字から純粋な都城盆地周辺の大正、明治の総戸数二二一〇五、総人口一

三八五八一を知ることができる。

 以上は現在の都城市を中心に調べたものであるが、古代まで考えるには今の財部町

、末吉町、霧島町及び各周辺、更に大隅半島を除いては語れない。

 話しは余談になるが、魏志倭人伝に邪馬壱国の戸数は七万戸と示されている。

 都城を中心に、周辺の各行政市町村の明治時代の確りした戸数を計るとどのような

結果が待ち受けるか興味が尽きない。

 都城が軍都であったころ、九州最大の二つの国鉄拠点ターミナルが存在していた。

 一つは鳥栖で有り、もう一つは日豊本線都城で有る。

 JRが国鉄時代、大阪駅の職員事務所には日豊本線を代理して都阪線と正式に名札

が掛かっていたのを記憶している。

 この都阪は、正しく国が都城を暗黙に認めた長距離列車の最終拠点都市地点を示す

ものにほかならない。

 前述した国の治績録に示されている都城やその周辺の五十市村、中郷村の沿革、名

勝を見ると、都城には太古、高千穂の旧跡があり、旧島津藩の発祥、社寺に神柱神社、

母智丘神社、他、神社寺院二、と書き記され、名勝に小松原公園、姫城山、一万城、九

皐殿と書かれている。


<4ページ>
  五十市村には歩兵第二十三連隊と高千穂宮、旧都州とあり、中郷村には社寺五と

のみ示されている。

 本来なら中郷村は鳥見山を始め差し羽、田部豊満、平季基、平重盛、梅北、旧島津

、藤原頼通、正応寺旧跡、西生寺旧跡天台宗開祖最澄の作三体のうち一体薬師如来

像の保有、神柱旧址、島津荘園の発祥地いくらでもある。

 此れらのうち二、三でも書けば、中郷の文化の程度が今と少し変わった形態に為っ

ていたかもしれない。
 さて本題の祇園で有るが、祇園祭りや祇園のことは何はともあれ京都が有名であ

るが、規模は小ぶりでも伝統と文化を大事にしてきた都城の祇園祭は、やがて市民

の承認を得て大きな行事に発展する可能性を秘めている。
 祇園や祇園祭が八坂神社や八坂神社の祭りで有るとはっきり言明することができ

る人は少ない。

 祇園とは、祇樹給孤独園[ぎじゅぎつこどくおん]が省略された言葉である。

 祇樹とは、祇陀太子が所有している苑林を孤独という別名を持つ須達長者が買い

求めたことを言う。

 日本の祇園は京都の八坂神社の旧称であり、其の付近の地名で遊里があり、遊

里をお茶屋とも云う。

 祇園は祇園会の省略で京都の八坂神社祭礼を指し、今は祇園祭、祇園御霊会が

普通である。

 京都八坂神社の祭礼は、昔は六月七日に執り行われたが、今は七月十七日から

二四日まで行う。

 京都祇園祭の山鉾巡行等は有名で、山鉾の上で鉦、ふえ、たいこの祇園囃子[ぎ

おんんばやし]を奏上し、市中を巡り八坂神社に帰り着く。

 祇園はインドでは祇園信仰とよばれ、祇園牛頭天王[ぎおんごずてんおう]に対す

る天王信仰である。

 本来年頭天王は別名武塔天神ともいわれ、インドでは祇園精舎の守護神である。

 祇園精舎は梵語でジェタバナビハーラと云い、須達長者が中インドのマカダ国舎衛

城の南、祇樹給孤独園に釈尊及び其の弟子のために建てた僧坊である。

 中国から我が国に伝わる過程で陰陽道の宿曜信仰と結び付き天刑星と同一され、

更に我が国では御霊信仰と結び、疫病厄神と見なされ病気の災難から守ってくれる

神として、朝廷から商人、百姓に至るまで広く信仰された。

<5ページ>
  其の理由は、牛頭天王が南海に出向いたとき、其の途中巨旦将来に一夜の宿

を求めた。

 巨旦将来はそれを拒んだが、蘇民は牛頭天王を受け入れて厚遇した。

 牛頭天王は王子や一族を率いて巨旦を討ち滅ばした。

 そのとき蘇民に対して子々孫々に至るまで、水久に守ることを約束した。

 此れが基となり貞観年中[八五九年から八七七年]八故郷[今の京都市東山]に

祇園社が建立された。
 八七六年、藤原基経[もとつね]は自分の邸宅を取り壊し牛頭天王のために祇園

精舎を造営し寄贈した。

 藤原基経とは、どのような人物か。広辞苑によると八三六年から八九一年の人で

平安前期の廷臣。長良の子。良房の後を雑ぎ、陽成天皇の摂政、大政大臣。光孝

、宇多両天皇の優詔を拝し、内外の政務を執行。関白の初め。文徳実録を撰。

世に堀川大臣と称す。昭宣公と謚[し、おくりな]す。と書かれている。

 藤原氏の祖となった中臣鎌足は六一四年から六六九年の人だから、藤原基経は
一七〇年ほど後の人である

 さて八坂の祇園社は御霊会が開催されるに至り次第に朝野の信仰を集め、牛頭

天王を素盞鳴尊[すさのうのみこと]
その妃波利采女を奇稲田姫に八王子を天照大神との間に生まれた五男三女神に

見立て全国に有力となった。

 江戸後期の廃仏毀釈論争のたかまるなか、明治維新、京都感神院が八坂神社と

改称し、祭神を上記諸々の神々と公称すると、各地の祇園社も此れに追従した。

 八坂神社は京都市東山区祇園町北側にある元宮幣大社、祭神は素盞鳴命、稲田

比売命、八柱御子神である。

 八七六年播磨の国広峰神社から奉還。例祭の祇園会の外、特殊神事としてオケラ

祭りがある。

 祇園祭は京都東山の八披神社の祭りであるが、七月十七日頃を中心に全国の八坂

神社も此れに倣う。

 前述のとおり八坂神社は、明治維新までは祇園社と呼ばれ牛頭天王を素盞鳴命とみ

たてて郷祀りしていた。

 初めは平安中期頃、怨霊を鎮めるために京都の八坂郷で行われた御霊会が祇園

寺に牛頭天王を祀ったのが始まりで、御霊と疫病の崇りを避ける打本一の祭りの先

駆者と成った。

<6ページ>
  期月も疫病の発生し易い旧暦の六月が定まり、中世以後六月七日から十四日ま

でど決められていた。

 祭りの特徴は大きな山と鉾に有る。

 山は四輪車の台上に人形や松を立て二階屋台にする。

 鉾は山と同じ二階屋台を組み上げるが、其の屋根の上に高い鉾を立て掛け上げる。

 今は八坂に十数台ずつ有り、それぞれに名前がつけられている。

 屋台には稚児や雜し、稚児人形が同乗し祇園雜しの音楽を鉦、笛、太鼓に合わせ

て行進する。

 山車の順序はくじ引きにより決めるが、長刀鉾[なぎなたばこ]は出発の際先頭に

立ち路上に波した連連縄を切る。

鉾には進行方向の反対側に豪華な絹織物を垂れ提げて見返しとしている。

 此れらに神輿三基を加え武者、弓、剣の行列により神幸式を執り行い、その神輿を

鴨川の水で洗い清める神輿洗い

の儀式が祭りの巡行に先立ち鴨川大橋の上で決行する。

 鉾に乗る稚児たちは八坂神社に詣でてお位もらいをする式もある。

 盛夏のおり、疫病や崇りを駆逐することを目的として、華やかな山鉾を押し立て町を

練り歩く姿こそウエルネスの神髄であり特色である。

 此の風習は中世末から近世に掛けて全国各地に、特に商業の盛んな町に広まり、今

も都会的な風情として祇園祭が各地で行われているが、我が都城も中世鎌倉幕府よ

り以前から、平安京の最も偉大な影響を受け、特に大荘園による中央との係わりは古

文献資料によっても明らかである。

 特に都城市中郷は平安の為政者を属領主として特別な関係を有し、藤原頼通より継

がれ、師実、師通、忠実,忠通、基実、基通、家実、兼経、基平、家平、経忠十三世まで

日本最大の荘園から得る莫大な利益は中郷を中心に近郷を繁栄させ、町は京の都、平

安の写し絵だったことを想起させる。

<7ページ>
  山車の折り返し地点神柱神宮であるが、国の自治制実施の明治二十二年、治績

録によると県社神柱神社とある。

 都城の中郷村史によると県社神柱神社は明治六年都城市小松原の現在地に遷

宮されたと書かれている。
 此の行為に対して当時の村民感情は次のように残されている。

 四方から取り囲まれて、即ち四囲の情勢上止むを得ぬことであろうが、創建以来、

梅北の土地に切っても切れない

関係を持っていたことを考えれば、我が村に取っては残念な気持ちである。

 神柱神社の跡に黒尾神社が祓川から遷され現存することは人のよく知られるところ

である。

 私たちは神柱神社が九百年にも及ぶ[当時では八百年以上]我が梅北に放いて私

たちの土地の守り神として、祖先以来、尊崇拝の中心と成られたことを思えば限りな

く懐かしさを覚え、崇敬の念の深まるを感ずる。

 私共の祖先の方々が敬神崇祖の心が深かったことは、歴史がこれを如実に示して

いる。

 当然此の美風は尚々継承して、自然に染み込むように徐々に養い育てていかねば

ならぬ。

 古老は此のように述べられているが、遷宮は当然有り得ることであるとしても、元の

ところに存してこそ文化の重みを感じるのは私一人とは思えない。

 現在都城市小松原に鎮座する神柱宮は前述の梅北の黒尾神社所在地に万寿三年

九月九日、西暦一〇二六年御一条

天皇のとき平季基[たいらのすえもと]によって建立された。

 御祭神は天照大神と豊受大神である。

 地元梅北の名家、梅北家所蔵の神柱由緒によると次のように記されている。

 平朝臣大監季基[たいらのあそんたいかんすえもと]は梅北の地を開墾しこれを有し

、屋敷を構える。

 万寿三年丙寅正月季基家門を建てようとして当村大吉山より門柱を引く。

 片ほどを五百人にて引けども動かず、千人にて引く。

<8ページ>
  時に季基の女子六歳成りしが、出でて此れを見て忽ち狂気になる。

 この時伊勢大神の信託ありて曰く[我は伸勢の外宮なり。此の地にて衆生を護らん

とする。

速やかに社を建て神社の名を神柱と称すべし。此れを信ぜずんば人を伊勢の囲に

上げて問うべし]

 季基は直ちに使者を発して伊勢に行かしむ。

 時に伊勢神宮の童に神託有りて曰く[日向の国荘内益貫に我を祀るべし]

 日向の国県において両者同じ郵亭に宿す。

 共に其のことを語るに符号を合わせたる如し。

 此れにより両者各々の郷に変える。

 この年季基伊勢に至り神宮に告げて神体を奉じて帰る。

 当社を建て結構美を尽くす。

 万寿三年九月九日神を勧請する。

 爾来祭祀怠たらず。

 又この時伊勢内宮は出羽国荘内に託宣ありしこと日向国と同じ。

 伊勢内宮は東三十三国を護り出羽荘に現れ、外宮は西三十三国を護り日向国荘

に現る。

 此れにおいて神柱社と称して日本国二柱神と云う。

 当社を神柱というは即ち此の故なり。
 棟札にも万寿三年丙寅九月九日大願主平朝臣大監季基とある。

 永正八年二月十五日兵火にかかり旧記録、宝物等大半焼失したのは残念なことで

ある。

 季基の後は養子で三股院を領した伴兼貞が神事を継承、その後梅北氏の祖先であ

る伴兼高が子孫が代々神柱宮の祀事を奉じた。

<9ページ>
  正祭は毎年九月九日当日は流鏑馬を行い、小祭は年十二回である。

古棟札には仁安二年伴兼高、弘安四年伴兼世、応永八年島津元久寺の名が見える。

 島津荘園の開拓者、平季基は大隅の肝付氏とは深い関係がある。

 肝付家は同家の系図、梅北家の系図から天智天皇の後裔と云うことになるが、肝付

氏は萩原、安楽、和泉、梅北の諸氏と共に伴氏の一族である。

 伴氏は従来大伴氏を名乗ったが淳和天皇の諱[いみな、死後に言う生前の名前]が

大伴であり其の名に触れるため伴氏に改めた。

 六十三代冷泉天皇の時、九百六十九年、伴河内守兼行は薩摩掾[さつまじょう]に任

じられ、鹿児島、神食村、[伊敷村]に住まいした。

 兼行の孫が兼貞で肝属郡の弁済使に任ぜられていた。

 兼貞は鵜戸神社参拝のおり三股村梶山から鰐塚山を越える途中、日向三股院梅北

中西の平季基屋敷に立ち寄り、季基の厚遇に甘え数日間滞在したが双方に思うことあ

り、季基の婿養子と成った。

 兼貞の妻は季基の一人娘である。

 季基が橋野に隠退したとき、所領の三股院を兼貞に譲った。

 兼貞は肝付と三股院を領し、南九州一の勢力を誇った。

 益貫に居住し、此の地で没した。

 墓地は季基と不明であるが西生寺の崩落のとき埋もれたと思われる。

 兼貞には五人の子がいたことが知られている。

 長子兼俊は父兼貞後を雑ぎ肝付郡弁済使となり、肝付の高山にいて肝付氏を称した。

<10ページ>
 二男兼任は萩原氏をなのり、後世子孫は肝付本家にあり、活躍する。

 三男俊貞は志布志の安楽に入り、安楽氏の始祖となった。

 その子孫安楽九郎為成は建久の頃安楽の城に居住した。

 後世代々肝付の一族として曾於郡肝付の地方を守った。

 四男行俊は梅北家の系図では五男であるが、薩摩の和泉に居住して和泉氏を称

した。

 和泉にある出水城跡は子孫の居城である。

 建久のころ、和泉小大夫兼保の子、保久以後数十世、又太郎忠辰迄出水城に居

住した。

 五男兼高は梅北氏の始祖である。

 検見崎、岸良、野崎、津曲、河南、鹿屋、の諸家も兼貞の後裔とされる。

 以上から見ても南九州の繁栄した一族は梅北が発祥地であると言っても過言では

ない。
 ここで伊勢神宮について少し調べてみよう。

 伊勢神宮は三重県伊勢市にある皇室の宗廟で、内宮の皇大神宮と外宮の豊受大

神宮の総称である。

 内宮の祭神は天照大神、御霊代は八咫鏡である。

 外宮の祭神は豊受代神であり、本来神社神宮は伊勢外宮の託宣ありて日向荘に現

れ西三十三国を譲るということから平季基が創建したものである。

 祭神である豊受大神は食物の神ということから、大荘園から始まって農業の守護神

として崇められる事情は正に農業国都城にとって時代を先取りした先見の明に脱帽せ

ざるを得ない。

 伊勢神宮の信仰を伊勢信仰或いは神明信仰と呼んでいる。

 皇室の祖先である伊勢神宮は一般参詣を許さなかったが、平安中期後半になると社

寺参詣の機運が高まり伊勢参りも一般化された。

目次へ戻るトップへ11頁へ