都城の邪馬壹國
著者 国見海斗 [東口 雅博]
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拍車を掛けた町は伊勢神宮の神官達が進んで民間を信仰にお祓いの大麻を配り信者
を募ったからである。
此れは次第に全国的に及び漏れ無く都城の荘園の宰相太宰大監平季基にも中央から
勧請[神仏の分霊を請じ迎えて祀ること]の勧誘を求められたと推定する。
季基の中央政権に対する権力は絶大であり、時代の波に乗り外宮の祭神、豊受大神の
勧請に成功した。
神官の全国各地から信者を招く方策はヽ中世後期に大盛況を粛した。
その昔、熊野信仰を紀州熊野が南海の聖地として観音の浄土としたことを見習い、大衆
は宇治、山田を伊勢神宮外宮の祭神、豊受大神が農耕の神として、内宮の祭神、天照大
神を人心を癒す神とした。
伊勢内外宮は解放され次第に大衆の聖地として全国に広まった。
伊勢参りは大衆の信仰として一生に一度お参りする伊勢信仰の集団を生み、伊勢躍[伊
勢踊り]、お蔭参り、抜け参りは近世を通じて繰り返された。
中世後期の各地の神明宮の勧請は、神明其のものの意味は神祇諸々を指すが、ご神体
の鏡や伊勢の内宮をも含み神宮の勧請に此の用語を用いた。
吾妻鏡、文治二年、壱千百八拾六年の甘縄神明宮は其の初例出あるが、神宮御厨[じん
ぐうみくりや]や神戸のに祀られ大麻奉戴[たいまほうたい]と結び付き全国に勧請された。
伊勢の影向「ようこう」とか飛神明は此れに当たる。
伊勢参りの民族的風習は注目する点が多く、出発、帰国の儀礼、坂迎え、ハバキヌギ、ド
ウブリの宴等の慣習とか、留守宅で行われる斉忌の方式は日本人の聖地信仰の性格を示
すものである。[日本民族辞典参照]大正時代の郷土史家の文の中に、現在梅北の大園
の公会堂の所在地は往時宇佐八幡宮のあった場所である。
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ここにあった八幡宮は、応神天皇、玉依姫、神功皇后を祭神としたもので、平季基
の創建に係わる建造である。
季基は神柱神社を建立すると同時に宇佐八幡宮を建てたと言われている。
名勝図絵に、平大監季基島津御荘を開拓のとき長元年中、神柱社と同時に創建
して御荘の鎮守とす。
近衛殿御荘の領家たるときに崇敬ありて、神柱社と当社との修造費は御荘の財
入を以て弁じ、自余の課役も免ぜられしこと正応中、島津荘官のを上状に見ゆ。
島津御荘においては特に尊重の社となり。
古棟札に永年四年僧慶祐修造のことを話す。
宇佐八幡宮は宇佐神宮の別称である。
大分県宇佐郡宇佐町にある元官幣大社で、祭神は応神天皇、比売神、神功皇后。
全国八幡宮の絵本社で古来尊崇された。
ここで問題なのは季基の時代、即ち荘園の時代、何故平安の華麗な宇佐八幡を都城
の中郷の地に建立したのか。
此の答えは大化改新に遡り奈良時代、平安時代、平家、源氏を見ながら順次解決を
すことにする。
倭名類聚抄[わめいるいじゆしょう]によると日向国五群とは臼杵郡、児湯郡、宮崎郡
、那珂郡、諸県郡を云うが郷名の数は臼杵に四、児湯に八、宮崎に四、那珂に四、諸県
に八、日向には計二八[二六]の郷が存在した。
日向国史は大宝二年、六九三年、文武天皇大宝の律令がなったとき、薩摩が日向依
り分立、更に和銅六年、七一二年、元明天皇のとき大隅が更に日向より分立したと記録
している。
此の国境[くにさかい]が明確化されたとき日向五郡、二八郷[元二六郷]が確立され
たと思われる。
都城の中郷[現在鹿児島県末吉南郷は都城に含まれていた。理由は薩摩が日向
より独立したことが明白である。]
南郷は二八郷の二つとして諸県の内に包括された。
中古、中世は大化改新或いは大化新政依り始まり平家の滅亡までを云う。
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大化とは孝徳天皇朝の年号であり、公に称した年号では我が国に放ける年号の始
まりである。
孝徳天皇は第三六代の天皇、名は天万豊日[あめよろずとよひ]、軽[かる]という。
茅淳王[ちぬのおおきみ]の第一王子、大化元年、六四五年即位し、大化改新を行う。
皇居は摂津の国長柄の豊崎宮、五九六年−六五四年、在位、十年。
大化改新の意義は大化元年、六百四十五年の夏、中大兄皇子[なかのおおえのおう
じ、後の天智天皇]を皇太子、中臣鎌足[なかおみのかまたり、後の藤原氏の祖]を内大
臣、阿部倉梯麻呂[あべのくらはしまろ]を左大臣蘇我石川麻呂[そがのいしかわまろ]、
を右大臣に任じ、唐より帰朝した高向玄理[たかむこくげんり]、僧、旻[みん]を顧問とし
て隋、庸の制度に倣い、大化の前氏姓制度の矛盾が激化して宮司制度が進展し始め
た六、七世紀、皇極天皇の四年、六四五年、聖徳太子の摂政中の不明の薨去、其の
参議の蘇我馬子の不明の死去がつずき更に聖徳太子、蘇我馬子の亡き後、女帝推古
天皇の摂政を引き継いだ馬子の子、蝦夷[えみし]は推古天皇、舒明天皇皇極天皇、
三代を立てて蝦夷の子、入鹿と共に暴政を振るうが、中臣鎌足は舒明天皇の御子中
大兄皇子の英明なるを見て、この人と蘇我氏を滅ばそぅと心に決め、法興寺の蹴鞠会
に皇子に近ずき更に蘇我石川麻呂を見方と為し、時の至るのを待ち皇極天皇の四年
、三韓貢を奉るの日、中大兄皇子は鎌足、石川麻呂等と共に大極殿で不意をついて
入鹿を誅殺、つづいて皇子は兵を以て蝦夷を攻め、ま脱がれぬことを覚った蝦夷は屋敷
に火を放ち、滅びるのであるが、皇極天皇は直ちにその年、六四五年、孝徳天皇に位を
譲られ大化元年を迎えたのである。
皇極天皇は第三五代の天皇で、名は天豊財重日足姫[あめとよたからいかしひたら
しひめ]。
芽淳王[ちぬのおおきみ]の第一王女、舒明天皇の皇后、天智天皇、天武天皇の母
、六四二年即位、皇居は大和国飛鳥の板蓋宮[いたふきのみや]六四五年、孝徳天皇
に譲位、後、重祚して斉明天皇、五九四ー六六一。
大化改新は大化元年、六四五年、夏、中大兄皇子を中心に中臣鎌足等革新的な朝
廷豪族が蘇我大臣家を滅ばし、開いた古代政治上の大改革である。
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孝徳天皇の都を摂津長柄の豊崎の宮に遷し、隋、唐の制度に倣い翌春、大化二年、
六四六年、私有地、私有民の廃止、国、郡、里制による地方行政の朝廷集中、戸籍、
計帳を作製し班田収授法の実施、調、庸、租税制の統一の四綱目からなる改新詔書
を公布、改革五年で成果を上げ、古代集権国家の成立を見た。
要約すると今迄の臣、連、国造の私有していた土地、や民を悉く公地、公民とすること。
あらたに国、郡を分け、国造[くにのみやっこ]、県主[あがたぬし]をやめて国司、郡
司を置く。
戸籍を作り、班田収授法を設けて、人毎に口分田を与える。
口分田とは人毎に分かち与える田を云うが、男子に田弐段[今の弐反四畝]、女子に
その三分の二と定める。
班田収授法とは男女共に一定の田を分かち与え、その人死すれば授けてある田を
収める法を云い、人が生まれて六才になれば、男には二段の田を、女には其の三分
の二を分かち与えて耕作させ、六年毎に取り調べること。
調とは織物その他土地から上がる産物を朝廷に献上すること。
庸とは正丁[二一才から六〇才迄の男子]は年に十日、力の役を課すが、若し役を欠
かすときは布或いは米を収めることを云う。
租税は田地の収穫中より稲一段につき二束二把を収めることを云う。
官の使いが公用で諸国に赴任するとき或いは赴くとき、乗用するために駅馬、伝馬を
備え置くこと、事が急なる時は駅馬にて、緩やかなる時は伝馬に乗用する。
更に天皇は中央政府に八省庁百官を置き、政務を分掌し、官職世襲の風を改め、
人材登用の道を開き、中央集権の実態を作り上げた。
此れを大化の改新と云う。
此れは直ちに宮崎、日向国にも反映した。
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孝徳天皇の崩御後、前の皇極天皇が六百四十五年再び位に即き斉明天皇と申
され、我が国重祚の初めである。
中大兄皇子はなお皇太子として政務を助けられた。
斉明天皇は第三十七代の天皇である。
孝徳天皇の崩御後、大和国板蓋の宮で即位、翌年飛鳥の岡本の宮に遷宮する。
新羅征伐のため筑紫の筑前朝倉行宮[ちくぜなさくらあんぐう]に立ち寄り崩御、在
位六年。
朝鮮半島は欽明天皇の代になって新羅が益々強国となり百済、任那を攻め、遂に
任那を滅ばして、任那の日本府を五百五十二年に壊滅した。
任那が滅んで以来、新羅の勢いが強くなり斉明天皇の代となり新羅は唐の助けを
借りて百済を攻め、遂に百済王を降参せしめた。
百済の遣臣達は再興を諮り、援軍を我が国に要請した。
斉明天皇は申し入れを受託され皇太子中大兄皇子と共に九州の筑紫に進んだが
、筑前の朝倉宮に崩じられた。
中大兄皇子は急遽阿曇野此羅夫[あずみのひらふ]を派遣して白村江で戦闘させ
たが、遂に戦い敗れ、百済は完全に滅亡した。
百済は建国以来六百七十有余年を数えた。
その後五年が過ぎ次は高句麗が唐によって攻められ、建国以来七百有余年にし
て滅亡した。
中大兄皇子は唐の来襲中に備え、筑前大野城に水城[みずき]を築き巌健な守備
を謀った。
その後程なくして庸から使いがやってきて日本と友好を結びたいという。
中大兄皇子は国内の政務が急務なるを心得ており朝鮮半島の動乱から一切手を
引いた。
唐は平壌に安東都護府を置き朝鮮の政治を司ったが、新羅は益々強国となり新
羅の文武王は遂に唐を壊滅し平壌を征服して朝鮮半島の統一を実現した。
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中大兄皇子は六百五十一年近江国、磁賀県大津の宮にて即位され、第三十八代
、天智天皇と称された。
天智天皇は内政に力を注ぎ、学校を開き、戸籍を作り、律令を改めた。
学校制度は京都に大学、諸国に国学、官吏の子弟を中心に教育を施行した。
律令の撰定は天智天皇のとき制定した法律を基本に天武、文武、元正各天皇は時
代に即した修正、改正を行う。
律は今の刑法に、令は官制その他の諸規則に当たり、唐の制度に倣い現在も政治
の根幹を為している。
第三八代、天智天皇は中臣鎌足と近江令を制定する。
第四〇代、天武天皇は律と共に近江令を改修する。
第四二代、文武天皇は忍壁親王[おさかべ]、藤原不比等と更に改正し大宝元年
に成り大宝律令と称す。
第四四代、元正天皇は養老二年、藤原不此等に命じ大宝律令を修正し、此れを
養老律令と称す。
律令制度における官制とは、中央に神祇官[じんぎかん]、太政官[だいじょうか
ん」を置く。
神祇官は祭祀を掌握し、太政官には太政大臣[だいじょうだいじん]、左大臣、右
大臣、八省庁がある。
八省庁には中務[なかつかさ]、式部、治部、民部、兵部、刑部、大蔵、宮内があ
る。
中央に対し地方を置く。
地方の国に国司を置き、下に郡を置き、郡司、京都に左京職、右京職、摂津に摂
津職、九州に太宰府を置く。
兵制は中央京都に衛府を置き、諸国に軍団を置き、辺境要地に防人[さきもり]を
置く。
大宝律令の刑罰に苔[むち]、杖[つえ]、徒[労役に服す]、流[島流し労役]、死、
[死刑]の五種あり。
君父に対する罪を最も重しとする。
天智天皇にとって藤原[中臣]鎌足の薨去は最も悲しい出来事であった。
藤原鎌足の薨去は天智天皇の御即位の翌年、六五二年のことである。
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藤原鎌足の功績は蘇我氏の誅滅、大化の新政等に大功がある。
天智天皇は藤原鎌足の病が重く、病床に臨み此れを慰められ、藤原の氏を賜い、
最高位の大職冠を授けられた。
大和国桜井の多武峰[とうのみね]の談山神社[だんざんじんじや]は藤原鎌足を
祀り、昔別格官幣社である。
平安京と都城の関係を詳しく知るために平城京をここに示して置く。
第四三代、元明天皇は神武天皇以来天皇の代が代るごとに殆ど皇居を遷都されて
いたが、国運も繁栄して政治のことも多くなり、中国[支那]との交流、交通が盛んに
なるに従いここに、和銅三年、七一〇年、奈良に都を造ら唐の都の制度に倣い、内裏
、諸官省をはじめ条坊の区画は目を見張るものがある。
此れを平城京といい奈良と称した。
此れより、第四九代、光仁天皇、七八一年、薨去迄の七一年間、殆ど此の地に都
された。
平安京で政務を執務された各天皇は、第四三代、元明天皇、第四四代、元正天皇
、第四五代、聖武天皇、第四六代、孝謙天皇、第四七代、淳仁天皇、第四八代、称
徳天皇、第四九代、光仁天皇の七代七十一年である。
宇佐八幡を論じるについて八幡或いは八幡信仰と併せて宇佐八幡を書くことにする。
八幡の神の起源は上古時代に遡るのか中古の大化改新以後なのか明らかでない。
日本民族辞典では八幡の起源を、八幡の語義は多くの幡と云う意味合いから古代に
放いて多数の幡を立てて祀る神がいてそこから此の名前が生まれたと思われると云う。
それがある時代賢者によって集約され、豊前の国、宇佐に鎮座する神によって代表
され霊験新たかな神と信じられた。
奈良時代には開発された宇佐神宮近辺の銅鉱山と結び付き、東大寺大仏の鋳造建
立を助けたと信じられ、この様な経緯を経て国を代表する神格化の信任を得るに至っ
た様である。
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更に北九州で古くから伝わる姫巫女伝承と結び付き、神功皇后、応神天皇、仲津姫
に替えられた。
平安時代に入ると応神天皇が八幡神の守護神となった。
又、大仏鋳造と結び付いた宗教的な思想は菩薩として仏の格式が与えられ、八幡大
菩薩の尊称を得るに至った。
それに伴い僧形八幡の像もつくられ益々繁栄を見るようになる。
大仏建立に際し奈良の手向け山にに祀られ、平安時代には僧行教によって京都の
南部綴喜郡石清水に勧請され、石清水八幡として天皇御所の鎮護の神と成った。
此れ以来天皇家、賜姓由貴族の氏神となった。
此の環境の中に清和源氏の崇敬を請け、源氏の子孫の中から頼義、義家、頼朝が
特に厚く信じ、鎌倉幕府の守護神として鶴岡八幡宮が祀られた。
荘園制度から始まった武家制度は武家勢力の発展と共に広く武家の守り神となり、
全国的に祀られ弓矢八幡という言葉も生まれた。
八幡神が古代において応神天皇であると称された背景に神童の伝承を有し若宮
の謂れがある。
此の場合、母性神を見逃すことができない。
母なる巫女が神童王子神と結び母子神として崇められ、巫女の働きによって次々
生誕する神童神の存在は八幡神の若宮と呼ばれる事が多い。
熊野権現も古代から伝わる神々であるが、沢山の眷属に取り囲まれた形態を見
せ十二王子、九十九王子を説かれた。
祇園牛頭天王[ぎおんごずてんおう]は妃の婆利采女[はりさいめ」の間に八王
子をもうけた。
熊野権現の第一王子は若一王子としてこれを神格化している場合もある。
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熊野権現については省略する。
奈良時代、第四十六代、孝謙天皇の時、天皇と伯母の光明皇后は藤原不比等の孫
、政治家、藤原仲麻呂を信任し、女婿大炊王[おおいおう]を皇太子と為し自身は紫微
内相となり七百五十八年、仲麻呂の勧めによって天皇の位を皇太子、第四十七代、
淳仁天皇にお譲りになり、政治は上皇の立場にあり、尚、継承された。
淳仁天皇が即位すると仲麻呂は官制を改め太保即ち右大臣となり、上皇より姓名を
恵美押勝[えみのおしかつ]を賜り次いで大師、大政大臣正一位に進み、権力を思い
のままに振るった。
此のとき、河内の国の人で僧侶弓削道鏡なる人物がいた。
義淵に着いて仏の学問を身につけた道鏡は、孝謙上皇の信任を得て大政大臣禅師
の地位を得るに至った。
仲麻呂は道鏡の昇進を見て妬み喜ばず、道鏡を除こうとして兵を挙げんとしたが、
それが明らかになり、天平宝字八年、七百五十二年、淳仁天皇のとき近江国で殺さ
れた。
此のとき孝謙上皇は、第四十七代、淳仁天皇を廃され、七百五十二年、再び天皇
として即位された。
孝謙上皇再び、第四十八代、称徳天皇と称して即位する。
弓削道鏡は称徳天皇の大政大臣禅師の地位にあって専横を極め遂に法王の座を得た。
既に道鏡に威権並ふものなく皇位を窺ったが、太宰神主習宣阿曽麻呂[だざいのか
むつかさすげのあそまろ]を使い、宇佐八幡の御告げと偽り、[道鏡をして皇位に就か
しめ賜わば天下太平ならん]、と奏上した。
称徳天皇は和気清麻呂を勅使として豊前の国宇佐八幡宮の神託を請け帰り至り、
[我が国、開闢以来君臣の分定まる。天日嗣[あまつひつぎ、天照の皇統]は必ず
皇緒を立てよ。無道のものは早々に除くべし。]と上表した。
道鏡は怒り、和気清麻呂の位を剥ぎ、名を汚れ麻呂と改め、神護景雲三年、七百
六十九年、大隅の国に流し途中殺そうと欲した。
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