都城の邪馬壹國 
                                                著者  国見海斗 [東口 雅博]  
                     
                    
                    <20ページ> 
                     
                      更に和気清麻呂の姉広蟲をも備後の国に流した。 
                     
                     和気の広蟲は和気清麻呂の実姉で孝謙天皇に信任されていた。 
                     
                     後に尼となり法均尼といい、頗る慈悲の心に富み、道鏡が悲望を企て清麻呂 
                     
                    のために果たせなかったとき、広蟲も恨まれて備後の国に流されたが、光仁天 
                     
                    皇のとき召還されて再び宮中に仕えるようになった。 
                     
                     七百七十年、程なくして称徳天皇は崩御されたので、藤原百川[ふじわらももか 
                     
                    わ]等相議して天智天皇の御孫白壁王を迎え皇太子と為された。 
                     
                     白壁皇太子は、宝亀元年、七百七十年、道鏡を下野国[しもずけのくに]薬師寺 
                     
                    別当に左遷され七百七十三年、配所にて没した。 
                     
                     白壁皇太子は和気清麻呂、広蟲姉弟を召還せしめやがて位に即かれた。 
                     
                     白壁皇太子は第四十九代、光仁天皇、宝亀元年、七百七十年、即位す。 
                     
                     平城京も光仁天皇のとき、七百八十一年を以て終わり、我が都城と最も関係が深 
                     
                    くなる平安京の時代を迎える。 
                     
                     桓武天皇は奈良時代の平城京から弊害を少しでもなくし、人心を一新し臣民に対し 
                     
                    良い時代を迎えようと初め都を山背[やましろ]の長岡に遷されたが、和気清麻呂等 
                     
                    の建議により延暦十三年、七百九十四年、十数年掛かり完成した当時宇太村と称し 
                     
                    た現在の京都の地に遷都して平安京と名乗られた。 
                     
                     平安京新都は平城京より規模が大きく大内裏は都の西北に位置し、皇居諸官省庁 
                     
                    は其の内側にあった。 
                     
                     中央には朱雀大路があり、左京、右京に分け、市街地の区画は整然としていた。 
                     
                     此のときから一千七十有余年、明治二年、東京に遷都するまで,安徳天皇の福原遷 
                     
                    都と大和の吉野遷都を除き、槻ね歴代の都と成った。 
                     
                     平安京遷都から平家の滅亡まで、約四百年間を平安時代と云う。 
                     
                     愈、平安京の時代を迎えるが、特に都城盆地周辺の特筆される奈良時代の出来事 
                     
                    は少ない。 
                     
                    <21ページ> 
                     少なくとも奈良平城京で定められた大化改新の影響は推古天皇の時代、五九二年 
                     
                    頃、聖徳太子が摂政と成られたころ朝鮮、支那の制度に倣い冠位十二階、憲法十 
                     
                    七条を定められた時、それから五十有余年孝徳天皇が即位された六百四十五年、 
                     
                    初めて年号を決められ改新の発表を行ったが、此の五十有余年は政権、政策を遵 
                     
                    守させる実験的な段階であったと私は感じられる。 
                     
                     急に大化改新を臣民に守らせるということでなく、国体と中央政府に揺るぎない安 
                     
                    寧秩序の手ごたえを感じれば国家は安泰であるはずであるから、此の建前を認め 
                     
                    ながら大化改新を実行したと思う。 
                     
                     此れは国民側にとって既に日常、慣れた言い訳のできない状態にあったか、納得 
                     
                    していたかである。 
                     
                     南九州の都城盆地を中心とする地域は、同じ日向の国でありながらここを除いた 
                     
                    地域と若干異なっていたように見える。 
                     
                     記紀に見られるように古代、上古の時代、景行天皇の熊襲親征に基づく征伐、日 
                     
                    本武尊の熊襲征伐、仲哀天皇の熊襲親征[神功皇后が武之内宿禰と謀議して吉 
                     
                    備の鴨別に熊襲を討たせた]とあるは、もちろん南九州とわ云え、此の地を指すで 
                     
                    あろうし]今にして記紀についてとやかく言える時代が到来したが、過去二千年に 
                     
                    及ぶ心の負担は此の地のものにとって無意識の負担であり、はやく解決しなけれ 
                     
                    ば成らない問題である。 
                     
                     二千年とは景行天皇以来と云う意味である。 
                     
                     都城周辺の県民もこぞって此の事実関係を調査して否定する論拠を述べるべき 
                     
                    である。 
                     
                     話は横に滑ったが、古代日向は南九州全域を指していたようである。 
                     
                     それが証拠に大宝二年、七百二年、薩摩が日向から分立、和銅六年、七百十三年、 
                     
                    大隅が日向から分立した。 
                     
                     大隅は肝付、曾於、大隅、姶良の四郡からなるが、此の四郡と都城の関係は今の 
                     
                    宮崎市やその周辺郊外よりも、深くつながっている。 
                     
                    <22ページ> 
                      先祖の話に及ぷとき此の四郡の話に終始することは驚きであり、桜島の灰の話 
                     
                    がいつもあることは領ける論拠である。 
                     
                     大宝律令の後、和銅元年は七〇七年であるが、それ以前すでに郷村制度は確立 
                     
                    していたが、手の加えられた郷村制度が発布された。 
                     
                     それは郡−郷−保−戸−個人、から、郡−郷−里−保−戸−個人、である。 
                     
                     此の個人が問題である。 
                     
                     個人の管理さえしっかりしていれば後は上に上に報告されて行くだけである。 
                     
                     何故個人が大事かというと、大化改新の主文には口分田、班田収受、租の法とい 
                     
                    う法律が堅く書かれているからである。 
                     
                     此れは前述したがもう一度ここに記して見る。 
                     
                     口分田は人毎に分かち与える田圃を云い、男には二反四畝、女には一反六畝と 
                     
                    定め、班田収授うの法は、男女共に一定の田圃を分かち与え、その人が死亡すれ 
                     
                    ば授けた田圃を返却する法律を云い、人が生まれて六歳になれば、男には二反四 
                     
                    畝、女には一反四畝を分かち与えて耕作させ、六年毎に取り調べると云う法律であ 
                     
                    る。 
                     
                     租税は田地の収穫中より稲一反二畝につき、二束二把を国に納めると云う法律で 
                     
                    ある。 
                     
                     逆らって法を犯すと、大宝律令によると刑罰は、苔[むち]−杖−徒ー流−死、があり、 
                     
                    君父に対する罪が一番重い。 
                     
                     個人の集団を管理するものが戸主であり、男子が成長すわは近くに分家し、分家 
                     
                    親族は数十人に及んだ、 そして此の数十人を一戸としたのである。 
                     
                     戸というのは今は殆ど視られないが、部落に相当したと思われる。 
                     
                     二、三十戸を統括したものを保と称した。 
                     
                    <23ページ> 
                      此れは少し前の小字である。 
                      
                     五保を以て里とし、これは町村に該当する。 
                      
                     普通、三から五里四方を以て郷を為し、数郷が一つになって郡を置いた。 
                      
                     日向には五郡、二六郷、七一里と成っている。 
                      
                     都城地方の北郷、中郷、南郷とるのはその名残である。 
                      
                     三股院、真幸院は郷名と同じで、その郷のうえに諸県と云う郡名が付された。 
                      
                     保の長を保長、里の長を里長、或いは里正と云い、有力な戸主を専任したと思 
                     
                    われる。 
                      
                     郷の長を郷長と称したが、これは豪族より専任したと思われる。 
                     
                     中郷の部分的地域は変動が見られ、後代梅北は南郷の中に見え、安久の昔の 
                     
                    役場付近は南郷に長く含まれていて又、梅北付近は三股院に属していたことも 
                     
                    ある。[中郷村史] 
                     
                     天平年間は七二九年−七四九年の二〇年間、聖武天皇の時であるが、豊前の 
                     
                    国宇佐八幡の臼杵封田、宮崎封田の文字が見えるが、記録こそ見当たらないが 
                     
                    僅か四、五年の間に都城盆地に突然平安の権力と結び付く大荘園が現出する分 
                     
                    けがなく、我が都城にも取見山山麓を中心とした田部屯倉が高千穂峰と帯方郡、 
                     
                    楽浪郡の天子に捧げるために卑弥呼の一族が狗奴国との争いを避けるため、 
                     
                    魏の国の駐留軍最高司令官長政の推挙により男鈴山山麓川南に大移動を敢行 
                     
                    したが、従わなかった大部族は営々、中郷にと止まり田部を頭に山田、大根田、 
                     
                    志比田、南郷に河川の氾濫を避けた都城盆地周辺に天然の水資源を利用して 
                     
                    営農していた。 
                     
                     その後二、三百年、確立した朝廷は思うようにならない都城を中心とする隼人一 
                     
                    族を苛めに掛かり、西都に本拠を置いた。 
                     
                    隼人討伐軍は朝廷の名の元に度々権力を振るい農作物を略取したように見える。 
                     
                     権力を有する西都の日向は此れほど自然に恵まれた都城の農耕民族のこの当時 
                     
                    の歴史記録を一切残していない。 
                     
                    <24ページ> 
                       どの文献も日向は貧しいとのみでみる。 
                     
                     爾来二百年、外的に度々犯された都城は貧困のどん底に喘いだ。 
                     
                     そこに平季基と云う救世主が現れた。 
                     
                     敗者の歴史は日向の中央に何も残されていなかったが、墾田、開墾の跡地は見事 
                     
                    に残されていた。 
                     
                     美辞麗句、当時の日向の歴史を語る人はいるが、都城の詳しい過去を云う古代歴 
                     
                    史学者はいない。 
                     
                     大淀川の源流を有し、高千穂峰を中心に仰ぎ、鰐塚山系から東山岳、西山岳に取り 
                     
                    囲まれた都城盆地は南に抜け穴、広大な緩やかな南斜面の平地、海抜七、八十メー 
                     
                    ターの大隅半島を抱えていた。 
                     
                     当然海進の心配は何もいらない。 
                     
                     都城の大荘園は強き武将に見守られて見事に復活し、今尚、終戦直後から平成も県 
                     
                    を代表する農業大国で有る。 
                     
                     港岸に面した日向灘の寒村と農耕条件が全く違うのである。[此の表現は壱千年前 
                     
                    の事だから許してください]聖武天皇の天平十二年、藤原の不比等の孫,藤原の広嗣 
                     
                    [ひろつぐ]太宰少弐、奈良朝廷の臣であったが、武智麻呂、不比等の四子の没後、 
                     
                    法相宗の僧、玄 [俗姓は阿刀氏アト、七百十六年、入唐、七百三十五年帰朝、興福寺 
                     
                    に住まいして法相手宗を弘めた。僧正に任じられ、寵遇を蒙ったが、藤原広嗣と隙有り。 
                     
                    後太宰府に逐割れ、筑紫観世音寺に寂。] 、吉備真備[奈良時代の学者。朝廷臣下。 
                     
                    本姓は下道[しもつみち」真備、七百十六年遣唐留学生として入唐、七百三十五年 
                     
                    帰国、孝謙天皇の信任を受け遣唐副使として再び渡唐、その文明を伝え、大学釈尊 
                     
                    の礼を定め律令を算定。従二位。世に吉備大臣と云う。」を除き藤原氏の勢力を挽回 
                     
                    しようとして太宰府に拠し、挙兵したが破れ肥前にて直ちに誅殺された。 
                     
                     日向の古文書に、天平十二年、七百四十年,藤原の広嗣の乱に大隅、薩摩、豊後 
                     
                    の軍が広嗣に従うとある。 
                     
                     天平宝字五年、七百六十一年、筑紫の国に鎧、刀、弓矢を急なときに備え増強させ 
                     
                    ている。 
                     
                     大化改新のとき駅馬、傳馬のことは既に前述したが、日向の国には延喜式に十六駅 
                     
                    が現れる。 
                                    
                    <25ページ> 
                     十六駅の内都城の中郷の近くに既に他の駅に先駆けて三股駅、と島津駅の二つの 
                     
                    駅を有していたのである。 
                      
                    広い日向の国の中でこの様な近距離に二駅も儲けられたのは、平季基が万寿年間 
                     
                    [一〇二四から一〇二八]に後年広大な島津御荘と呼ばれる荘園を開発し、群を抜 
                     
                    いて早く関白藤原頼通を頼り寄贈したのが始まりである。 
                     
                     平安京における藤原頼通の権力は絶大なものが有った。 
                     
                     時の関白、藤原頼道とはどのような人か、平安京の時代を辿れば浮き彫りにされて 
                     
                    くる。 
                     
                     平安京の始祖、第五〇代、桓武天皇には三人の皇子がおられ、第五一代、平城天皇、 
                     
                    第五二代、嵯峨天皇、第五三代、淳和天皇を云う。 
                     
                     藤原氏の初代鎌足、息子不比等は朝廷に仕え近代日本建設に貢献した。 
                     
                     不比等の娘、宮子は文武天皇の夫人となり聖武天皇の生母となった。 
                     
                     宮子の妹、光明子は聖武天皇の皇后となり孝謙天皇の生母となった。 
                     
                     不比等には四人の男子がいた。 
                     
                     武智麻呂[むちまろ]は南家、房前[ふさざき]は北家、字合[うまかい]は式家、麻呂 
                     
                    [まろ]は京家を起こした。 
                     
                     これを藤原氏の四家と云うが、北家に冬嗣と云う人が出て、その子供に長良、良房 
                     
                    、順子の三人がいた。 
                     
                     第五十二代、嵯峨天皇の皇子は、第五十四代、仁明天皇に即位、第五十五代、文徳 
                     
                    天皇と第五十八代、光孝天皇をもうけた。 
                     
                     藤原良房は兄長良の子供、基経を養子に向かえ、実子明子を文徳天皇の女御とし 
                     
                    て差し出した。 
                     
                     女御とは中宮の次ぎに位し、天皇の寝所に侍らした高い位の女官である。 
                     
                     平安中期以後は女御から皇后を立てるのが例となった。 
                     
                    <26ページ> 
                      第五十五代、文徳天皇の女御として立った明子は、第五十六代、清和天皇の 
                     
                    生母である。 
                     
                     藤原冬嗣の子、良房は文徳天皇の人臣にして太政大臣に就いた。 
                     
                     文徳天皇が崩御して良房の実子、明子がもうけた皇子を第五十六代、清和天皇 
                     
                    として即位させた。 
                     
                     清和天皇が即位した御年は九歳であり、良房は人臣として初めて摂政の立場に 
                     
                    立った。 
                     
                     第五十七代、陽成天皇は清和天皇の皇子であるが、陽成天皇は前天皇と同じ御 
                     
                    年九歳で即位され、良房の養子、基経が摂政として立ったが、陽成天皇にはご病気 
                     
                    があり、執務に耐えられない事を知って基経は此れを廃して光孝天皇を立てられた。 
                     
                     第五十八代、光孝天皇は第五十四代、仁明天皇の第四皇子である。 
                     
                     八百八十四年に即位され高齢のため三年で崩御された。 
                     
                     孝徳天皇の後、その御子、第五十九代、宇多天皇が即位したが、御年長じ摂政を置 
                     
                    かず、徳に勅してあらゆる政務は悉く基経の手を経ると定められた。 
                     
                     此れによって初めて藤原家に関白が渡ったのである。 
                     
                     藤原家は外戚の権力を以て、天皇ご幼少の折り摂政となり、ご成長されると関白と 
                     
                    なる慣例が施行され、政権を握り、藤原一門は朝廷の要職を占めた。 
                     
                     その理由から、その他の名門、旧家はしだいに衰えて行く始末である。         . 
                     
                     宇多天皇は藤原氏の専横を憤慨され基経の薨去後、関白を置かず政務を司り、 
                     
                    菅原道真を登用して藤原氏を抑えようと努められた。 
                     
                     宇多天皇はそれからしばらくしてその皇子、第六〇代、醍醐天皇、御年一三歳にお 
                     
                    譲りになり、髪を沿って法王と称された。 
                     
                     醍醐天皇は藤原基経の子、時平を左大臣に、道真を右大臣に任じ、二人を並べて 
                     
                    政治を執行させられた。 
                     
                    <27ページ> 
                      道真は学問、徳共に優れ、政治ににも明るく民心の声望を集めた。 
                      
                    法王は密かに天皇と相談して道真を関白に推挙しようとしたが、道真は此れを固辞 
                     
                    した。 
                     
                     時平は此れを聞き、藤原菅根と謀議して、今上天皇に次のように申し上げた。 
                     
                    「道真は天皇を廃して、天皇の女婿賓世親王[ときよしんのう]を立てようとしている 
                     
                    。]と告げた。 
                     
                     天皇は此の話を聞くと誠であると居じられて、道真を太宰権帥[だざのごんすい] 
                     
                    に貶[おと」された。 
                     
                     道真は配所にて三年の後、薨去した。 
                     
                     東風吹かば、香り起こせよ梅の花、主無しとて春を忘するな        道真 
                     
                     去年今夜清涼秋思詩編独断腸[去年の今夜、清涼に侍らす。秋を思う詩編 
                     
                    は独り断腸す]                                     道真 
                     
                     恩賜御衣今在此捧持毎日拝余香[恩賜の御衣を今、ここに捧げ持ちて、毎日 
                     
                    余香を拝す]                                      道真 
                     
                     
                     醍醐天皇は政治について励まれ、慈悲の心深く、寒い夜の事、天皇が着けて 
                     
                    いる衣を取り民の苦を思われた。 
                     
                     政治を執務されて三十有余年、天下は太平で有り、世に延喜の治と云う。 
                     
                     さて此の平安京を振り返り日本全体の動きを検証して見ることにする。 
                     
                     @平安遷都以来中央は泰平がつづき、官庁の朝臣下の生活は蒙奢な遊有楽に耽り、 
                     
                    国政は乱れる方向にある。 
                     
                     A地方の状況は班田収授の法は廃れ、荘園は国司の支配を受けない私有地が各地 
                     
                    に起こり、国司は重税を課し私利私欲を謀り、人々の生活は苦しくなり盗賊が各地に 
                     
                    横行するに至る。 
                     
                     B此の当時の荘園は、権門、勢家、社寺に属する私有地であり、納税の義務は発 
                     
                    生しない土地を云う。 
                     
                     C皇族の賜姓が起こり、桓武天皇は皇弟諸勝親王に広根、皇子岡成親王に長岡、 
                     
                    皇子安世親王に良峰の姓を賜り、臣下に列っし、垣武天皇から出たものを平氏、清 
                     
                    和天皇から出たものを源氏と云う。 
                     
                    源氏、平氏、藤原氏等朝廷にて志を得られなかった臣下の人々は、多数、国司となり 
                     
                    地方に下がり、任期が満了となっても中央に戻らず地方に残り豪族となり、土地や民 
                     
                    衆を私物化し自らを守衛、此れが武家の起源で有る。 
                     
                    <28ページ> 
                      平家の系図は桓武天皇上り始まり、葛原親王、高見王、平高望と続き此処で三人 
                     
                    の子、国香、良将、良文の系統が生まれ国香は貞盛、良将は将門、良文は忠頼、 
                     
                    忠常と続く。 
                     
                    源氏の系統は清和天皇より始まり、貞純親王、源経基、源満仲と続き此処で二人の 
                     
                    子、頼満、頼信の系統が生まれた。 
                     
                     六十一代、朱雀天皇のとき平良将の子、将門は東国にいたが京とに上り摂政膝原 
                     
                    忠平に仕え、検非違使[けんぴいし]になることを願い出たが断られ怒って承平五年、 
                     
                    九三五年、伯父国香を殺害し、天慶二年、九四〇年、遂に朝廷に背いて下総の猿 
                     
                    島「さじま]に據し、勢力を盛んにした。 
                     
                     此れと同じ天慶二年、伊豫の国の嫁、藤原純友[ふじわらすみとも]も、また伊豫の 
                     
                    日振島に據し朝廷に背き、南海山陽の沿岸を荒らした。 
                     
                     朝廷は藤原忠文を征夷大将軍と為し、此れを平将門の討伐に出兵させた。 
                     
                     此れらの軍隊が現地にまだ到達を見ないまま、国香の子、貞盛は兵を出し、下野[し 
                     
                    もずけ]の押領使、藤原寿郷[田原藤太]とともに天慶三年、九四一年、平将門を滅 
                     
                    ぼした。 
                     
                     次いで天慶四年、九四二年、源経基[みなもとつねもと]、小野好古等も藤原純友を 
                     
                    征伐した。 
                     
                     此れを承平、天慶の乱と云う。 
                     
                     此の乱の平定の功により、源経基、平貞盛のそれぞれは、鏡守府将軍に任じられ 
                     
                    此れが発端となり源氏、平氏の名前が天下に響き、騒乱が勃発する度に朝廷は源平 
                     
                    二氏を派達して鎮圧した。 
                     
                     朱雀天皇の後を受けた、第六二代、村上天皇は深く御こころを政治に注ぎ天下良く 
                     
                    治め、天暦の政と云う。 
                     
                     菅原遭真が左遷された後、藤原氏は益々中央に勢力を持ち、頻りに他家を排斥し政 
                     
                    権を独り占めにした。 
                     
                     村上天皇の皇子、第六三代、冷泉天皇のとき、藤原氏によって左大臣源高明は太宰 
                     
                    権帥に左遷された。 
                     
                     
                    <29ページ> 
                     
                      村上天皇の皇子、第六四代、円融天皇のとき、藤原氏に依って源兼明が左大臣 
                     
                    を罷免された。 
                     
                     此れは著しい例であるが、中間、下級の職に有っては、頻繁に行われた。 
                     
                     藤原氏は、第六三代、冷泉天皇より第七〇代、後冷泉天皇に至るおよそ百年の 
                     
                    間、即ち冷泉天皇御即位の九百六十七年から後冷泉天皇が薨去された一千五 
                     
                    十六年の間、皇室の外戚として摂政関白の要職を占め、家門は益々繁栄し、他の 
                     
                    追随を許さなかった。 
                     
                     藤原氏の系図を藤原忠平から示して見る。 
                     
                     藤原忠平は実頼、師輔[もをすけ]を生み、実頼は頼忠、師輔は伊イン、兼道、兼家 
                     
                    、安子の四子をもうけ、安子は村上天皇に嫁ぎ、皇后となり、冷泉、円融両天皇の生 
                     
                    母である。 
                     
                     伊インは懐子をもうけ、冷泉天皇の女御となり花山天皇の生母である。 
                     
                     兼道は皇子[君子]を生み、君子は円融天皇の皇后である。 
                     
                     兼家は道隆、道兼、道長、超子、詮子の五子をもうけ、道隆は伊周、隆家、安子の 
                     
                    三子をもうけ、安子は一条天皇の皇后と成る。 
                     
                     道長は頼通、教通、彰子、妍子、威子、嬉子の六子をもうけ彰子は一条天皇の 
                     
                    中宮となり、後一条、後朱雀天皇の生母、研子は三条天皇の中宮、威子は後一 
                     
                    条天皇の中宮、嬉子は後冷泉天皇の生母である。 
                     
                     超子は冷泉天皇の女御となり三条天皇の生母である。 
                     
                     詮子は円融天皇の女御となり一条天皇の生母である。 
                     
                     以上、第六〇代、醍醐天皇から皇室の御系図を纏めると藤原氏の係わりは以下 
                     
                    のようになる。 
                     
                     第六〇代、醍醐天皇は二人の皇子を、第六一代、朱雀天皇、第六二代、村上天皇 
                     
                    として即位させ、村上天皇は二人の皇子を、第六三代、冷泉天皇、第六四代、円融 
                     
                    天皇としてそれぞれ即位させ、冷泉天応は二人の皇子を第六五代、花山天皇、第六 
                     
                    七代、三条天皇として即位させ、円融天皇はその皇子を、第六六代、一条天皇として 
                     
                    即位させ一条天皇は二人の皇子を、第六八代、後一条天皇、第六九代、後朱雀天皇 
                     
                    としてそれぞれ即位させ、後朱雀天皇は二人の皇子を、第七〇代、後冷泉天皇、第七 
                     
                    一代、後三条天皇としてそれぞれ即位させた。 
                     
                    <30ページ> 
                     さていよいよわが故郷、都城と藤原道長、頼通親子の関係が大荘園を通じて此処 
                     
                    にクローズアップされるが、もう少し此の時代、京の都の大パノラマを考察する必要 
                     
                    がある。 
                     
                     藤原氏一門も決して表面上の華麗なる一族とは言えない周囲の気配りは想像を 
                     
                    絶するものがある。 
                     
                     京の都を代表する華麗なる一族を演じるためには、地方に張り巡らされたネットワ 
                     
                    ークが有効に作動し、実権を一手に掌握する必要がある。 
                     
                     都城の平の季基が短期の間に大荘園を完成し、中央に認められたのは地元農民 
                     
                    の協力無くして考えられない。 
                     
                     宮崎県の或る文献に、都城の荒地を耕すために太宰府近辺の福岡から人が集め 
                     
                    られたのではなかろうかなどと書き、当時日向にそれほど人がいなかったと云う人 
                     
                    がいる。 
                     
                     日向の国とは何なのか。 
                     
                     日向全体で考えられるほど当時の地域は交流されていたのか。 
                     
                     それ程近代化されていた、開かれた日向全体であれば、今のシーガイア等七、八年 
                     
                    せずして県民協力の元に黒字に転換させることができる。   
                     
                     昔の因習を抱えたブロック別の基本的な仕組みを打破できず、悶々としている今 
                     
                    を見るとき翻って過去が蘇る。 
                     
                     平の季基は当時の寵児であり、何故島津家が鹿児島を造ることができたのか、 
                     
                    系図を追いかけるばかりでなくその苦節を振り返る 
                     
                    とき、宮崎を重ねると良く解る。 
                     
                     藤原氏の全盛は反面藤原氏の他家排斥の専横と同時に進行し、藤原氏一門の 
                     
                    争いを招いていた。 
                     
                     しかし道長、頼通親子二代にわたる栄耀栄華は他の追随を許さず、独立独行頂 
                     
                    点を極めた。 
                     
                     
                    <31ページ> 
                     
                      藤原道長は、一条、三条、後一条三天皇に仕え、三人の娘は三天皇の中宮となり 
                     
                    、後一条、後朱雀、後冷泉三天皇は外孫に当たる。 
                     
                     道長の政権は二〇余年の長きにわたり、藤原一門は全て栄え全盛を極めた。 
                     
                     道長は諸国に課して京の都に法成寺を嬢立し、此処に住まいしたので世に御堂 
                     
                    関白と呼ばれるに至った。 
                     
                     道長の子頼通も、後一条、後朱雀、後冷泉の三天皇に仕え、政権を握ること五〇 
                     
                    有余年、父に劣らず栄華を極め宇治に壮麗なる平等院を建立し、今なお平等院の 
                     
                    一郎である鳳凰堂は現存し、世に宇治の関白と称された。 
                     
                     以上長々と平安京の都について書き記したが、個人、の人間性とか、地方文化の 
                     
                    発展性とか治外法権的な独立国を意味する言動は別として、都の朝廷で定めた法 
                     
                    律はいつの時代も必ず如何にそれが不本意な案件であれ個人の考えでは計り知れ 
                     
                    ない国のトータル的な発想の基に、我々個人に犇々と忍び寄りやがて順応されて行く。 
                     
                     だから平安京のことはあれは京都と決めつけるわけにはいかない。 
                     
                     正しく都城にも平安京が押し寄せていたのである。 
                     
                     此の建前から京都を見ると決して私が京都ばかりを書いていないということがご 
                     
                    理解いただけるはずである。 
                     
                     奈良や京都で決められた法律が、実は一千年前とは云え貴方のゼッケンナンバー 
                     
                    として入力されていたのである。 
                     
                     狩り衣に烏帽子を着けて馬に跨がり、刀を差した偉そうな大臣が数十名のお供を引 
                     
                    き連れ実りの刈り入れの状態を視察にやってきた。 
                     
                     馬上を見上げる農民は、此のお米はあんなに偉い人に差し上げるお米だからそれ 
                     
                    までは大事に扱わなければいけないと思う人と、苛酷な労働を虐げて偉そうに馬に 
                     
                    乗ってぞろぞろやってきてと大臣を誹謗する場合があるが、此の思いが普通である。 
                     
                     実は此処にすべての法律が横たわっているとは、気が付く方がまれである。 
                     
                    <32ページ> 
                      まして気が遠くなるほど離れた此の地において何が都の法律かと思う人々は、 
                     
                    何も百姓ばかりでない。 
                     
                     此の考え方は、知識階級である地方豪族や都落ちした例えば太宰権帥[だざい 
                     
                    ごんのつい]や日向国司、弁済使等地方派遭役人に蔓延して行った。 
                     
                     桓武天皇は皇族の賜姓を行い更に天皇の系統から出た家柄を選別して平氏と 
                     
                    名乗らせた。 
                     
                     平氏の中に朝廷で志しを得ることが出来なかったものは、多くはそれぞれ全国に 
                     
                    別れ多くは国司となって地方に赴き、任期が過ぎても命令に背き帰着せず地方に 
                     
                    留まや豪族となるに至った。 桓武天皇が即位されたときから政務が終わり薨去さ 
                     
                    れる間は七百八十一年から八百六年の二十五年間である。 
                     
                     都城の開拓者、平季基について万寿三年、一千二十六年、三月二十三日、太宰 
                     
                    府解に、従五位下太宰大監季基とあり先祖を都に持つ平家一族であることは役人 
                     
                    の立場から見て明らかである。 
                     
                     だからこの日、都に帰着するのを諦め前々から役所の執務を担当していたころ、 
                     
                    日向国府の国司の情報を基に租税の課税対象に都城の噂が余りに少なく記録も 
                     
                    なく、ほんの少し前には隼人の征伐に出掛けるとか穏やかならぬ話ばかりである。 
                     
                     しかし古代王朝にまつわる天尊降臨の地としては都を発つときの餞[はなむけ]の 
                     
                    言葉として同僚からぜひ高千穂の峰は直接遥拝したいものである等とおだてられ、 
                     
                    あれから幾年月帰朝命令に背いてまでも最早今のときに都暮らしは此の地に着任 
                     
                    して所帯を持ち子を為してでは気の重いことである。 
                     
                     従五位下とはどのくらいの地位であろうか。 
                     
                     [従]は主たるものに属するもの。中心とはならないもの。位階で、同等級において 
                     
                    正の下に位することを表す語。従はひろいとも云い、位階の正、従のうちの従。古く 
                     
                    は大、広にわけたからこう読む。 
                     
                     位階とは勲功、功績或る者又は在官者、在職者に与えられる栄典の一種。六百四 
                     
                    年、推古天皇のとき、隋の制度に倣い制定。 
                     
                    明治憲法下では一位から八位まで各々正、従があり十六階ある。 
                     
                     
                    <33ページ> 
                     
                      位は天皇の地位、皇位を云う。官職の地位を云う。親王、王、諸臣の朝廷における 
                     
                    着座の高下の標示。位階。 親王には品[本]と云い、一品から四品まである。 
                     
                     諸臣は一位から初位[そい]まであり、一から三位には各正、従があり、四位以下は 
                     
                    更に上、下に分かれ初位には大、少があって、計三十階にわかれた。 
                     
                     さて此の位階によって従五位下太宰大監平季基を職責から判断することにする。 
                     
                     従は主の下であるから此の場合支店長か、部長か課長の下と解釈すると課長の下 
                     
                    と解釈出来る。 
                     
                     諸臣の五位の下、初位の大であり係良か課長補佐と見ることが出来、監は日向の稲 
                     
                    穂の租の監理担当者である。 
                     
                     年齢を見ると神柱由緒に[平朝臣大監季基、梅北の荒れ地を開墾して此処に第宅を 
                     
                    構える。万寿三年丙虎正月季基、家の門を建てようとして当村、大吉山より門柱を引く 
                     
                    、片ほどを五百人にて引けども動かず。一千人で引く。 
                     
                     時に季基の女子六歳なり。出でてこれを見て忽ち狂気になる。] 
                     
                    この文から見て子供の六歳は世代の交代が三十歳とすると季基の年齢は三十数歳 
                     
                    と見受けられる。 
                     
                     彼は三十四、五歳の朝廷、太宰府支店日向担当租税監理係長という国家公務員、 
                     
                    エリートサラリーマンである。 
                     
                     季基は地方官、日向国司、郡司を呼び届け出のない隠された日向南部について緩く 
                     
                    煎じ詰めると、日向中央に抗する都城が明らかとなり、年貢の帳尻を隼人狩と称して 
                     
                    都城で合わせていることも白状した。 
                     
                     都城の穀倉地帯は前述したが、大淀川の源流や志布志に注ぐ分水嶺を有し、取見 
                     
                    山、田部の部落を抱えて健在である。 
                     
                     後年、南の郷、中郷が荒れ地でと云うのは、実り豊かと云うことを伝えると困る人 
                     
                    がいたからである。 
                     
                     延書式の駅を二つも抱え中郷や志此田に置かず、少し離れた河川敷の側に置いた 
                     
                    のは何か策略を感じる。 
                     
                     万が一太宰府の査察を受けたときの弁解が必要である。 
                     
                    <34ページ> 
                       軍馬二十頭の政府供給や、見回り兵士の配備は国司、郡司の別途収入にも 
                     
                    つながる。 
                     
                     平季基は胸中を悟られず、役人の高官の立場を利用して鳥見山の山裾の長者 
                     
                    とであった。 
                     
                     当時の百姓は損得無くして米を植え、野菜を植え昔からの方法で営々と毎年の 
                     
                    繰り返しをだれに遮られることもなくするように、生まれたときから体は慣らされて 
                     
                    いる。 
                     
                     しかも彼らは搾取される立場からいつも村の長者に守られて、寄り添うように信 
                     
                    じている。 
                     
                     いつも恐ろしい駅の見張り数十名の武士と郡司を引き連れ、馬上豊かに京の雅 
                     
                    を漂わせた高級役人二人を見て、長者は一も二もなく平伏した。 
                     
                     一人は勿論、平季基、後の一人は弟、平判官良宗である。 
                     
                     記紀に纏わる神武天皇の奈良の二山、鳥見山の発祥が此の地であることを初 
                     
                    めて知らされたのである。 
                     
                     霊峰高千穂は雲に聳えて季基を全身出迎えている。 
                     
                     季基は今の荘園が中央と以下なる関係にあるか長者が納得するまで事細かに 
                     
                    密談した。 
                     
                     既に国司、郡司は季基の手の内である。 
                     
                     季基に任せることにより寒村の苦しみから少なくとも解放され、中央からの責め 
                     
                    はなくなる。 
                     
                     季基はつぶさに南郷、中郷、志此田、大根田、山田、庄内、高崎、高城、山之口 
                     
                    、三股の穀倉地帯を見聞した。 
                     
                     見事に開墾された田園は今、季基の手中に収まろうとしていた。 
                     
                     賢明な長者の協力により大荘園の第一歩を踏み出した季基は、外敵を防ぐ方法 
                     
                    として五穀豊饒を祭る神、神社連設を考えた。 
                     
                     農民と結ふ最良策である。 
                     
                     霊峰高千穂を見上げる都城盆地の図田帳を片手に、平安中期の朝廷、宇治の関 
                     
                    白太政大臣、最高権力者を訪れることに成功した。 
                     
                    <35ページ> 
                      此のころは国司の重任、及び売官は何の答めもなかった。 
                     
                     第七十一代御三条天皇は一千六十八年から一千七十二年の四年間即位されたが 
                     
                    、生母は三条天皇の皇女であり藤原氏に何の愕りも無く、専ら政治に打ち込まれた。 
                     
                     此のころから荘園は益々増大し、朝廷の歳入減少は著しく、天皇は記録所を設け 
                     
                    て荘園を調べ、正しい証文の無いものは認めず、又新しく荘園を開くことせ禁じ、国司 
                     
                    の重任及び売官を禁じ、節約を行い贅沢を戒められた。 
                     
                     季基が都に詣で、関白、頼通に謁見したのは万寿三年、一千二十六年であるから四 
                     
                    十数年時代が早い。 
                     
                    頼通との会談は大成功を収め、伊勢粗宮外宮の守御紳豊受大神を奉じて西国三十 
                     
                    三国の守り本専を都城、神柱神社に鏡座させることに成功した。 
                     
                     此の当たりのことを神柱由緒は次のように述べている。 
                     
                     [我は伊勢の外宮なり。此の地にて衆生を護らんとす。速やかに社を建て神柱と称す 
                     
                    べし。伊勢の国に問え。日向国庄内益貫に割れを祀れ。 
                     
                    この年季基伊勢に至り、神宮に告げて神体を奉じて帰る。美を尽くす。万寿三年九月 
                     
                    九日神を勧請す。爾来、祭祀怠らず。 
                     
                    この時伊勢内宮は出羽国荘内に託宣あり。内宮は東三十三国を護り、出羽荘に現れ、 
                     
                    外宮は西三十三国を護り日向荘内に現る。 
                     
                    此処に日本国二柱神と云う。] 
                     
                     季基の名声は高まり農民の活躍は目を見張るものがあった。 
                     
                     同時に都の援助も大きく農民を護る兵の数も群を抜き、日向国司、郡司は全て季 
                     
                    基の手足となった。 
                     
                     宇佐∧幡宮についていささか古文書に異議を述べたいところ今回に限り割愛し、 
                     
                    古文書を参照する。 
                     
                     [季基島津御荘開拓の時、長元年中創建して御荘の鎮守とす。近衛殿御荘の領 
                     
                    家たる時に崇敬ありて、神柱社と当社との収造費は御荘の財入を以て弁じ自余の 
                     
                    課役も免じること正応中、島津荘官のを上状にみゆ。島津御荘に放いて特に尊重 
                     
                    の社なり。 
                     
                    <36ページ> 
                     春日神社は益貫馬場の突き当たりに神社跡がある。創建は和銅六年共云われ、 
                     
                    万寿から見ると四七〇年も前になる。 
                     
                    藤原氏の氏神に当たり、季基荘園開拓のおり創建したと思われる。 
                     
                     貴船神社は八幡跡の東方に[きむれいん]と呼ばれる場所があり、西生寺の末寺 
                     
                    と有る。梅北益貫に有った。 
                     
                     若一王神社は橋野に有り、万寿三年創建と有る。 
                     
                     西生寺は梅北西生寺部落に遺跡有り。仁安二年、二六七年、伴朝臣梅北兼高の創 
                     
                    建。住職は尋誉上人。宗旨は天台円宗流。本尊はインドの月盖長者[げっこうちょうじ 
                     
                    や]の鋳た阿弥陀如来で一尺五寸の金の立像で有る。 
                     
                     当寺は小松内府平重盛の開基。脇寺四三坊。鎮守日吉山王社、当寺の後山中に有り。 
                     
                     正応寺は安久に跡を残す。仁安元年、一一六六年、の建立で有る。当寺の本尊は薬 
                     
                    師如来で、傳教大師の作と云われ、延暦寺の本尊、越前、栄山寺の本尊と合わせ、 
                     
                    大師彫刻三体と称す。当寺は天台宗の寺院として開山。梅北兼高が島津荘の宰をし 
                     
                    ていたころ、近衛氏の命を仰ぎ創建、開山は禅慶和尚と云い、兼高の三男、伊賀坊と 
                     
                    も称す。 
                     
                     島津荘園、領家の藤原氏で忠実、忠通、基実と相次ぎ死去し、当家の安泰を祈願、 
                     
                    建立したと云う。 
                     
                     此処のところを三国名勝図絵抄写と云う古伝書によると次のように書き残している。 
                     
                     医王山知足院正応寺領主館寄り辰巳一里七八町安久村に有り。本尊、薬師如来、 
                     
                    傳教大師人唐の折り赤栴檀[せきせんだん]の霊木を彼の土に得て一花、一香三体 
                     
                    の作にして大師彫刻三体中の一なり。 
                     
                     三体とは、一は比叡山延暦寺の本尊、一は越前図栄山寺の本尊、一は当寺の本 
                     
                    尊此れなり。 
                     
                     初め天台宗にして開山を禅慶和尚と云う。近衛氏藤氏島津御荘を領せしとき荘内 
                     
                    に創建せり。この時御荘の宰は伴兼高と。兼高は男五人なり。長子晶兼は父の職を 
                     
                    触ぐ。次は兼盛、後無し。次は伊賀坊、次は堅者坊[じゅじゃぼう]、次は兼盛と云う。 
                     
                    都に出て僧となる。兼高は伊賀坊、堅者坊を江州天台宗三井寺に住まわせ仏教を 
                     
                    学ばせる。 
                     
                     大僧正覚円、三井寺の長吏たり。覚円は承徳二年遷化、御荘領家宇治関白近衛 
                     
                    藤原頼通の第六子なり。 
                     
                     その後僧覚忠天台座主より三井の長吏となる。又領家師実、頼通の弟なり。覚忠 
                     
                    は自六十二年承文中に遷化。 
                     
                    <37ページ> 
                      又領家近衛藤家の人出でて僧となり三井に居る者四人、曰く僧智、僧、永実、 
                     
                    僧仁登、僧覚実、此の四人皆師実弟なり。 
                     
                     兼高伊賀坊をして三井に学ばしむ。蓋し此の縁を以てなり。然るに応保二年より 
                     
                    仁安元年の五年の間、御壮領家藤公師実の子忠実、忠通、孫の基実の三世、相 
                     
                    次いで死す。故に仁安元年三井寺座主二品親王[疑覚忠が師弟]、天台の僧禅慶 
                     
                    等をして傳教大師手刻の薬師像を奉じきて、寺を島津荘内に創建し、十二坊を連ね、 
                     
                    日吉山王社を鎮守とす。 
                     
                     島津荘は宇治関白頼通に始まると雖も、財部深川[末吉に深川と言える地あり俗に 
                     
                    探川村と云う]等の荘は忠通の時に加え領す。故に忠通は荘に功あり。因にその法 
                     
                    諡をとりて知足院と号す[忠通の法諡を知足院という]。 
                     
                     正応年中島津荘官言状に所謂当御荘寺社絵図及び造営彼寺社云云見えたるに、 
                     
                    その寺社とあるは此の正応寺及び下条の西生寺を指し、其社とあるは神柱宮と宇佐 
                     
                    八幡とを指せるべしなり。 
                     
                     十二坊名を言う。宝幢坊、宝泉坊、善福坊、善蔵坊、宝地坊、大智坊、井上坊、常善 
                     
                    坊、宝釈坊、座禅坊、大輪坊、竹中坊。 
                     
                     和銅元年、六〇八年、今を去る一千四百年前のことである。 
                     
                     宮崎県都城が日向の時代、郷村制が郡郷保戸個より郡郷里保戸個に改められた。 
                     
                     郷村制から判るだけでも一千四百年、歴史ある郷名であったが、都城の中郷は付近 
                     
                    の度重なる町村合併により昭和四十二年三月三日遂に歴史のみ残す幻の郷の名を 
                     
                    残し化野[あだしの]の露と消えた。 
                     
                     大化改新については詳しく前述したが、大化二年、六百四十六年のことである。 
                     
                     口分田、班田収授の法、租、庸、調、駅馬、傳馬の制度、法律は六百四十六年成 
                     
                    立を見たが、六百八年の郷村制確立前の旧郷村制の時既に今の豊満町、中郷田 
                     
                    部で神田を耕作し皇室、公廟の農役を司っていた。 
                     
                     此の田に生じた稲の初穂を鳥見廟に捧げる御供府の役人がいて例祭に献上した。 
                     
                     奈良に鳥見山が二山有り、榛原の鳥見山、桜井の鳥見山で有る。 
                     
                     何れも神武天皇に係わる山である。 
                     
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                     神武東征の折り、桜井の鳥見山に陣幕を張り、榛原の鳥見山で金鵄の加護により 
                     
                    戦勝を見た。 
                     
                     奈良では例祭に盛大な祭りを執り行っている。 
                     
                    神武天皇の生誕地、我が宮崎は年に一度の神武祭りを見るには見るが、生誕地 
                     
                    の特定を見ない。 
                     
                     神武天皇の存在は時代的にも諸外国の文献からも似合わないが、もし宮崎の都 
                     
                    城田部豊満の鳥見山と凡そ七百kmも離れた奈良の鳥見山二山が、コンピューター 
                     
                    グラフィツクで山の頂上を三点、さらに精度を高める奈良県御所の国見山の頂点の 
                     
                    合計四点を直線で結ぶとほとんど狂い無く繋がる。 
                     
                     多分此の現象は偶然だと一笑に付す人が大多数と思えるが、ではどれ程の偶然を 
                     
                    数揃えると偶然でなくなるのか私は知りたい。 
                     
                     此の現象はライト兄弟が航空機を開発したころより遥か二〇〇〇年の昔から、九州 
                     
                    や奈良で行われていた。 
                     
                     勿論、宮崎にも多数見られる。 
                     
                     古代、上古や古墳時代は此の現象を利用して時代が推移した。 
                     
                     最後に我が故郷、宮崎都城の平安の英雄平季基が関白大政大臣藤原頼通に献上 
                     
                    した我が国に比類のない日本最大の大荘園は、文句無く八千五百六十四町にも及 
                     
                    ぶものであった。 
                     
                     今に残る都城の雅な名前は、京の都の頼通が感謝の念を込めて遥か離れた郷愁 
                     
                    に因み都の一字を進上したに相違ない。 
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