邪馬壹國 6九州の神社仏閣古墳旧跡と結ぶ国見山
  都城の邪馬壹國
                            著者  国見海斗 [東口 雅博] 


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 宮崎県串間市今町は穀壁を発掘した場所である。

 又、帯方郡京城かIb東南、邪馬壹國高千穂に発した直線が延長し、到着した所と穀壁

の発掘場所が同じである。

 宮崎県日之影町右下りにある国見山一三九二mの頂上から、宮崎県児湯郡県立自然

公園尾鈴山一四〇五の頂上目がけて直線を発すると、尾鈴山の頂上を通過した直線は

宮崎県西都原古墳群の中央に至る。

 直線を延長して宮崎県那珂郡鰐塚山山地北端日南市の西側の雄鈴山七八三に向ける

と頂上に達し更に直線を進行させると串間市今町の穀壁が発掘された場析に至達する。

 上記の重要な特徴は、国見山が介在して直線を構成し、次に示す国見山も又三国志の

作者、陳寿が著した魏志倭人伝の重要な部分、韓国、倭国の国々と関係し、文章で内容

の説明された国々を直線で網羅していることである。

 ここでは象形文字を使わず、単純に解釈しその事実を列記してみよう。

 [倭人は帯方の東南大海の中に在りて、山島に依って国邑を為す。]

 上記の文全てが、東南の中にまず盛込まれ、[山島]の[島」が[鳥]と[山]の組み合わ

せを使っている事実である。

 郡より倭に至るの郡は、帯方郡のことであり、東南の直線の出発点発である。

 [其の北岸、狗耶韓国に到る]は、其の北岸の其のについて説明すると、倭国其のもので

ある。

 到着した狗邪韓国の上空を東南の直線が通過していく。

 [初めて一海をはかる。千余里、大海国に至る]の大海国は現在の対馬である。

 東南の直線は対馬の中央部を通過して行く。



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 [初めて一海を度(はれる)。]

[度]の文字は古代、測ると云づ意味を成した。

一海を測るとは、初めてと云う限り測ることが初めてであり、此の際海を渡るだけを指してい

ない。

一海を測る千余里は狗邪韓国を出航した船の着岸する港が対馬の上対馬町西泊港である。

一千余里の一割が百余KMとすると狗邪韓国、今の鎮海から西泊港迄、距離も約百キロ

位である。

[又、南一海を渡る。千余里、名付けて瀚海と日う。 一大国に至る。]

 西泊港を南の方向に百キロ位行くと、壱岐の郷ノ浦に着岸する。

 東南の直線は、郷の浦の横をすり抜けていく。

 [又、一海を渡る千余里末盧国に至る]

 末盧国は現在の松浦郡であるが、東南の直線は東西松浦の県境と、伊万里の上空を

完全に通過していく。

 又、倭人伝は方向を示していないから、東南の直線の関係から百余キロを佐世保に取る

と丁度郷ノ浦近辺から 船を出し佐世保に着岸すると数字的に良く、直線のまま進むと五

〇KM程で本土に上陸することになる。

 東南の直線が通過する伊万里湾は、魚鰒を捕まえるには適した浜辺である。

 東南陸行五百里はおよそ五十キロの距離であるが、五十キロ陸行すると伊都国に至る

と書いてある。

 丁度、佐世保の東南五十キロのところにある諌早は、一大率が海の検察をする場所と

して最適地である。

 前は橘湾、後は大村湾、西は東シナ海五島灘、東は有明海と島原湾、諌早は海に囲

まれた大海港で有る。

 東南の直線は、東側の目前の有明海を渡ろうとしている。

 [東南至奴国百里。]は、諌早の伊都国から東南十キロ位に奴国がある。[此の場合泉

、南奴国に至る、も可。]それは、千々石付近である。

 橘湾に面し、かなりの人家を収容することが出来る。


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  上空の東南の直線は邪馬一国の霊峰高千穂を目指して進行中である。

 [東行不弥国百里至。]、千千石の直東、十KM地点に島原が有る。

 不弥国は、島原である。

 東南の直線は、普賢岳と重なるように連なる国見岳の頂上を霊峰高千穂に向かって、

飛び立とうとしている。

 又、長崎・伊万里・鎮西の各国は、東径百二十九度五十三分位の所で南北に直列して

いる。

 これは、何らかの理由で、方位を重視している証拠でもある。

 序でに、投馬国のことも推測してみよう。

 [南至投馬国水行二十日。]

 上記の文は、南方に向かって船で二十日旅をすると、投馬国に至るということである。

 この文の中でどこから南へ出発したらよいか、起点はどこか、文の順序から云えば不

弥国ということになるが、ここを起点として南下すると、出航したとしてもすぐに天草諸

島の上島を横断したり八代海に出てもわずかであるが、水俣付近に上陸して、薩摩半

島を枕崎方面まで陸行しなければならない。

 条件はあくまで水行二十日であるから、この辺りから直接船旅で南下出来る港は、

島原半島の隣接地、長崎半島千々橘湾の千々を出航すればよい。

 不思議にも千々、は東経百二十九度五十三分の南北の直線の鉛直線に存在する。

 千々の北には、長崎、嬉里、伊万里、玄海、鏡西等の諸国が存在し、南北の直線に

中心地が全て連なる。

 南北の直線を南に四百七八十KM延長すると、東至百二十九度四十二三分の奄美大

島、笠利付近に到達する。

 一日当たり二十三、四キロ航海すると、二十日前後で奄美大島に到着する。

 正しくここが投馬国である。


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  以上朝鮮半島本土の帯方郡、狗邪韓国から始まり、倭国内の大海国、一大国、末盧国

、伊都国、奴国、不弥国、瀕馬国等の比較的、倭人伝の中で詳しく説明された国々は、東南

の直線と国見山が重要な基幹標識となり東南の方位を示したものであり、東南の標識にま

つわる松浦半島、島原半島、長崎半島を取りあげたものである。

 大海国や一大国を取りあげたのも同じ理由である。

 冒頭に以上の説明が全てではないが、はっきりと断り即ち前もって説明を加えている。

 [倭人は帯方の東南、大海の中に在って、山島に依って国邑を為す。]

 この文は、奈良迄含めて書いた文章ではない。

 相当狭義に限定して、方向と距離、バッググラウンドを主旨に説明に入った断りである。

 ここに示した千々石[ちちふ]と千々とは、場所が異なることを改めて申し述べておく。

 千々石は島原半島であり、千々は長崎半島である。

 太古と現代は、地名の使い方は全く変化して想像もつかないが、時には、場所を異にして

同地名が重なる場合も考えられる。

 その時、どちらかが折れて地名を変更すればよいが、地名の様に重要なその国を代表す

るシンボルの場合、新しい名称は別として、伝統ある因縁や柵[しがらみ]が多ければ多い

程、簡単に名称を変更するわけにはいかない。
 
 まして、古代の人種は倭国も含めて、筋が通らないと戦いも辞さない。

 例えば古代千千の名称が使用されていた場合、近くであればある程、お互いを気遣い、

上の千千とか下の千千とこのように表現した。

 又、速くても、どこそこの何々と言う様に呼び有った。

 此れは現代でも同じことが言える。

 人名、地名の類音、類義、類似は、身分の格差が大きい古代では、比較的多く見られ、

中国も同様だったに違いない。


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  例えば、奴国のことであるが、[伊都国から東南十キロ位の所に奴国が有る。]

 以上の文と、[次に奴国あり。これ女王の、境界の尽きるところなり。]

 此の二つの奴国の文章は、完全に繋がっているが、初めの文に、奴国から十KMばかり東

に行くと、不弥国に至る、と付け加えると、後の方の文の、[これ女王の境界の尽きるところ

なり]、とは、いっさい関係のない奴国が生まれる。

 即ち、奴国が二つ有るということが判明する。

 もう少し奴国を整理して見ると、次のようになる。

 一つは、伊都国から東南十KM件のところに奴国が有り、奴国から十KMばかり東に行くと

不弥国に至る。

 もう一つは、[次に奴国があり、此の国は女王の支配が尽きる境界線に有る。]

 此の二つの意味から奴国は、倭国に二つ有ると結論ずけた次第で有る。[南奴国の場合、

此の議にあらず] さて前者の奴国は前述したとおり、千々石[ちちふ]であり、後者の奴国

は、当時海進の無かった、福岡近辺から連なる北九州一帯で、南九州の狗奴国に匹敵す

る強大な国家を形成していた。

 但し伊都国から東南十KM位に奴国があるを、伊都国から東、十KM南奴国があると読

み替えても千々石に変わりない。

 やがて普賢岳国見岳を出発した東南の直線は一路高千穂峰を目ざして直進して行く。

 眼下には宇土半島、八代不知火海が広かってもう山間を砕いて流れる球磨川の激流も

手に触れる。

 人吉を過ぎるとえびのに入り、霧島山高千穂峰一五四七Mが雲を就き、東南の直線の

来訪を待ち焦がれている。

 ここで西暦二、三世紀の極東、東アジア情勢と女王卑弥呼の末路を紹介する。

 建安八年二〇三年公孫度と卑弥呼は、楽浪から邪馬壱国へ至る、当時の重要幹線、東

南の直線を整備し開発した。

 その年遅く、公孫度の息子、公孫康は東南の直線の下、帯方郡を設置した(現京城)。

 この頃、公孫氏は、後漢の臣下で有り、やがて公孫氏が独立を宣言するのは間もなくで

ある。


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  翌、建安九年、二〇四年公孫度は卑弥呼の支配下、韓わい族の国々が公孫康に引き

続き従うことを卑弥呼に頼み、この世を去った。

 公孫度が後漠の衰退に乗じて得た勢力は、遼東、山東、朝鮮南北、高句麗、夫余、鳥丸

、満州付近で有る。

 公孫度は此のころ、後漠皇帝に認知されないまでも、独立を前提として行動を起こしていた。

 公孫康が世を引き継ぐと、父、公孫度の遺産の強化と帯方郡の充実を計った。
 
 卑弥呼を中心とする帯方郡の強化は、倭国に対して兵力と資金力の提供を余儀なくさせた。

話はかわって、正始八年二四七年のことである。

 親魏倭王卑弥呼は、邪馬壹國の隣国の大国、臣下でありながら和親の無い、未だに後漢

の金印と子爵の位を認められた穀壁を有し、過去の栄誉に柵を持ち、親魏倭王に服従を否

定しつずけた、狗奴国と戦闘状態に突入した。

、狗奴国は呉の国の都、建業と画策している様にも見える。

 倭王卑弥呼は帯方郡太守新任の王斥に、殉奴国との戦況を報じた。

 太守王斥は早速、塞曹えん央史長政等,軍官を倭国に派達し、檄を為して此れを告諭した。

 檄は、昔、政府や官庁が人民を呼び集め、又、説諭するために出した木札の文章で、激

しさが伴っている。

 例えば激は水を表す三ずい偏と激しさを加えたきょうと一体となって、水か岩等にぶち

当たり砕け散って、白い水しぶきを上げる状態を表している、と言う意味である。

 即ち、檄と激は同義語で有り、木札が水しぶきにかわっただけで、激しさや厳しさの条

件は変わらない。

 古代中国の漢字そのものが有する表現力は、状況や状態が微妙に差異を生じても見逃

さず、感性豊かな明暗等適確な文字を選択し、現代の写真のような文章を描いたと思われる。

 それは象形文字に依り、明らかである。

檄は、檄が持つ或るいは与えられ、使用されなければ成らない状況に追い込まれ、シャッタ

ーを切った、その瞬間の被写体であると考えられる。


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 卑弥呼の場合、驚くような厳しい文章であったというから、戦瀾状態を非難するという甘

い状況では無かった。

 即ち、その状況に即応して、結論を与えた文書である。

 檄の木偏は、木札に書き示された木札そのものである。

 そこには、死の宣告が書き示をれていた。

 戦争犯罪人は、狗奴国からも引き出された。

 それは、男王卑弥弓呼では無かった。

 狗奴国長官狗古智卑狗で有る。

 狗古智卑狗は卑弥呼に属せずと言うから、血族や婚姻関係の者がいない、或いは、親戚

関係でないから、多分、喧嘩両成敗の立場から不属な最高責任者が選出されたのである。

 鬼道、大道の達人卑弥呼は死の置き土産に、長政軍務官から二人の王者の埋葬地の選

定を急ぐように命令された。

 彼女は、難無く狗古智卑狗長官の埋葬地に、串間今町王の山を選出した。

 思えば長い道程だった。

 公孫康が帯方郡を設置して、既に四十四年を経過した。

 女王卑弥呼の野望は、遠大だった。

 始めに邪馬台国の安定を目指し、狗奴国に開港を求めたが応ぜられず、胸中は呉の建業

と結び、楽浪から遼東まで倭国の手に収め、魏を攻め落とすはずであった。

 卑弥呼の脳裏に走馬灯が走った。

 魏の大和二年二百二十八年、公孫康の次男が第四代遼東方面の太守にたった。

という甘い状況では無かった。


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  名は公孫淵と言う。
 
 第三代公孫恭は、第二代公孫康が亡くなるとき、公孫淵が幼少のため、遺言により公孫淵

が立つ迄の暫定政権を委ねられたのである。

 魏の黄初元年二百二十年、後漢最後の年となり、曹操の子曹丕が漢の献帝より皇帝の位

を、皇帝にふさわしい人物として、中国思想に基ずき禅譲された。

 曹丕は、初代魏帝として立った。

 翌年、、遼東大守公孫恭は魏帝から、車騎将軍平郭侯の爵位を授けられた。

 公孫康の長男公孫晃は、後漢の人質として、魏にいたり魏の人質として洛陽に居住した。

 魏の大和二年二百二十八年、遼東太守公孫淵が着任した同年、呉の孫権は建業に都を造

り呉帝と称した。

 孫権は早速、公孫淵や卑弥呼に遺発をいれ、呉帝の即位と三国の立場を説明した。

 倭国女王卑弥呼は、この様な遼東半島の動きが、今後倭国に対してどのような影響をもたら

すのか、前触れのみえる動乱の事態を憂慮して止まなかった。

 国内の倭国情勢を思うと、狗奴国の動きは呉帝に傾向している様にも見える。

 女王卑弥呼は、狗奴国に同調し、直接東シナ海を渡り建業と結ふことは、重々国益が有る

と認めて止まなかった。

 唯、きがかりなことは、遼東、楽浪の動きを無視して、同胞を全て打ち捨て勝手な行動は謹

まなければ成らない立場でもあった。

 その為、公孫氏の動きに対する情報の収集には余念が無かった。

 更なることは、馬韓、弁韓、辰韓、倭国、燕の倭種、任那の倭種の軍人は、すべて倭国女

王の同盟に属している。

 兵力は十万人を下らない。

 一軍は一万二千五百人、師は二千五百人、壱軍は師の五倍である。


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  天子は六軍、大国は三軍、中軍は二軍、小国は一軍が中国の習いで有る。

 公孫氏も倭国に対する義は、礼節をもって迎えた。
 
 それほど東アジアの倭韓連合は大国だったのである。

 公孫氏の倭国に対する大義名分は、他の立場にも有った。

 叔父の遼東大守公孫皿恭、魏帝より車騎将軍平郭候を授けられたとき、公孫淵の父が

設置した帯方郡を軽々と、なんの紡いもなく倭国を無視して、魏帝に献上したことである。

 此のため倭国は魏の国の朝貢に詣でるには、まず魏の帯方郡太守に詣で、帯方郡太

守の指示に従い、一行と共に台に詣でる仕来りに成った。

 此の行為は、公孫氏が倭韓連合を切り捨てたと同じである。

 いまさら悔やんでも悔やみ着れない、愚かなしぐさで有った。

 天下の車騎将軍でも、拾万の兵力に勝る者は無い。

 公孫淵は叔父の企孫恭に、倭韓連合に対する今後の処遇と遼東の取るべき道を告諭

した。

 初代企孫度、二代目公孫康の野望でも有り、此の達成成らずして、次ぎの世に継いだ

のである。

 参代目公孫恭は、魏の車騎将軍の地位に目が眩み、己の欲に没した。

 此のとき、天下の星が消えたのを公孫淵は、胸中に受け止めた。

 公孫淵は微かな灯火を抱き、四代目遼東大守に君臨した。
 
 倭国女王卑弥呼は、後漢の命を受けて以来、公孫度の臣下と成り、公孫度の遺言によっ

て公孫康の臣下として、過去一千年の歴史に無かった大同江を南に波って、帯方郡京城

の設置を許したのである。

 女王卑弥呼の一方的にとった帯方郡設置の行動は、倭国の大国、狗奴国王卑弥弓呼を

以って、怒り心頭に達した。



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  女王卑弥呼と狗奴国王卑弥弓呼の確執の根が乾かぬ間に、公孫恭が三代目を引き継ぐ

に当たり、早くも後漢の禅譲により、正当を持って建った魏国とは云え、倭韓を無視して魏

国の機嫌を取り、易々と帯方郡を引き渡してしまうとは、さすが卑弥呼も堪忍袋の緒が切れる。

 一度は三代目公孫恭の臣下とし、身を授けた倭韓連合である。

 此の行為を痛切に感じ、危機を覚えたのは公孫康の実子公孫恭の甥、いまは成長した

公孫淵で有る。

 両者、相通じる思惑を秘めて、魏の臣下のまま片や倭国女王に、一方は遼東大守として

身を委ねた。

 時、同じくして立った呉の帝は、倭国の狗奴国の情報により、公孫淵と倭国卑弥呼そし

て魏の悩みを知り得た。

 此のころ、魏と呉は洪沢湖に流れ込む、いまの安微省准南の准河の辺で両岸に対峠し

、戦乱の最中であった。

 遼東半島の太守公孫淵は、呉の連発によって改めて遼東半島の重要な拠点を如何に活

用するか、思い知らされた。

 即ち、公孫淵は魏と呉に対して、両天秤を掛けたのである。

 魏も此のことを予想して、公孫淵周辺に対して、常に警戒を怠ることは無かった。

 秋は、更に西方にも配慮しなければ成らなかった。

 二二〇年、曹操の死を以ってその子曹丕は、献帝の位を奪い洛陽に都して魏帝と称したが

、翌年二二一年劉備玄徳も蜀漢帝と称して、成都に都した。

 中国三国のうち、蜀漢は最も小さな国だが、諸葛亮を宰相として天下三分の計をもち、

天下広しと言えども、軍師諸葛亮の右に立つ英雄はいないと云っても、過言ではない。

 司馬懿は魏国の百万を越える兵の中で、唯一人、諸葛亮に対抗し得る将軍である。

 名を司馬懿仲達と言う。

 三国の魏の名将で、のちに宰相になった。

 一七五年生まれ、二五〇年、七五歳で没、倭国、女王卑弥呼と同年代の人物である。


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  字は仲達、魏と蜀漢の戦いは司馬懿と諸葛亮との戦いであったとも言える。

 両英雄、幾度戦ってむ勝敗を知ることがなかった。

 魏の文帝は、西の守りに着く安心は絶対的といえないまでも、司馬懿の戦う姿は国内に

も反映して、益々強力な国家体系が確立された。

 漢の西方の諸国を総称して西域と言った。

 その中に大月氏と言う民族がいた。

 始めは、漢の西北境に国を有したが、匈奴に敗れて、その西方に大移動した。

 前漢の宣帝は武帝の雄志をつぎ、西域の大国、鳥孫と協力し匈奴を攻め、西域都護を置

き鄭吉を都護官とした。

 更に、西域三十余国を治め国威を認めさせた。

 後漢の中世の頃、大月氏国のカニシカ王は、西北インドを征服し、大月氏国の繁栄をもた

らした。

 王は深く仏教を信じ、大月氏国は此のころの仏教中心地と成った。

 後漢の明帝は六七年大月氏国に、使いを遭わして、仏経、仏像を求めさせた。

 明帝の頃から仏教は、中国で始まった。

 西域の僧侶が中国を往来して、翻訳等を始めたのは後漢の末頃で有る。

 前漢最後の皇帝は孺子嬰帝であるが、此のとき外戚の一族に、王蒙[おうもう]と言うも

のがいた。

 西暦八年、帝位を奪って、国号を新と号した。

 漢の景帝の遠孫、劉秀は兵を起こして王蒙の大軍を昆陽に打ち破り、王もうは乱兵に殺

された。

 新は僅か一五年で、滅び去った。

 西暦二五年、劉秀は帝位に上り、漢室を再興した。


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  洛陽に都して後漢の光武帝と称した。

 西暦八九年、王蒙の時代、西域[せいいき]が背い一てから百年を経過した。

 後漢の和帝は賓憲[とうけん]将軍を派遺して、再び力を伸ばし、班超が西域都護に任じ

られ、三十一年間西域に駐留し、漢の威力をその地に残した。

 班超が、シルクロードを開くのは此のころである。

 倭国女王壱与の時代、魏は塞曹掾史[さいそうじょうし]長政等一軍の一万二千五百人

を派達して、長政は倭国に二十年間駐留することになる。

 その時、臨時に置かれた都護府が現在の宮崎県西都市付近、卑弥呼が眠る西都原古

墳群近辺の西都原である。

 後漢の末期、十一代桓帝の時代、、外戚の力が弱まり、宦官の権勢が振るい、西暦百

六十六年、党錮の獄[とうこのごく]を起こして宦官を非難する諸名士を捕らえ、益々横暴

を極めた。

 霊帝の時、黄巾の賊が国中を騒がせた。

 宦官は袁紹によって滅ばされたが、しかしつぎに董卓が献帝を立てて、暴威を振るった。

 国中は、大困難な時代を迎え、群雄が並び立った。

 当然、西域や匈奴、倭国連合、その他の国までもいずれの国を支持するかにより、内乱

に陥った。

 動乱の最中、魏国は魏の太和三年二百二十九年十二月親魏大月氏王波調[しんぎだい

げっしおうはちょう]として、大月氏王波調に爵位を与えた。

 此の親魏の爵位の中身には、西域三十余国と蜀漢の関係が、大きく横たわっている。

 まず、第一は、蜀漢が西域と結ぷことを恐れた為である。

 第二は、魏と西域との共同作戦が、容易に組める場合が生まれ、蜀漢を挟撃することが

できる。

 此の理由から、魏国は大月氏王波調に、親魏大月氏王の称号を与えた。



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  さて、太和四年、二百三十年、魏王朝は、公孫淵を車騎将軍に叙任した。

 しかし、その頃すでに呉王朝の、極東傀儡にはまり込んでいた倭国の一部や公孫淵は、

魏王朝の車騎将軍の叙任は面はゆく、赤面の気持ちを隠し立てるのに汲々とした。

 魏王朝も公孫淵の心底を見抜き、時期を失するのを防いだ。

 公孫淵の立場は揺らぎに揺らぎ、魏の畏怖と呉の懐柔策に翻弄された。

 呉の公孫淵に対する懐柔策の真意は、魏に対する、遼東、山東、河北かのら挟撃にほ

かならない。

 魏わ未だ四面楚歌であり、真の味方の現れないことが、不気味である。

 二百三十三年、公孫淵は大司馬楽浪公に叙任された。

 此れは、魏国の政策的配慮であり、やがて孤立無援を意味するとは、公孫淵の決断の

なさでは、読み取る力やアジア情勢の雲行きの怪しさを、判断する力量等、全く、感ずる

ものがなかった。

 偶然とは言え、魏の青竜二年、二百三十四年八月、魏の西方五丈原で、諸葛亮は陣

中に於いて病没した。

 二百二十三年、呉と激戦中、蜀漢帝劉備玄徳を亡くし、次ぎに蜀の名宰相諸葛亮公明

が病没したのである。

 何という皮肉なことか。

 蜀漢は、暫く無きに等しい国と化した。

 蜀漢の千軍は総て退き、魏の大将軍司馬懿も京都賂陽に帰還した。

 青竜参年、弐百参拾五年、大将軍司馬懿は、魏国最高幹部三公の一人、大尉に叙せ

られた。

 魏国最高幹部会議で遼東、楽浪、倭国、帯方郡、高句麗等東方の見直しが、検討課題

として上程された。

 呉王朝の東方政策によって、呉に身を寄せた高句麓も、あっけなく魏王朝の揺さぶりに

より、魏に従属した。

 さて、後漢の乱れから生じた倭国大乱のさなか、後漢と倭国の共立によって即位した女

王卑弥呼は、公孫恭の政策上の失政から帯方郡を魏に委ね、帯方郡を通じ公孫恭、公孫

康の次子、公孫淵に従った。


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 公孫淵の魏か、或いは呉の選択は、重大な戦局を孕んでいたが、倭国女王卑弥呼は、

取り決められた通り帯方郡との折衝に怠りは無かった。

 帯方郡の指示に従い、倭国内の整備も行き届き、魏の寵愛は特別な感情が有った。

 しかし秋の京都、洛陽に直接詣でる様なことは、公孫淵の手前、絶対に行わなかった。

 その苦悩を帯方郡太守は、よく認知していた。

 振り返るに、公孫度も後漢の董卓の指示に従い、遼東大守として赴任し、卑弥呼もそれ

にしたがったのである。

 やがて、董卓の京都賂陽放棄と長安遷都により、情勢として、自立を余儀なくさせられた。

 あれから風雪五十年、未だ嵐止まず、世は混沌としている。

 景初元年二百三十七年、の事である。

 公孫淵は魏帝より独立して、自立するという通達が、倭国の卑弥呼に届いた。

 卑弥呼は早速、韓半島の師団に連絡をとり、燕、遼東、の種人、倭種に軍備の号令を掛け

、出動態勢に入った。

 勿論、公孫淵の手勢としてで有る。

 景初元年七月、遂に天下に、公孫淵は自立して燕王の名乗りを上げたたことを知らしめた。

 此れを機に報復の意思を固めた魏は、幽州勅使母丘倹に対し、遼東一度目の攻撃を命じた。

 しかし此のときの戦いは、倭韓連合の強力な活躍により、魏を敗退に追い込ましめたの

である。

 その翌年、景初二年弐百参拾八年正月、驚いた魏王朝は、将軍大尉司馬懿に出動の勅令

を発した。

 倭国女王卑弥呼は、幾度も呉を裏切りながら戦時下に有るといって未だ呉帝に援軍を求め

る公孫淵の節操の無い不甲斐なさに、一時は兵力を集結させたが、形勢を見て参戦するか

否か、判断することを決意した。

 将軍大尉司馬蕗は大軍を率いて遼東に向け出兵した。


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  戦果の模様を眺めていた倭国女王卑弥呼は、景初二年六月、大夫難升米を遺って、

帯方郡大守劉夏の指示を待った。

 此の重大な時期、女王卑弥呼が東アジアで決行した公孫氏に対する態度は、後世倭

国建国の始まりである。

 帯方郡太守劉夏は部下に代理させ、倭韓連合の代表倭国を魏の都、洛陽に案内した。

 それにしても公孫淵の都、遼陽の陥落は余りにも早く、八月には化野の露と消え果てた。

 魏の損害は無に等しく、公孫淵が戦国に生きる武将として如何に無能だったか、この敗

退が如実に物語っている。

 倭国女王卑弥呼は、親魏倭王卑弥呼の称号を拝受し、魏の臣下として、極東アジアに

君臨する。

 年月が流れ、卑弥呼は、水遠に現世を去るときが釆た。
 
 正始八年二百四十七年。西都原に葬る。  享年七十六歳。

 更に国見山について別の実例を示して見る。
 
 西臼杵郡の祖母傾き県立公園内の国見山と、熊本県水俣市の東方大関山の隣山、国見

山八六七は、お互いの高隈山 と巧みなほど連絡を取り合って、国の縄張りを演出している。

 祖母傾き県立公園内の、国見山を出発した南西の直線は、宮崎県諸塚村の高隈山九五

七に向かって直進し、その頂を確認して、更に南西に延ばして行くと、熊本県水上村の白

水滝、白水神社神殿の中央に到着する。

 次ぎの目的地は、熊本県須恵村の諏訪神社で有る。

 白水神社を飛び立った南西の直線は、山間の深い緑を抜けて諏訪神社に到達する。

 その頃鹿児島県鹿屋市亀間城跡を出発した、西北の直線は鹿屋市内の山、御嶽を過ぎて

、高隈山地の主人公高隈山の頂点に差しかかり、いよいよ本格的な西北の直進が始まる。

 鹿児島湾を渡り切ると国分市内に入り、鹿児島神宮境内の上空を通過する。

 更に進行を早めると、鹿児島県大口市内の高隈山四一二が前方に見えて釆た。



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  その頃、一足先に諏訪神社を出発した、南西の直線は、人吉市内を通過して高熊山四

一二山頂に着陸した。

 そして、間違いなくここ遺って来る、鹿屋市からの直線を待ち望んだ。

 鹿屋市からの西北の直線も又、山頂を見極めて、着陸態勢にはいった。

 先着している南西の直線に、クロスしながら西北の直線は着陸した。

 鹿屋の西北の直線は、南西の直線と語り終わると慌ただしくつぎの目的地に飛び立った。
 
 言うまでもなく国見山地の真っ只中、熊本県水俣市内の東、大関山の隣山、国見山八六

七山頂目がけてである。

 直線を保ちながら鹿屋西北の直線は、狂い無く国見山頂上に達した。

 此れは一つの地形をあらわす縄張りか。

 しかし私はそれだけとは思えない。
 
 此の直線付近に沿ってある道路の道しるべで、必ずなにか古代の遺物が、潜んでいるよう

に見えて仕方がない。

 更に国見山の働きを示す。
 
 祖母傾き国定公園内に有る大崩山一六四三と祖母山一七五六をむすぶ西北の直線は、強

力なパワーを秘めている。

 越敷岳一六四三を西北の直線が、舐なめるように通過すると神秘な阿蘇山の麓を守る阿蘇

神社の上空に達する。

 阿蘇神社から、熊本県鹿本郡菊花町の国見山一〇一八の山頂をはっきりと確認して、西北

の直線は本命、田川町の古代のロマン、吉野ヶ里遺跡を目指して、夢の軌跡は留まることを

知らない。

 左手方向には岩戸山古墳群も見えて来た。

 はやくもそこを後にして、大善寺、玉垂宮も後方に退いて行く。

 西北の直線は、三田川町上空に差しかかった。

 ここは吉野ヶ里遺跡の中央だ。

 西北の直線は、吉野ヶ里のエネルギーを補給して、神埼町に向かって、飛び立った。


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  エンジンは全開である。

 いよいよ佐賀県の東松浦郡に入り、浮岳八〇五の頂上を極め玄界灘に浮かふ幾つもの小島

を渡り、右に壱岐が広がり始めた。

 壱岐海峡から津島海峡東水道に入るころ、西北の直線は速度を増して、大韓海峡西水道

を渡り切ると、全羅南道の 目指す地占はもうひといきだ。

 ヨッチョン市上空を過ぎるとスンチョン市だ。

 西北の直線は、下降を始め、光州クワンジュ直轄市の上に突入した。

 大隅半島高山、内之浦の町境、国見山から鹿屋の御岳、桜島御岳を経由し、光州西北行

の直線もやって来る。

 両線の重なり出会う直交地点は、長城郡長城で有る。

 次に、宮崎県高鍋町の持田古墳群と国見山の関係を見てみよう。

 宮崎県の西都市や高鍋町近辺は、大小古墳群の集結場所で有る。

 それに倣い、神社仏閣も多く点在し、その関係を強くほのめかしている。

 国見山や名山もその一族となり、取り決めた古墳や神社、それぞれに、強力なパワーを持

つ直線を放出している。

 直線は長ければ長いほど価値の高い直線である。

 今、熊本県八代市に八峰山五七四と言う山が有る。

 一見、何のこだわりも無い、普通の山に見えるが、それが少し変わっている。

 八峰山を起点として、東南に直線を進めると、五木村が見えて来る。

 五木村の中に、大きな国見山一二四一が横たわっている。


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  東南の直線は国見山山頂に達し、更に引き伸ばすと中央山地国定公園を越え、宮崎県児

湯郡西米良村の烏帽子岳一一二六た到達する。
 
 烏帽子岳をでた東南の直線は、木城町を超えて高鍋町に掛かり、やがて岩戸の町を過ぎる

と、川南古墳の中央を通り、一跨ぎで持用古墳の中心地点に至るのである。

 魏志倭人伝のはなしをつづけてみよう

 原文で [世有王皆統属女王国]                            

 直訳すると世に王有るも皆、女王国に統属していると言う意味になる。

 一般的に訳されている[世」は、世間、社会、世の中とか時代、時世、俗事等である。

 [世」について、もっと別の解釈は無いものか。

 この原文に関係する前後の文はどう成っているだろう。

 ここに[世に王有るも々々」に続く原文を列記して見よう。

 [旧百余国漢時有朝見者。今使訳通三十国従。東南陸行五百里到伊都国。]

 直訳すると[昔、漢の時代倭国に百余の国の朝見者がいた。現在、使いが通って来る

内訳は、帯方郡に従う三十国である。東南に五官里進むと、伊都国に到る。]

 [世有王々々」を伊都国に限定すると、伊都国の王代々となる。

 しかし改めて、世に王有ると、断る必要が有るだろうか。

 又、世を、単に伊都国だけの代々の王と、解釈していいものだろうか。

 中国側から倭国を見て、[今、使が通って来るその内訳は三十国で、これらは帯方郡

に従っている。]と、わざわざ理を呈している。


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  当然、三十国のなかには邪馬壱国も含まれている。

 とすると、[世]とは何か。

[世]とは、代々とか世間、世の中等、一般的な[世]と解釈すべきか、ここが問題である。

[世]を、一千八百年程昔に戻して、象形文字から当時の意味に還元して見よう。

[世]とは、縦の棒一本の中央に黒い丸印を書き十として、それを三本平行に並べて三

十とした。

 本来は[卅]と同じで、三十又わ三十年のことである。

 話は飛ぷが、親と子の年代の差がおよそ三十年なので、人の一世代の意味にも使わ

れた。

 現代表記の国語辞典では、[卅]はソウ、或るひは三十、参拾を使う。

 即ち当時、中国では[世」と[卅」、[丗」は同意語として使われていた。

 結果は、[世有王]とは[世に王有るも]と現代国語の意味に依らないで[丗国に王が

いる、皆女王国に統属している。]言う解釈になる。
 
 しかしここで一つ問題が生じる。

 三十国に三十人、王がいるのなら当然だが、[女王国に統属す]となると、女王国の女

王が王として、主体性を持った十人の王の中に含まれていなければ、壱国計算が合わ

なくなって来る。

 そこで考えられるのが、倭国女王と耶馬壱国女王とは、同一人物でありながら主体性

が異なるということである。

 倭国は三十国を統属する立場に有り、邪馬壱国は倭国の中の一国で有る。

 女王卑弥呼は、倭国と邪馬壱国を兼務している立場に有ると、解釈すればよくわかる。

 この様に結論ずけると、[伊都国代々の王]と言う部分が消えて無くなり、倭国の王三十

人全員が、倭国に統属され連合国として、形成されていることを示しているのが浮き彫り

になる。

 又、伊都国の説明の中にこの文章が何故、紛れ込んで来たのだろうか。


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  人に又聞きし書いたと思えなくも無いが、魏志倭人伝其のものの文章の流れが、至る

所この様相を呈している。

 理由であるが、多分陳寿は、三国志六十五巻の中の蜀志、諸葛亮伝に、天子に対して

上表文を書いているが、勿論,魏

志倭人伝は、三国志の中の文章の一編であり、現在、三国志は大衆文学として愛読され

ているが、歴史書が、作成された目的は、あくまで天子に上表する公的な歴史書であり

、絶対権力者である皇帝が知り得たことは、文字が映し出す被写体を使用することによ

り簡素化する必要が有った。

 場合によっては、書く必要がなかった。

 倭囲については、当然多く皇帝の知り得た部分が有ったと思われる。

 其の部分が省略されたり、象形文字に変わったに違いない。

 我々にとって、省略された部分を詳しく書いて、残してもらえなかったことは、誠に残念

である。
 
 このような文体を戯曲的にまねて作成されたのが、古事記や日本書記の神代の部分で

あると思われる。

 陳寿の漢文で救われることは、漢字には一字一字に絵画が潜んで居ることを、当然の

ように認識しながら著乍してくれたことである。

 但し、ここで言う漢字とは、中国の歴史書を対象とした古代の漢字である。

 其の字の情景を読み取って行けば、例外と早く雛志倭人伝について、部分であるかも

しれないが、今まで解っていなかった難解な語句を、解明するのに役立つであろう。

 魏志倭人伝に関する限り、一言一句無駄な文字は、用いられていないように思われる。

 句読点が有っても無くても組み合わせを何度も繰り返し、漢字の羅列にこだわらず帯

方郡から読み直すか邪馬壱国から読み返せば、或る程度解明すをことができる。

 奥野正男先生の著書、邪馬台国紀行の表紙の中に[もしわたしの説のように、帯方郡か

らの日数を表したものだったとすれば々々」、と書かれた一文が掲載されている。

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 今から七、∧年前になるだろうか。

 宮崎市内在住の.日本ペンクラブ会員、詩人、南邦和先生に検討をお願いした[魏志倭

人伝解明]の原稿の中に、帯方郡から読み返す件を書いたところが有る。

 もちろん奥野先生の御説に渦、同感する一人で有るが、私も又誰の参考も無く、独自の

発想からこの文を書いたのであり、御理解頂きたい。

 因に、奥野先生の著書、邪馬台国紀行は、二年前、南先生から贈与されたものである。

 さて、話を本題に戻すが、これこそ私の発見であるが、漢字の成り立ち、即ち象形文字は

、魏志倭人伝の解明に、重要な役割を果たすことは、まず間違い無さそうだ。

 宮崎県南那珂郡の日向灘、日南海岸国定公園に面する鵜戸神宮は、日南海岸を訪れる

人なら、必ず参詣する有名な神宮で有る。

 古記によると五十代桓武天皇の時、天台宗、僧光喜坊快久は、勅命を受けて延暦元年

鵜戸の神殿三宇を再興し、勅号を鵜戸山大権現吾平山仁王護国寺と賜り、その昔、十二

代景行天皇のとき、天社、国社、神地の制が定められ、鵜戸の社号はこのときの草創と

も伝えられている。

 鵜戸の祭神は、鵜草葺不合尊で有る。

 鵜戸地域は、宇戸、鵜戸山の名で古くから知られている。

 鵜戸社の禄高は、四百三十一石一斗で鵜戸領と言う。

 古来、他国から侵犯されることもなく、領域は西は鳥居峠から水の尾[貝殻城]へ至り、

南は立石、北は小目井川内船底に、至る、広大なものでる。

 鵜戸神領内に金鳥山[日の神]と、玉兎山[月のかみ]が有り、総称して二神山と云う。


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  二神山伝記によると、坊園の西、山中の波止ヶ渓の下流、夏越川より東側の森林を金

鳥山と号し、西側の森林を玉兎山と号す。
 
 古来、日神、月神、この二神の名のある旧霊不測の地であり、総じて二神山と云う。

 これは、陰陽の密跡を示している。

 金鳥山の麓に小さな池があり竜池というが、豊玉姫を勧請する。

 側のせ草屋を豊玉庵と云う。

 今は見えないが、姥原旅館から港に向かって二〇〇M位の海中に、鵜居石と云う岩石が

在り、潮が引くと其処まで歩き渡ることができた。

 彦火々出見尊が、この石から釣り糸を垂れ給うたと云う。

 昭和四十年代、鵜戸港近代化拡張工事のため、破壊された。

 高さ二M横三、四Mぐらいの美しい岩であったと云う。

 鵜戸の母裳川も、伝承の在る川である。

 八丁坂吹毛井登り口の東側下には、鵜戸の祭神鵜草葺合尊の、産衣を洗ったところと伝

えられているところが在るが、現在八丁坂登り口と海岸参道の谷間となり、見る影もない。

 古来から伝わる神楽に、

 [安良太麻年於産気母裳川、武都喜達曾得傳千歳津良]婦

 [あらたまのとしをうみけりははもがわむつきとそえてちとせゆずらふ]

とあり、豊玉産屋の中にて、かような姿を見られたと恨みながらも、時が経つに従って夫や

愛児恋しさの余り,妹玉依姫をお子の教育に鵜戸に遣わされ、そのとき次の唄が添えられ

て居た。


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   赤玉は緒さへひかれど白珠の君が装い貴くありけり

 又、彦火々出見尊の御返歌は沖つ鳥鴨着く島に吾恋寝ねし妹は忘れし世のことごとに

 海幸、山幸にまつわる鵜戸神宮である。

 兄火照命が海幸、鵜火速理命が山幸で、兄弟の父は邇々芸命である。

 豊玉姫は夫の火遠理命[ほうりのみこと]のいる地上に来て出産するが、火遠理命は約束

を破り出産を見てしまう。

豊丸姫は大鰐の神体を見られたことを怒り、鵜草茸不合命[うがやふきあえずのみこと]を産

み海中に帰る。

 鵜草茸不合命は母の豊玉姫の妹、大依姫と結婚し四子をもうけるが、第四子が神武天皇、

神倭伊波礼昆古命[かむやまといわれひこのみこと]である。

 以上は、[我が郷土、鵜戸の史的歩み]を参照した。

 さていよいよ鵜戸にまつわる国見山、烏帽子岳、神社、仏閣、遺跡について、方向性を持

った一本の直線が上記の山岳、名所、古跡を三ヶ所似上通過するところを探るのであるが

、私の調査結果、価値のある直線がふくまれているので、驚いて居る次第である。

 鵜戸神宮をやや北西に取り直進すると、宮崎市内の平和台と皇宮屋宮崎神宮の、丁度

真ん中を突き抜けて、潮神社の社殿中央部に行き着く。

 潮神社は、まるで鵜戸神宮のために命名した神社である。

 更に進むと、西都原古墳群の中央に、達するのである。

 西都原古墳群を通過した北西の直線は、ズンズン伸びて二上山の麓、二上神社に達

するのである。

 やがて最終地点宮崎県東臼杵郡高千穂町、夜神楽の町の国見ヶ丘六五〇の中央に

止まる。

 何と不思議な直線か。

 すぐ思い浮かふのは、狗奴国の勢力範囲のことである。

                               120ページへ続く

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