都城の邪馬壹國
著者 国見海斗 [東口 雅博]
<120ページ>
或るいは神武東征のことである。
神武は東征する必要があったのか。
更に、何故、己の故郷、熊襲征伐を必要としたのか。
まず、日本古代史の中で私の一番いやな言葉は、熊襲征伐という言葉である。
第十二代景行天皇の親征、その皇子日本武尊は、天皇の命を奉じて熊襲を征した。
更に、仲哀天皇の皇后、神功皇后は熊製が叛するに及び天皇と共に西征、この行為は
東征した先祖の子孫が、まるで先祖の故郷に仇討ちを掛け、恨みを晴らす行為である。
これは記紀独特の創作であり、魏志倭人伝をまねた手法に相違なく、此の解明は別で
示す。
又、天武や持統の先祖の過去に対する尊敬の無さに、太安万侶が畏敬の念の立場に
立ち、収録したものである。
実は記紀と同様、鵜戸神宮から発せられた国見ヶ丘の北西の直線は、私の感じる限り
矛盾を含んでいる様に見える。
鵜戸神宮辺りは、古代狗奴国と思われる場所であるのに 何故、卑弥呼の墓である西
都原に立ち寄り、その上、邪馬台国は夜神楽の町高千穂だと、張り切っておられる方も
多数おられる。その町に、狗奴国の海国が他国の山間部に手を差し延べて、直線を構成
したのか、興味ある課題である。
しかし現実は現実として、認めざるを得ない。
まさか鵜戸神宮が、このように重要な働きをしているとは思いもよらぬ古代道路の目印
だった。
鵜戸の地名の由来について[郷土鵜戸の史的歩み]によると、次のように書かれている。
鵜戸域は、宇土とか鵜戸山の名で、古くから存在していたと記されている。
熊本県宇戸市は、いつのころ命名されたか知らないが、先祖のいわれが在って宇戸の地
名が残されて、現在にいたっているはずだから、この地を代表して、鵜戸神宮との関係を探
って見よう。
<121ページ>
宇戸市の宇は、高い屋根が湾曲している天地四方を表し、土は、土地の神を祭る盛土
の形である。
宇戸はこのような土の上に立つ、大楼閣の町を印象づける立派な知名であり、鵜戸神宮
のご神体が宇戸に通じる。
果たしてこの様な理由から、鵜戸神宮と直線の係わりを探ることにしたが、結末はどうか。
何分鵜戸神宮から、熊本県の八代海や島原湾までは、距離が在る。
何か発見できれば、価値のある直線になる。
まず目的の場所近くに、国見山や烏帽子岳が在るかどうか、確認を急ぐことにしよう。
少し離れていても放射状にあちこちの旧跡に係わりを持つ人気者の国見山が存在すれば
いいのだが。
多分地元には、故事来歴や伝説が有ると想うが宇戸郡宇戸市街地図を地図上で見る限り
何も見当たらない。
この辺りは古代から、阿蘇の噴火や島原の噴火に挟まれて、方位のはっきりした古代道
路が、存在した場所であるのにしかし何にも見当たらない。
ここを通って邪馬壱国や狗奴国、その他に道交を、開いていたはずである。
しかし、残念ながら見当たらない。
見当たらぬということは、何かが有って無くなってしまったのか、初めから無かったのか、
どちらかである。
あの地域で、初めから無かったとは言い切れない。多分何かは存在するはずである。
宮崎県日南、鵜戸の廃仏毀釈と神仏分離について、[我が郷土、鵜戸の史的歩み]を参照
して知れる範囲で書いて見よう。
廃仏毀釈とは、何だったのか説明すると、仏の法を廃してその上、釈尊の教えを棄却す
ることと有る。
明治元年、神仏分離令が発布されると、これに伴って、神社と仏寺の間に争いが始まった。
次第に激しくなって、寺院、仏具、経文等の破壊運動に至るまでに発展した。
我が国では、神の信仰と仏教の信仰は、神仏混とう、或いは神仏集合と云われ、奈良時代
に始まって以来、神仏分離令が発布されるまで、守られて来たのである。
<122ページ>
ところが明治政府は、明治初年、祭政一致の方針に基づいて神仏集合を廃止した。
この迷惑な法律の影響は、随所で見られた。
鵜戸神宮もご多分に漏れず、右往左往するに至った。
鵜戸の由来について前述したが、あらためて古記にもとめると、次のように書かれている。
人皇第五十代桓武天皇の御代、天台宗の僧、光善坊快久が、勅命を蒙って、延暦元年、
鵜戸の神殿三宇を再興し、勅号を[鵜戸山大権現吾平仁王儀国寺]と賜り、鵜戸の社号は、
第十代崇神天皇、或るいは第十二代景行天皇の御代、天社、国社、神地の制が、定めら
れたときではないかと云われている。
一般的に言えることだが、江戸末期まで現存していた仏閣が忽然と消滅し、古記には有る
が今は位置も分からず、当然、今の地図には、遺跡としても掲載されず歴史研究のうえに
おいても廃仏毀釈の法律は、全く情けない法律である。
又、国の伝統と文化の損失は、計り知れないものが有る。
まして、寺社例の無念さは、悔し涙であふれるばかりであったろう。
鵜戸神宮の損失を、ここに列記して見よう。
慶応四年参月拾参日[九月八日に明治と改元]大政官布告で神仏の分離が有り、拾七日
別当と権現号が廃止され、鵜戸山別当も廃止、社は仁王護国寺と分離、更に護国寺は、
明治四年正月、寺領没収、僧位僧官も廃止、吾平山護国寺は完全に消滅、山門及び十
二坊が毀却された。
しかも廃仏毀釈[はいふつきしゃく」後鵜戸山の諸仏像は、焼却又は破壊の憂き目にあった。
慶応四年九月八日、明治と改元。
<123ページ>
明治二年二月五日、鵜戸神社となる。
明治二年三月四日、鵜戸大神宮の直号を賜り度き旨、副書添付して、弁官事務所に奏
願口上書を提出した。結果は相成難しの指令があった。
明治七年三月二十五日、官幣小社鵜戸神宮となる。
明治二十八年十月二十九日、官幣大社鵜戸神宮となる。
熊本県宇土市の結論を示しておく。
宮傾県日南の鵜戸神宮と熊本県宇土市の関係は、直線の方位では発見できなかったが、
宇土市内に存する宇土城跡は守り本尊を置いている。
勿論、時代が若いから、国見山や烏帽子山の直線には関係なく、近県の山岳を活用して、
守護神となる神社を創建したと思われる。
宇土城を中心として、南西に二つの神社を率いている。
一つは宇土郡於呂口の水尾神社である。
一つは宇土城と水尾神社の間にある神合か神馬かどちらかの名前である。
この三点を結んだ直線を、北東の阿蘇くじゅう国立公園の山中、高岳の山頂目がけて飛
ばしてやる。
宇土城跡を北東に向けて出発した直線は、まず第一に待っている隈圧城跡の本丸跡に
達する。
本丸を直線が通過するころ、船野山三〇八の頂上が、目前に迫る。
更に船野山の頂上を突き抜けて北東に直進すると、城の守護神、益城町の城山四〇八
が歓待する。
それを受けて北東に進むと、阿蘇白水村の夜峯山九一三を通過して間もなく、阿蘇山高
岳の頂上に到達する。
熊本県宇土市は、宮崎県日南市の鵜戸神宮と余り関係を持っていなかったが、それでも
気になる直線が一本あるので日南市鵜戸神宮を発した直線は、熊本県八代郡東陽村の[
国見岳一〇二一]を抜けて宇土市の神合神社に到達して 此処で又、日南の鵜戸神宮に
話を戻してみる。
<124ページ>
鵜戸神宮の町、昔の鵜戸神領に二神山がある。
俗に吹毛井神山とも云う。前述した金鳥山の日の神と、玉兎山の月の神である。
この山間に夏越沢があり、沢の東が日の神で、西ノ森が月の神である。
即ち、男と女、陰陽両部の密跡である。
この地の部落を田向と云う。
鵜戸神宮から国見山を経由して小林市の陰陽石に至る直線がある。
小林で、野口雨情の歌った詩に
浜之瀬川には二つの奇石人には言うなよ語るなよ
と云う内容である。
真っすぐそそり立つ男のシンボル、高さ十七・五M、何と見事なものである。
女は周囲五・五M、これまたでっかい、そっくりさんだ。
一度は視てもそんはない。
まるで鵜戸の陰陽を、小林に彫刻したようだ。
扠、鵜戸神宮と国見山の関係を探ることにする。
−
鵜戸神宮を発した西北の直線は、鰐塚山地を斜めに横切り、青井岳が目前に迫ると、宮
崎県高城町の国見山四〇八山頂が重なるように見えて来る。
<125ページ>
その頂点を通過して、更に西北の直線を延長すると、やがて岩骨山三七二、高尾山三
六二の演点を見極め、野尻町を過ぎると小林の陰陽石に至る。
これは全く小林から鵜戸神宮に詣でる道標である。
奇石、奇岩を用いたこの形態は、奈良の酒船石や猿石、亀石等と同じである。
その他、鵜戸神宮が発するパワーを此処に示してみる。
其の一つは、宮崎県日南市の飫肥城の守護神は、地元雄鈴山七八三が介在した鵜戸
神宮である。
奇しくもこの三つは、完全に直線で結ばれている。
又鵜戸神宮と宮崎県の高千穂の峰を中心とした都城盆地、その中の三股町円野神社は
創建のとき、位置を決めるため誰か関係者が、特別に配慮したことを伺わせる。
霧島連峰高千穂峰その西の隣山、烏帽子岳九八八から東の右下がりに発せられた直線
は、円野神社を通過して、鵜戸神宮に至っている。
話題を変えて魏志倭人伝に話を戻すと、その始まりに、次のようなことが書かれている。
倭人は帯方郡の東南、大海の中の山島に在り、国邑をなす。
この文は、中国人が彼らの占領地、楽浪郡[現平壌]、帯方郡[現京城]から、倭国[現高
千穂峰を中心とした南九州都城盆地]東南直線の方向を示し、地理書の内容を持った歴史
書を裏ずける事実を述べている。
ここに示された東南の方向を、日本側の高千穂峰から、韓国平壌、京城の方向を視ると
西北を示すことになる。
前述したように、後漠の臣下が有する穀璧が、発掘された串間市今町から、次は同じ西
北の直線の奇跡を、高千穂峰の頂上を経由して、帯方郡に向け西北に進めて見ると、
次のようになる。
宮崎県串間市今町を発した西北の直線は、都城市内の母智丘神社、渡り鳥差し羽の
山鳥見山、記紀の金御岳を通過すると、漫字象形文字[山]を代表する倭国の起点、
霊峰高千穂の頂上に達する。
<126ページ>
更に延長して西北の直線を推し進めると、島原半島普賢岳、国見山に至る。
眼下には島原半島、長崎半島の各国々、伊都国、奴国、不弥国の国々が広がり、
投馬国行きの港も見える。
やがて、国見山を過ぎるころ、左手に末盧国の港佐世保が拡がる。
松浦半島をあとにして、西北の直線は一大国の壱岐に掛かる。
さらに海を波り大対国の対馬厳原町の町の中を貫通する。
もう一つ大海を渡るといよいよ朝鮮半島狗邪韓国の上空だ。
狗邪韓国は今の鎮海湾鎮海市である。
そのまま西北に直進すると帯方郡現京城ソウル特別市の中心地に至り、更に西北に延
長すると楽浪郡、現平壌ピョンヤンに至着する。
以上の文は帯方郡から高千穂峰に至る東南の直線を、反対に西北から順を追った直
線である。
宮崎県串間市の南、名谷と云うところに、七つ岩という岩島が海中から突き出ている。
七つ岩は地図の上では[七つ岩]と書かれているが、地元の人や都城の人は、[七つバ
エと]と云い、彼らの目印や景勝地に利用している。
実は前述した京城[ソウル]と高千穂を結ふ東南の直線は、次に示す二本の直線と不思
議なドラマを醸し出し、全く角度的に何の狂いも無く、平行しているのである。
七つ岩を西北に、榎原[よばら]神社に向かって直線を放つと、神殿を通過した後、宮崎
県三股町の御崎神社本殿を貫通する。
このまま西北の直線を、宮崎県高崎町の霞神社に進行させると、神社ご神体を通過して、
熊本県の国見山地に突入する。
<127ページ>
西北の直線は、国見山中の大平山一一四九の頂点を確かめ、更に推力を増して直進し、
人吉市の雨の宮神社中央に至る。
ここをゆっくり飛び立って、直線を西北に進めると、熊本県八代市の八代社、神前に至達
する。
更に、宮崎県日南市油津に、偶然というより仕方がないが、串間の名谷と同様七つ岩と
いう、海中から突出した岩島がある。
地元宮崎の人達は、串間と同じく岩の七つバエと云って、昔からよく知られた景勝地で
ある。
七つ岩を西北に油津神社の方向に直線を放つと、宮崎県田野町と南那珂郡の郡境の鰐
塚山百十九に差しかかる。
鰐塚を通過した西北の直線は、宮崎県の青い岳五六三、ケラガツカ四四九、一回目宮崎
県四家の国見山四〇八に到着する。
この山の演点を見極めた後、西北の直線は宮崎県須木村に至り、第二回目の国見岳七
四六の演上に留まる。
国見岳を離れた西北の直線は、五木の子守歌で有名な五木村の国見山一二四一第三
回目に至る。
この頂点を西北に飛び立った直線は、熊本県八代郡東洋村の郡境にある第四回目の国
見岳一〇三一の頂上に着陸する。
以上、帯方郡に向かう西北の線、串間の七ツ岩を起点とする各神社の線、日南の七ツ岩
を起点とする国見山連続の線、これら三本のそれぞれの直線は、偶然なのか、古代の人
の知恵なのか全く平行しているのである。
話を変えて、国見山と神社関係で、強力なパワーをもった北東の直線がある。
出発点は、宮崎県都城市の母智丘[もちお]神社である。
都城市内といっても、少し町外れになるが、桜の名所としては県内有数である。
母智丘神社を北東の方向に直線が出発すると、東霧島神社が待ち受けている。
<128ページ>
この東を[つま]と云い、地元では東霧島を[つまきりしま]と愛称している。
東霧島の由来は後にして、次町目的地に向かって出発しよう。
東霧島神社を北東に直線を延ばすと、やがて児湯郡西米良村、見原稲荷神社に至る。
更にこの神社の中央から、北東の直線にのって発すると、同じく米良村の金毘羅神社に
達する。
ここを最後に、北東の直線が更に進行すると、後は祖母傾き県立公園内の国見山一三九
二の大山が待っている。
東霧島神社は都城の北十五km程のところに在り、境内の様子は鬱蒼とした樹木で覆われ
、自然岩石で組積された鬼岩階段の乱れ張りは、百七十余段有り、ますます妖気を孕み、
古代を漂わせている。
境内には高崎町の文化財、古石塔群が神社の存在感を高め、霧島六社権現の一つとして
近県では名を成している。
主祭神は伊井諾命、創建は天長年間八百二十四年。
祭主伊井諾は、妻の伊井再が、火の神カグツチをお産したため女性器が火傷をして、それ
が原因で焼死した。
伊井諾は妻伊井再の焼死に深い悲しみを露にして、黄泉の国え妻を引き取りに行くと云う。
その怒りの恐さに驚いた鬼どもは、一夜にして鬼岩階段を築造したと云う。
境内の故有谷[ゆやだに]の小さな池の底に、祭神伊井諾が石と化した火の神を妻の仇と
して、十握の剣で三段に切り刻んだと云う。
その神石、裂け砕けた岩石が、池の底に沈埋している伝説が有る。[宮崎風土記]による。
ここで二、三神社パワーを紹介しよう。
大隅半島、肝属郡吾平町、吾平山丘陵から神社仲間のパワーが、発信している。
吾平山丘陵を北の方向に発進した直線は、輝北町の照日神社の神殿に至る。
社殿を出発し、また北に向かうと、板谷八幡の本殿に至る。
<129ページ>
さらに北へ直線を延ばすと、鹿児島県曾於郡財部町北股の、日光神宮で留まる。
宮崎県児湯郡木城町の新しき村は、武者小路実篤が開いた農村であるが、この近くに高
城城跡がある。
城跡を西南に向けて直線を発進すると、掃郡山一二二三の頂上を抜けて、小林市上の園
の陰陽石の頂点に達する。
更にそれを延長して、西南に向かうと、えびの市八重野の白鳥神社社殿に至る。
社殿から西南拉速力を増す七、鹿児島県姶良郡野坂の烏帽子岳七〇三に止まる。
鹿児島県東串良町の唐人古墳群、高山町の塚崎古墳群、大崎町の横瀬古墳群は、宮崎
県高鍋町小丸川河口から発した直線にのって、鹿児島方面に直進し、宮崎県宮崎市の生
目神社を経由して、そのまま鰐塚山一千百十九の頂上を確認、更に大隅半島鹿児島に
向かう。
やがて横瀬古墳群を貫き、唐人古墳群の上空を駆け抜け、塚崎古墳群の中央で留まる。
高山の塚崎古墳群は国見山の山裾にあり、国見山の威力を垣間見ることができる。
又、三つの古墳群に関係している人達は、一族であり、狗奴国の王族に間違いはない。
此の項終わり
|