都城の邪馬壹國
著者 国見海斗 [東口 雅博]
<一七一ページ>
法的に払い下げでも有れば、話は別であるが。
更に話を付け加えると、河原の岸辺に突き当たり、尚道路らしき地形が使用出来る
はずが無いのに整然と縦二〇〇M、横三〇〇Mの間隔で痕跡を残している。
又、串良町の辰喰と昭栄の間にある川は、川の岸辺に沿って小さな山が連なっている。
西側の小山は侵食されて崩落し山の形態は断崖絶壁をなし、川幅を広め、数十年
や数百年で現在の形になったとは思えぬ感が有る。
人の話だが山の上に道が有り、対岸の道路と一本の直線を成している形跡か有る。
今は、平坦部は畑や民家、その他は荒れ地のまま放置されたり、生活道路が造成
され、少し見たぐらいでは確認できないが、役所から頂戴した鹿屋市管内図を目で追
う限り、明らかに後世造営された建造物の上や、断ち切れた部分を結んでやると一本
の直線道路に復元出来る。
役所の紹介で、私が古道とか古代の区画と目している道路の拡幅や水路、、或るい
は道路の撤去の計画をされている区画整理事業土地改良区の方にお会いした。
此の道路は大正十二、三年頃、四、五年掛かって完成したと云はれ、戦後三十七、
八年頃水路工事が々々と話された。
その辺は、余り関心が無かったので詳しくは聞き漏らしたが、大正十二年九月一日
関東大震災大火災が発生し、東京では未曾有の大混乱だった筈なのに、国家の大
事業である笠野原の整備だけは、何の目的で着々と完成を目指していたのか、この
方の話は少し奇異に感じた。
唯、幼少のころの話をされて、「私が山の中で遊んでいるとき、使いもしない不思議
な道路があちこちにあった」と云う、有用な発言が有ったことを書き留めておく。
年齢は聞かずじまいだったが、既に五十半ばは過ぎた人の様に思えた。
<一七二ページ>
その後私の友人で、NHK文化センターの講師を務める郷土史作家三又たかしさ
んは、生徒さんを数回案内され、九州南部の謎の一つとして彼の頭の中に加えられ
ている。
又、友人の加藤一成さんは、宮崎の中学で理科の先生を停年退職されたが、学生
時代から地質学については特別の興味を持ち、九州地方の地質学のプロである。
彼を案内して鹿屋の河原の崩落や、道路綱を説明したが、古い部分について五十
年や百年の物でないという結論を出された。
沢山の人に見学頂きたいが確実な結論はないとしても、道路網が五十年や百年と
云う結論を出した人は居ない。
もう二、三年前になるが、前述の三又たかしさんと、鹿児島県国分市で発掘された
上野原遺跡、即ちおよそ九千五百年前の国内最大級と発表された縄文部落遺跡を
見学に出掛けた。
鹿児島県教育委員会、遺跡担当研究員に説明を受けたが偶然鹿屋の道路の話に
なった。
研究員は鹿屋に住んで居て、そのような道路が彼の庭先にあり、近隣の人達もいつ
のころからか、道路らしき空き地に家を建て、庭を造り住まいして居るという。
「余りに偶然なので、全くきずかなかった。何か有ると思うので早速調べて見る。」と云う。
その後、どう成ったか、鹿児島県庁にで掛けてみたい気がする。
さて話を魏志倭人伝に変えるが、この文の中に[計其道里当在会稽東治之東]と云
う文が在る。
直訳する前に象形文字から考察して見よう。
[計]は[言](言葉)と[十](まとまったすうじ)からなり立ち、即ちはっきりしたところ、
正確な場所を
示す測量数値を意味するぐらい精度の高いものを要求した。
[其]は此の場合邪馬壱国其のものを指示する[其]であり、文字の成り立ちから見る
と[ものを載せる台]、[一巡り」、[小さい]、[集める]等に使った文字であるが、此れ
らの内容の共通点は一点に集中させる、集中するで一致する。
<一七三ページ>
邪馬壱国の場合,限定された事柄で[其]、[計]を重ねて使用したとすると方位の
範囲は正確さを要求され、直線の距離に対する誤差の範囲はほとんど一%以下で
なければならない。
[道]は[行]くと、[首]で成り立ち、真っすぐに通っているを現す。
[里]は[田]と[土]を合わせた文字で、縦横の通路の在る村里の意味。
[当]は、旧は [用]と [尚]を合わせた字で有る。
二つの田の面積や価値が、互いに見合う、相当する意味を表すことから、正に何々
するとか、間違いなく何々するとかに使う。
[在]は、[土]と[才]、塞がるとを合わせて、土が積もって塞がることを表し、じっとそ
こに止まっていることから、物がそこに有る、又単に、有ると云う様に使う。
会稽当治は、三国志の著者陳寿の立場に立ち、魏志倭人博は三国志の一部であ
り、魏の国から物を見ず国外から物を見るということは有り得ぬことであり、国外とは
勿論、建業を都とする呉の国で有る。
揚子江を北岸と南岸に分けて、魏と呉が二分していたとすると、高千穂峰は北緯三
十一、九度位であるから、揚子江河口の島、崇明島[チョンミントウ]の北、啓東[チー
ドン」付近が魏の国の境界に当たり、ここが魏の国例の会稽東治の始まりで有る。
之は、[足]と[−」とを合わせて、足が境界線から出て行く様子を表した文字である。
[東]は、底の無い筒を紐で両先端を縛った文字で有る。
扠、以上の語訳から前文を直訳して見よう。
[邪馬壱国へ行く道をはっきり示すと、其の国は会稽東治から東に向かって引かれた
一本の線で、相対峠している。]
<一七四ページ>
即ち、揚子江河口およそ北緯三一、八、九度と宮崎県高千穂峰は北緯三十一、九
度位で魏志倭人伝の会稽東治と邪馬壱国の条件を、完全に満たしながら東西に向き
合っている。
会稽東治の東に海を越えて高千穂の峰が有るとしたら、帯方郡の東に何が有るか、
書き示して見よう。
現代地図の京城[ソウル]を真東に進行させると、日本海を渡り能登半島珠洲岬[す
ずみさき]を抜けて新潟県に入り猪苗代湖の北に有る磐梯山一八一九上空を通過して
、福島県原町の神秘の山、国見山五六四に行き着く。
帯方郡京城の中心地をおよそ北緯三七度四〇分位として、原町の国見山も北緯三
七度四〇分位に有る。
偶然とは云え国見山を研究している者に取って、ソウルの真東に国見山が存在する
とは幸せであり、符号が面白い。
原町の国見山の天空の直線が、神社や遺跡とどの様な拘わりかたをしているのか、
調べて見ることにする。
福島県原町の国見山五六四の東南に、相馬郡小高と云う町に薬師堂石仏群が有る。
石仏群の中心から天空の直線が北西に国見山頂点めざして飛立つと、国見山頂上に
至り、更に北西に延長する霊山八二五の頂上を抜けて、霊山神社神殿に及び、次に止
まる所は福島市街地国見町の中心街で有る。
私は福島駅で下車して、待や名所旧跡を散策したことむ無いが、何か鋭い霊気を感じ
る。
多分直線下に古代遺跡が、山と眠っているに相違ない。
私は今回、主に奈良県や九州地方の国見山を中心に述べているが、各地に国見山
岳や国見町が存在し、埋もれた古代を温存していることは確実である。
祖母傾き県立公園内、国見山一三九二と神社関係で、強力なパワーを発する北東の
線が有る。
<一七五ページ>
発信地は宮崎県都城市の母智丘神社である。
母智丘神社は都城市内でも少し町はずれになるが、桜の名所として県内有数を誇っ
ている。
直線が北東に向かって母智丘神社を飛び立つと、東霧島神社が待ち佗びている。
東をつまと呼び、つま霧島と地元の人は愛称している。
東霧島神社には、古石塔群が有り、此の神社の町、高崎町の文化財でも有る。
更に鬼岩階段と呼ぶ、自然岩を組石した乱組階段が有り、段数は百七十余段、祭
神伊井諾命[いざなぎ]は、妻の伊再井命[いざなみ]の焼死を悲しみ、其の大きな
探さに驚いた鬼共が、一夜中に組み上げたと云う。
境内は神秘と妖気が漂い、全国の神社関係でも珍しい位、古代を感じさせる神社で
ある。
霧島六社権現の一つで、境内に故有谷[ゆやだに]と云う池が有る。
池には祭神伊井諾命が、十握[とつか]の剣で石になった火の神を、三段に切った神
石裂岩が沈んでいると云う伝説が有る。
東霧島神社を後に天空の直線は、次の目的地、児湯郡西米良村児原稲荷神社の
神殿に向かう。
勿論社殿を通過すると次の目的地、児湯郡西米良村金毘羅神社のご神体に迫る。
金毘羅神社本殿を通過した最後の直線を延長すると、祖母傾県立公園内の国見山
一三九二の山頂が、天空の直線の到来を待つばかりである。
大隅半島、肝属郡吾平町吾平山陵から神社仲間のパワーが発せられている。
吾平山陵を北に向け発した天空の直線は、先ず輝北町の照日神社の神殿に達し、
継ずいて投谷八幡本殿に至る。
更に北に直進すると、鹿児島県曾於郡財部町北股の日光神宮のご神体に至る。
宮崎県児湯郡木城町、武者小路実篤の新しき村の近くに、高城城址が有る。
城跡から天空の直線を西南に向け発すると、掃部山一二二三の山の頂上を抜け、
小林市内の陰陽石頭上に達する。
<一七六ページ>
直線を延長して西南に進めると、えびの市尾八重野の白鳥神社神殿に至る。
そして最後の天空の直線を西南に伸ばすと、鹿児島県境を越え姶良郡野坂の烏
帽子岳七〇三の頂上がまっている。
此の直線の中の白鳥神社は、霧島屋久国立公園に存する白鳥山一三六三の山
裾に鏡座する。
白島神社の祭神は、日本武尊という限り白島が思い浮かぶが、白島のイメージか
ら日本武尊が、白島の湖のスワンや田圃に生息する白鷺に関係しているとは思え
ない。
もっと勇猛な白鳥が、彼の守り神と思えて仕方がない。
日本武尊についてかい摘まんで幼少のエピソードを書き示して見よう。
日本武尊は、日本書紀の景行記にある名前で、古事記では倭建命[やまとたける
のみこと]と云う書き方で現れる。
景行天皇と日本武尊の幼名小碓命[おうす]の時代、当時の天皇制を知る上で、貴
重な資料なので、示して見よう。
景行天皇の長男は大碓皇子[おおうすのみこ]と云い、日本武尊は、幼名小碓皇子
、第二子で、二人は双生児で有る。
天皇家では、朝夕天皇を囲み開催される大御饗[おおみあえ]に長男の大碓命が出
てこないと小碓命に云われ、「大御饗には、皆と共に出る様に、優しく申し伝えよ。」と仰
せられた。
日が過ぎ、「お前は兄に申し伝えたのか。」と天皇はたずねられた。
小碓命が云うには、「命ぜられた翌朝早く、厠で兄が声を掛けられた時、手足をもぎ
取り投げ捨てました。」
天皇は小碓命の性格を見抜き「西の方に朝廷に従わぬ逆賊がいる。このものを征伐
せよ。」と命じた。
従わぬ者は、二人の熊曾建[くまそたける]である。
日本武尊十六歳の髪を額に丸め、姨[おば]の倭比売命[やまとひめ]から衣裳を借り、
剣を懐に忍ばせ出立した。
熊曾建の家に着くと、其の家の周辺は軍隊が三重に取り囲み、部屋を増築していた
が、竣工の日も間近く祝いの食べ物を準備していた。
<一七七ページ>
働く人達の側に、遊びに行きながら様子を見て、宴の日を待った。
、竣工祝いのときが来て、今まで十二、三の童の髪を、十七、八の女の髪に梳り垂れ、
姨[おば]の衣裳を身に纏い立ち動く女人の中に紛れ込み、完成した部屋の中こ入り
込んだ。
小碓命とは露知らず、美しさに見とれ、名指しで呼び寄せ兄弟二人の中に引き入れ
た。
宴が佳境になるのを見て、懐より剣を取や出し、熊曾建の兄の着衣の襟を掴み取り、
剣を彼の胸に刺し通した。
様子を見ていた弟、建は、恐れて逃だした。
小碓命は逃げた建を追い、郡屋の隅に有る階段まで追い詰め、背中の皮を剥ぎ取り
、尻から剣を刺しとうした。
弟建は「其の刀を動かさないでくれ。話しが有る。」と云う。
小碓命は命を取るのを暫く待つと、弟建が云うには「お前の名は何と申すか」と尋ねる。
「私は纏向[まきむく]の日代宮におられ、大八島の国を統治成される大帯日子淤斯呂
和気天皇[おおたらしひこおしろわけすめらみこと]の御子、小碓命又の名を倭男具那
王[やまとおぐなのみこ」と申す。
そなた熊曾建等二人天皇に逆らい朝献もせず無礼な奴と云われ、私に其れら二人を
殺せと命ぜられた。」と答えた。
熊曾建の申すには、「誠に然様である。九州の南に有り、我ら二一人に勝る強国は無
い。然し、大和の国には我ら二人より強いものがいた。此の機会を以て貴殿に御名を献
る。此れより以後、日本武尊と称すべし。」
話が終わると日本武尊は、建を熟れた瓜を叩きつける様に殺してしまった。
日本武尊が凱旋して、大和の国に引き上げるとき、山の神、河の神、穴戸の神を平定
して、国にお帰りになった。
以上の文を読み、気付いたことが有る。
個人的には日本武尊は白鳥と結び、大叙情詩を描く人物にえるが、実際は当時の時
代を反映して、国家の成立に反逆する者、命令に従わぬ者、命令に従うことを拒む者等
に対しては、殺戮の方法は残虐を極め、しかも手段を選ばぬ奇襲攻撃をも辞さない時代
であったように見える。
<一七八ページ>
更に一族の結集に参画しない異端者の懲罰は、天皇に継ぐ最高権力者で有りながら
、徹底した取締をしたということは此の時代、国の安定を急ぐ余り、権力による恐怖政治
、弾圧政治の時代を世論に及ばしていたのではないかとイメージする。
懲罰に対する処刑の方法を、原文で再現して見よう。
[朝曙厠入時、待ち捕え掴批其枝引闕きて薦裏み投棄]
朝早く便所に入り、出て来るのを待ち捕らえ掴まえて、天皇の命令に従うかどうか確か
め、胴体から出ている手、首、足をバラバラにして、コモに包んで投げ捨てた。
[宴酣に臨懐剣出熊曾の衣襟取剣胸刺通]
宴が酣になったのを見計らい、懐から剣を取り出して熊曾武兄の衣の襟を掴んで、剣を
胸に刺し通した。
[其弟建見畏逃出、乃追其室椅本至、其背皮取剣尻刺通、熊曾建云、其刀動、倭男具
那王、即熱瓜如振析殺] 其の弟たけるは、兄たけるの状況をみて、恐れて逃げ出した
のを追いかけて、其の部屋の階段の上り口に至った。
そこで弟建を掴まえて、背中の皮を同時にむしり取り、剣を尻から刺し通した。
弟建が云うには、暫く其の刀を動かさないでくれ。
倭男具那王、弟建と語り合った後、天皇のために熟した瓜を踏み潰すように滅多突きに
して、裂き殺した。
その他気になる言葉は、九州の南に有る、天皇に朝献等で有る。
以上のように古代は、一族、同属の権力者集団であったことは、仮にこれが物語として
も、中国を初めとして、其の臣下で有った倭国は漏れ無く冊封されて、模倣的環境の中
に一族、同属国家が樹立して行ったに違いない。
又此の辺りは、都城の大荘園、都城の鳥見山等に詳しく書き示してある。
次に宮崎県児湯郡川南町名貫川の南にある、隆起扇状台地について書いて見よう。
<一七九ページ>
宮崎風土記に依ると、此の付近のことを次の様に云う。
東の山間から流れ出る河川群は複合する扇状地、侵食谷を形成した。
例えば名貫川は、込の口を扇の頂点に東へ広がる隆起扇状地を形成し、平田川は垂
門寸近で中須川を合流、両河川両岸に侵食崖を多く発達させている。
台地の標高は、山麓から広域農道付近で一00M〜八〇Mである。
広域農道から国道十号線付近で八〇M〜六〇M、其の東側が五〇〇M内外で、西か
ら東へ緩やかに傾斜している。
歴史的には、先土器、縄文、弥生時代の遺跡が、山地、山麓、台地を中心に分布、古
墳時代のものは、五〜六世紀頃の川南古墳群が知られている。
更に、町の歴史は開拓史で、川南合衆国共云われ、川南への移住開拓は、藩政時代
から見られ、戦後、入植者は県内を始め全国都道府県に及ぶ。
国光原南端の川南古墳は、前方後円墳十三基、方墳壱基、円墳三十六基を数える。
以上のことは、宮崎風土記に書かれている川南の風土、史実で有る。
はっきりしたことはこれから調査しなければ分からぬが、名貫川南の隆起扇状台地に
あるおよそ三KM四方の道路綱は、条里制の一原型を留めている。
何故なら、縦横二〇〇M、三〇〇Mの道路で仕切られて、一区画六町分の形態を残
しているからである。
又、道路の基準が、南北に対してほば四五度をなし、此の道路を線と見做し西北に
引き伸ばしてやると、男鈴山の頂点から引き下ろした鉛直線と交差する。
次に北諸県郡高城町の国見山から、南北に四五度の線を北東に、男鈴山の西北の
線に交差させると直角に交わる。
、更に高城町国見山南北四五度の天空の直線を延長すると、不思議なことに神武天皇
船出の地、耳川河口に至り、現在みひりの灯と呼ばれている七ツバエでとまる。
<一八十ページ>
七ツバエは串間、日南に次いで三度日の出合いである。
名貫川の南に有る約三KM四方の道路網は、男鈴山と国見山からやって来た直線
が交わって、直角の基準道路を構成し、夫れ夫れの道路に対して縦横二百M、三百M
の間隔で、平行に道路を取り付けていけば、六町分の耕地区画が幾つも出来上がって
いく。
男鈴山山群は、男鈴山一四〇五を中心に矢筈岳一三七三南矢筈岳、黒岳と南に千
M級の高山が山脈を成し、北の裏山には万吉山一三〇九が控えている。
都濃町からも川南町からも、はっきり見える男鈴山は、霧島山群の高千穂の峰に次
ぐ、古代伝説の山である。古い呼び名は、新納山、騎馬の峰[うしかのみね]とも云い
、宮崎県の代表的な山である。さて、古道の建設を記号で示して見よう。
男鈴山の山頂を基準点0とする。
基準点0から真東に直線を引き、任意の一点をAとする。
0から真南に線を引き、OAと等しい距離にCを定め、直角二等辺三角形を構成して、
AC間の中点をEとする。
0とEを直線で結び、東南の海浜方向に此の直線を延長し、其の任意の最終点をG
とする。
宮崎県北諸県郡四家付近に、国見山四〇八が存する。
男鈴山と同よう、国見山の山頂を0、とする。
東西南北A、B、C、D、を定め、0、A、D、の直角二等辺三角形を構成し、A、D、の
直線の中点をE、とする。次に0、E、を結び、これを延長してOGの交点をFとし、延長
の最終点をHとすると、其のHは神武天皇船出の港、耳川河口、七ツバエで有る。
後は、名貫川南の隆起扇状台地の地形に合わせて、二百M、三百Mの道路の割
り付けをすればいい。
<一八一ページ>
直線の測量器械は、水平、凹、凸面の名神獣鏡、水平器は水、遠方との連絡は、
銅鐸の音が重要な役割を果たしたことは、言うまでもない。
川南の扇状台地の古道らしき道路は、よく注意して二百M三百Mなのか、荒れてい
て分かりにくく見逃してしまう。
此の道路は私と同行した前述の加藤一成さんの二人しか確認していないから、確
定したとは言い切れないが、秘密を沢山含んだ場所なので、古代メッカの匂いで充
満している。
本来古道は、これだけはっきりした地形出有れば、南北に合致しているはずなのに、
道路網を約四五度傾けている。
理由は、南の方に群有する古墳に原因する可能性が有る。
卑母の古墳、兄妹[けいてい]其の親[うから]、氏長、王の姓、或いは王姓以外の
母方、その他、其の類[たぐい]の古墳が、川南を始め西都原、国富、高鍋、新富、佐
土原にかけて密集している。夫れ夫れ国見山を照準し、一山一山設けて古墳を遥拝
することが不可能になってきたため、改めて斜めの国見山を一山選び道路綱を作り、
一条一条の道路網を通して直線を古墳に関係づけたものと思われる。
新しい古墳を築造する場合は勿論、一族に集中させながら其の線上に、権力に応
じた古墳を設けた。
道路構築に必要な山岳が、国見山で有り男鈴山だった。
九州山地は高山が多く、峰の連山にも見え、国見山と定めたものの同じような山の
連なりでは、仮に大山を霊山と定めた場合、山が探すぎて、霊を弔うには持て余して
しまったり、謂れの無い山を利用する結果と成りかねない。
これは一族の名誉にかかわる大問題である。
更に、山岳の線条を構成する測量の進捗は、大きな困難を克服しなければ、完成
出来なかったのでは無かろうか。
鏡や銅鐸、此の時代の文明の利器を用いて測量し、自然の月や太陽、北極星、星座
を利用し、更に水や火を使い晴雨を占い、山の頂を極め、方位を決め、山の向きを
計る。
<一八二ページ>
此れらは大変な作業である。
作業する人々の家族は、当然人質となって、直線の完成が無ければ、一族に害が及
ぶようなことが有った。
責任者、担当者は、魏志倭人伝の持衰のような形式が、用いられていたようににも
考えられる。
又、いかに困難が伴ったとしても、国家事業として諸王、諸臣、百寮に課せられた義
務であれば、王家に背いて実行しないという訳には行かない。
しかし領地が不足して、役立たせようとする山岳が探すぎると、先祖の古墳と位置が
合わないことが生じて、義務の追行が難しくあちこちで分断を余儀なくされる。
此の川南の場合、全く当てはまる。
魏の軍政官長政と女王壱与が敢行した東征は川南から始まった。
魏国大将軍太尉司馬懿の指揮によって倭国に駐留した軍政官、塞曹掾史張政等一
軍は、西都原に葬った倭国女王卑弥呼の家[ちょう]の村里を西域都護府として此の
地に魏国臨時府を設けた。
軍政官張政は、正始八年二四七年の倭国女王卑弥呼の戦争責任に基づく自決に
立ち会い、更に女王の弟、男王の失政を立て直し、卑弥呼の宗女壱与十三歳を倭国
女王として君臨させた。
秦始二年二六六年、古代奈良王朝の樹立に貢献した軍政官張政等壱軍は、秦始
元年、普国を建国した武帝に帰属するため、倭国女王壱与の遺使、大夫卒善中郎将
掖邪狗[たゆうそつぜんちゅうろうしょうえきやく]二十人に送られて、洛陽の台に詣
でた。
元来、敵国普に帰属するということは、裏切り行為か降参以外有り得ることではない
が、普国の建国を成した武帝は、諸葛亮公明と対等に戦い、倭国を含む遼東を平ら
げ、魏国No二に君臨した大将軍大尉司馬懿の孫司馬炎である。
青竜三年二百三十五年に生誕した司馬炎は、青竜四年二百三十六年に生まれた
壱与とは一つ違いの兄である。
中平元年百八十四年、倭国女王に君臨した卑弥呼について、祖父の懿、父の昭
から倭国の立場を学び、今の倭国国内情勢は張政の報告に基づき詳細に知らされて
いる。
<一八三ページ>
女王壱与に対する魏国に対する声援は、他国では及びもつかぬ、贅沢な援助だった。
弐拾年間にも及ふ張政等一軍の滞在は、壱与の安定政権を護り、多少狗奴国と意
見の対立は見られたが、戦乱に及ぶまでにいたらず、確固たる倭国の立場を鮮明に
した。
更に張政の駐留中、壱与に倭国全上ぜ統一を促し、都城盆地から遷都して西都原に
居を移していた壱与は、名貫川の川南の完成と共に張政推挙の土地、奈良盆地東征の
機会を窺っていた。
九州王朝邪馬壱国に属さない倭種の軍備力は、軍馬、鉄の甲冑、刀剣、弓、槍その
他戦車等は、先進国中国との交流を九州王朝に阻まれ、残す高句麗からの技術指導
が、軍備力を保つ唯一の手段で有り、人力を主力とした肉弾戦が得手であると云っても
過言ではない。
邪馬壱国の軍備力は、中国史観に基づく倭国統一の理念に立ち、中国仕込みの一級
品である。
階級制による軍隊は、訓練されて騎馬を主力とし、歩兵の命を護る近代的鉄製の甲冑
も装備されている。
どこから見ても軍備力に遜色はない。
中国洛陽に至る交通も、朝鮮半島を含めて安全通路が確保されている。
以上の様な背景を基に九州王朝の主力は、狗奴国を除いて奈良盆地に東征したので
ある。
出発の拠点は勿論、美々津の耳川である。
日向高鍋から大隅半島に向けて古墳群を貫通している直線がある。
宮崎県高鍋町を流れる小丸川の河口を起点として、やや西に振りながら、南の方向に
天空の直線を発すると、宮崎市の生目神社を通過、其のまま直進させると田野町の鰐
塚山千百十九の演上を通過し、東串良町の唐人古墳群、次に高山町の塚崎古墳群、
大崎町の横瀬古墳群、此の三ケ所の古墳群を順次貫通する。
<一八四ページ>
小丸川を発する南西の直線が経由する神社、名山、古墳群の関係を観ると、日向
灘に大きな勢力を持った国が、存在していたことをうらずけている。
魏志倭人伝が使用した文字を象形文字の立場から解説して見よう。
邪馬壱国の[邪]は、牙と大きな村里から出来ている。
牙は二つのものがかみ合う様子を現し、当時中国では牙の字は、牙旗、牙城、の様
に天子の旗、城の本丸を示す場合に用いた。
[邪]とは、大きな村里に旗竿の先に象牙の飾りをつけ、国王の旗を掲げた城の本丸
が、此の地に有ったことを示し、元来地名を表した文字で有るが、時代が変わって、邪
は邪悪とか邪推のように[よこしま]な意味に使うようになった。
作者陳寿は、両方の意味を心得たうえで[邪]の字を使用したと思われる。
馬は中国周代からの学問、六芸の一つ[御]を示す。
御は此の場合、[世を治む]と解釈すると意味に適う。
壱は[一]より権威が有り、三十国の始まりを表す。
国は、国家を表す。
三国志の作者陳寿は、邪馬壱国が高千穂の峰を中心とした都城盆地に存在している
ということを承知の上で、夷次[いてき]感覚を含む邪馬を用いながら、倭人が口で喋
る「やま」、高千穂の峰の「やま」、或いは、山島に依って国邑をなすの「やま」等、山
を悉く分析して牙城を表したのである。
富士山は秀麗であるが、高千穂の峰は中国思想に基ずく象形文字に全く合致して
いる。
高千穂の峰は、中国人からみて象形文字の山の形をした山なのである。
[山」の文字を象形文字に採用した時代は、中国、殷の頃で有る。
<一八五ページ>
中国伝説の人物、殷の王族箕子[きし]をして、朝鮮北部大同江の辺に王険城を設
け、平壌を名乗り企孫氏の帯方郡設置までおよそ一千五百年、漠の武帝が朝鮮に四
郡を設け、帯方郡放置までおよそ三百十年、この間、倭国を知らずして過ごした中国
では有るまい。
魏志倭人伝によって開眼した倭国は、よく目を擦ってみると、まず帯方郡に詣で、中
国畿内に直行することすら出来ない、山島の一国王、爵位で云うなら中国子爵程度の
扱いを、受けていた。
だから陳寿の倭国に対する文章上の表現は、私達日本人に話しかける文章でなく、
あくまで西晋初代の武帝に認められ、詔が下り、正史に取り入れられることを目的とし
た中国国家の歴史を残すために著した内容で有る。
だから当時中国にとって、倭国を具さに書くような大国或いは敵国として見ていなか
った。
では何故、陳寿は二千文字も使って、魏志倭人伝を書き述べたのか。
それは倭国女王卑弥呼が、魏に対して忠誠を認められようと努力した為か。
或いは、軍力の強化を度々願い出たことに有るのか。
景初二年六月、倭国女王卑弥呼は大夫難升米を魏に派遣して天子に詣で、遼東から
手を引く誓いを立てたことは倭国の朝貢もさることながら、魏の明帝をして落涙
させたのである。
魏と遼東の戦禍の火蓋が今、切って落さんとする矢先、倭国は公孫淵を裏切って、魏
に従属したのである。
魏の明帝は、倭国の実力を認めていたことになる。
景初二年十二月二百三十八年、明帝は詔書に報じ曰く。
「今汝を親魏倭王卑弥呼と為す。」
では私が書いた倭国は何だったのか。
強い倭国、弱い倭国いずれだろうか。
<一八六ページ>
此の部分の解釈は様々で、倭国の柔順性を説き、戦火が収まって平安を取り戻し
たとき、景初三年六月魏の明帝に朝貢したと云う人が多い。
この人たちは決まって魏志倭人伝の景初二年の間違いを指摘して、景初三年に書き
換えようとする。
然し、景初三年一月二百三十九年明帝は、急死した。
此の事実まで書き換えることが出来るだろうか。
二百四十年年号を正始元年と改め帝芳が即位した。
するとやはり倭国は、二百三十八年六月の戦火が始まろうとするや否や、魏に従う決
意をしたことになる。
此の決意は、平和ボケした倭国では決して出来ない行為であり、単に渦中に巻き込
まれて、明帝に朝貢したという甘いものではない。
もし倭国が、朝鮮半島を闊歩していなければ、決して降り懸かって来る火の粉では
無い。
此のように思うと、やはり倭国は戦乱の真っ只中に有ったと、見た方が妥当で有る。
現に二百三十七年幽州刺史母丘検[ゆうしゅうりしかんきゅうけん]が公孫淵を攻撃
したとき、敗退した事実がある。
これは倭韓が遼東の公孫淵の臣下として参戦した証拠で有る。
二百三十八年の戦いでは、僅か二力月で公孫の軍勢が敗したばかりでなく、公孫の
居城嚢平城までも陥落し、八月には燕王公孫淵は母丘検の兵士によって、公孫一族
と共に惨殺された。
此のような歴史的事実が有るとすると、いかなる理由が有れ、倭国、韓国連合国が
遼東を裏切った証拠であることは明白である。
此の辺りをもう一度再現すると、景初二年六月、大夫難升米を派遣して天子に詣でた
ことは、朝貢依り何より魏の明帝は、落涙して喜んだ。
<一八七ページ>
そして倭国に対して最大の賛美を送った。
まるで諸葛亮孔明が、五丈原で病没したぐらいの値打ちが有った。
遼東の戦いの最中、戦火をかき分けて自立した燕王から魏に走ったのだから、魏の
作戦が容易になるばかりでなく兵の補充が少なくなり、戦の期間も短縮される。
当然、経費も少なくなり、諸所の利点は計り知れない。
更に何より遼東より東方が、魏の手中に収まるという計算が有る。
例え高句麗が立ちはだかっても、物の数では無い。
呉の孫権の損失は計り知れない。
損失は魏にとって利益に変わる。
其の表れが親魏倭王卑弥呼の称号で有る。
元来、朝鮮南部を倭国は如何なる理由か、此処に限って 自由に闊歩、往来が出
来た。
魏志倭人伝にも次ぎの様に書かれている。
対海国、今の対馬で有るが、土地、山険しく、深い林多く、道路は人が通行するよう
な道もない。
人家は一千余戸、良田は無く、ほとんど海からの物を食して生活している。
船に乗って南北に市糴[してき]する。
この文は魏志倭人伝の中に対馬の様子を、陳寿が描いたものである。
南側は倭国内であり、倭人が先祖の歴史的慣習に従い、米穀その他の品物を平等
な取引きにより入手出来る。
技、北側であるが、湾岸や沿岸の港に到達しても、異国や敵地であれば、そう容易
く当地の生活必需品を手に入れることは難しいが、友好国、倭国、占領国の何れか
であれば、或いは先祖からの慣習で有れば、通常取引により
<一八八ページ>
訳無く調達することが出来る。
又、対馬の南に壱岐が有る。
壱岐も対馬同様[亦南北市糴]と有り、対馬同様南岸の倭国の地北岸の韓国の地で
市場に行き米を買い入れると云う意味である。
魏志倭人伝のなかに次のような文も有る。
郡より倭に至るには、韓の地を船で一定の間隔を置いた地点で停泊しながら、海岸
を寄り添う様にさっと南に進みさっと東に迂回しながら進むと、倭国の北岸に有る狗邪
韓国に到達する。
以上のように倭人は、韓国の南の地を行事の日程、予定通告無くして自由に寄港、
上陸して食料品の調達や、陸路海路の行来が安全に出来たようである。
魏志倭人伝の中に度々[郡]と云う文字が出て来る。
[郡]とは現在の京城を指し、二百三年遼東太守公孫度の子、公孫康が倭国女王
卑弥呼と設置した帯方郡で、倭国、韓国の後漠朝廷に対する出先の役所で、後に
魏国朝廷に対する出先の役所となった。
帯方郡には、中国洛陽の都、朝廷から任命された帯方郡太守が配属され、倭国と朝
鮮半島南部を管理して、朝廷の間を取り持っていた。
作者陳寿が書いた魏志倭人伝のおよそ二千文字のうち、三分の一、六百文字以上
は、倭国と朝廷を書いている。
残り三分の二の中に、一部分寒い国では経験出来ぬことが記されている。
[倭地温暖冬夏食生菜皆徒跣]
倭の地は温暖で冬も夏も生野菜を食し、皆裸足で有る。
若し邪馬壱国が、高千穂峰を中心とした都城盆地であれば、都城から大隅に向かう
なだらかな南斜面の丘陵は、直線距離で鹿屋までおよそ四OKM、標高差五OMの広
大な平坦地に近く、海進の影響も無さそうだ。
<一八九ページ>
此め地は陳寿の云う温暖、徒跣[とせん、裸足のこと]も容易である。
都城南部から大隅半島鹿屋、串良は、陳寿の気候、風土に合致して、松ノ木の群生
も殆ど見たことが無い。
倭国二十九国を相手に戦うことの出来る狗奴囲は、大隅半島の海洋国、鹿屋近辺
の住人達ではないかと思はれる。
今でも、古都を想像させる、広大な古道らき碁盤の目が現存している。
魏志倭人伝に[倭国で魏国と使訳する国は三十国有り、三十人の王がいて、皆女王
国が統属している。]
[狗奴国に狗古智卑狗と云う長官がいる。狗古智卑狗は女王に属していない。]の
文が有る。
この文の中に統属と属が見える。
属については別項で説明しているが、話の展開の為再度説明しておこう。
属は、尾とくっつく意味を持つ蜀を合わせて、交尾してくっつくを表し、くっつき離れな
い仲間の意味に使う。
生物の分数では、科と種の間に有り、例えば、バラ科桜属と云う具合になる。
同じ系統であっても、今のところバラと桜は交配出来ないが、バラとバラ、桜と桜は交
配出来る。
狗古智卑狗は属していない、とあり、血の繋がりがない、血族でないということであ
る。
人も同じで、属していないと云うことは、民族が異なった人物が、長官だったのかも
しれない。
狗奴国は、漢代の皇帝から金印と穀璧を、拝受していた可能性が有る。
それは串間の今町王の山の石棺から、地元の農夫佐吉が江戸時代、穀璧を発見し
て暫く佐吉の家の家宝として保持していたが、孫の河野佐吉の代になって、明治十年
、撥雲余興[はつうんよきょう]と云う古い鏡の本を書き、骨董に精通した、松浦武四
郎に売却している。
松浦武四郎は、穀璧を加賀百万石の旧藩主前田家に手渡している。
<一九〇ページ>
現在、前田宝物殿に国宝指定され保管されている。
もし、大隅半島、鹿屋、串良が狗奴国であれば、金印こそ未発見としても、穀璧、古
代王国に相応しい古道綱、古道建設の基準となった国見山そして御嶽、光州、長城を
結ぶ天空の直線、高千穂峰と吾平山丘陵を結ぶ南北の直線、古道の中の一部から発
掘された古代の大集落、小丸川河口を発し生目神社、鰐塚山、串良の唐人古墳、高山の
塚崎古墳、大崎の横瀬古墳、此れらを貫通する古墳の直線[生目神社からも最近古墳
が発掘されたという]、その他天空の直線には枚挙に暇がない。
更に、南国の気象条件、古事記、日本書紀の神代の海人伝説、古代国家創造の絶
対条件で有る海進の有無等、高千穂峰が邪馬壱国だとすると間違いなく正に、狗奴国
は大隅半島と申し上げても過言では無い。
魏志倭人伝に次のような文が有る。
[倭女王卑弥呼与狗奴国男王卑弥弓呼素不和、遺倭戴斯 鳥越等詣郡説相攻撃状]
直訳すると[倭国女王卑弥呼は狗奴国を与えた男王卑弥呼と普段から仲が悪かった。
倭国は戴斯鳥越外数名を派遺して帯方郡に詣で、双方の攻撃の状態を説明した。]と
云う意味になる。
此の文章には、魏志倭人伝を根本から覆すような大変なことが書かれている。
此れを直訳する場合一般的には、[倭国女王卑弥呼は狗奴国男王卑弥弓呼と素より
不和で有った。]と訳すのがどの本にも書かれている。
ところが、「与」の字を[与える]と直訳すると、今迄誰も気付かなかった卑弥呼と卑
弥弓呼の因果関係が浮き彫りにされてくる。
邪馬壱国と狗奴国の確執は、根深いものが横たわっていた。
邪馬壱国の女王卑弥呼は、百八十四年十三歳の時、後漢の霊帝、光平末年、黄
巾の賊が鎮まる時倭国乱も収まって、それと同時期に倭国女王として君臨した。
<一九一ページ>
狗奴国宗女卑弥呼が、倭国女王に共立されて即位した背景は、中国後漢の不安
定な政権の影響を受けて、毎年倭国内に戦乱が起こり、国を統一する国王がいない
有り様だった。
その時、諸国の諸王と後漢の楽浪郡太守を交え、選出されたのが狗奴国宗女卑弥
呼で有る。
卑弥呼も卑弥弓呼も、大隅半島鹿屋で母に育てられた。
霊峰高千穂を有する邪馬壱国は、古来より倭国王に即位した者が、君臨する習わし
になっていた。
今迄は、卑弥呼の父君が国王として、座についていた。
卑弥呼には、異母の一人の弟と母が連れた男子がいた。
その男子の名を卑弥弓呼と云う。
卑弥呼が倭国王、邪馬壱国女王に君騙するに臨み、卑弥弓呼は狗奴国王を卑弥呼
より与えられた。
母の異なる一人の弟を魏志倭人伝では、男弟と位置づけ卑弥呼を補佐して国を治め
たと、書き示している。
[唯有男子一人給飲食傳辞出入居処]
直訳すると[卑弥呼の側に唯一人だけ男子が居て、食事を給仕し公的な執務を伝え、
私的な居室迄出入りす。]
此の男子こそ先の国王、卑弥呼の父君である。
狗奴国の国王に就いた卑弥弓呼と卑弥呼は、血の繋がりのない姉と弟の為、生まれ
ながらにして仲が悪かった。
卑弥呼にすれば、まさか己が倭国女王に推挙されるとは想像もつかなかった。
行く行くは、正式に狗奴国の女王として臨まれ、父君が倭国王として君臨しているとき、
既に狗奴国を代理して人望を集め、事実上、女王の立場に有った。
今は、十三才と云う年齢は幼い年頃であるが、当時中国の献帝にしても、遼東公の
公孫淵にしても十代半ばで、その立場に有った。
<一九二ページ>
狗奴国は漢代の皇帝から、金印と穀壁を拝受した家柄であるが、長官の狗古智卑
狗は、一族でも無く倭人でも無く金印と穀璧の番人として、狗奴国国王卑弥弓呼に従った。
倭国女王卑弥呼には、狗奴国に置き忘れた大きな問題が一つ有った。
卑弥呼にとって、狗奴国は生まれ故郷で有り、母君が異なるとはいえ、我が里に違い
は無い。
その甘えた気持ちが、大きな障害になるとは思いもよらなかった。
周囲を山岳によって張り巡らされた都城盆地は、開港の機運からみはなされていた。
父なる前国王に頼み、志布志、串間の何れかの一つの港を邪馬壱国に解放するよう
に、再三再四后や国王卑弥弓
呼に依頼させたが、最後には弓を持って追いかけ、父なる前国王に切りかかる始末である。
前国王は這う這うの体で、邪馬壱国に逃げ帰った。
父君の話にると、「拘奴国の武装した兵隊が邪馬壱国に攻めのばって来る。」と云う。
それを聞いた女王卑弥呼は、身支度を整えやがてやって来る男王の一団を待ち構え
た。
やがて男王の斥候兵が、起ち来るのが見え、城柵の外側から城内の物々しさを見て
、馬の轡を取って返した。
今か今かと女王卑弥呼等は、刻を忘れて男王卑弥弓呼一団を待ち構えた。
もう、日も暮れようとする初秋の風が、昼間の残暑を照らし合わせて、虫の音を運ん
で来る。
卑弥呼の男弟は、卑弥弓呼の一団に物見の者を放った。
物見が帰り「山裾のわき水の樋や田や畑が悉く断ち伐られ、見るも無残で秋の刈り
入れは、覚束無い」と云う。
暫く此の状況が続いて、戦乱には至らなかったが、咋日国が成り、早、戦乱では、一
去一来、友軍の将等の身内の争いとて、今が寛容と諌め来る。
卑弥呼は戦闘を避けながらも、事有る毎、開港の申し入れに余念がなかった。
その交渉の反面、魏に対する儀礼は怠らず、朝貢の日には大勢の将軍の催しをみた。
<一九三ページ>
卑弥呼は、国内の軍備の強化に余念がなかった。
軍馬の飼育、兵器の輸入、貨幣の流通、交通の村里の整備と駅の設置、道路計画
と先祖を祀る墳墓の計画、土木測量用鏡の開発及び輸入、連絡用銅鐸の開発、等国
見山を中心に中国や朝鮮の様式を取り入れた。
絵画や土器類には、目を見張る価値有るものを生み出した。
機織りの技術は革新し、絹織物の進歩は日進月歩目覚ましく、染色技術はそれに伴
って邁進した。
頭や首、腕の装飾類も一段と、色鮮やかな工芸品を生み出した。
武器にも飾り有るものが出始めた。
狗奴国との確執を除いては、国内は平和な日が続いた。
しかし中国の国内情勢は、一刻の予断を許さぬ緊迫感で朝鮮半島を通じ犇々と、倭
国ににじり寄って釆ていた。
此処で話を女王卑弥呼の即位について考えて見る。
それは卑弥呼が十三才で倭国丗国とその他から推挙を受け、倭国女王に君臨した
件である。
[復立卑弥呼宗女壱与年十三為王]
卑弥呼の宗女壱与、十三歳を復[また]立てて王とした。
卑弥呼の即位について魏志倭人伝では、共立して一女子を王となすとのみ述べて
いる丈で有る。
後は卑弥呼の生涯は七、八十年だったと云うこと、卑弥呼の即位した頃、倭国は内
乱の終局を向かえた、という
こと、鬼道に事え、能く衆を惑わす等と、書いている。
技、前述の[復立卑弥呼宗女壱与年十三為王]の[復]と[宗]の字について調べて
見る。
復は同じものを重ねると足を合わせ、それに行くを添えて、同じ道を再び戻って来ると
いう意味を表す。
宗は屋根と示すという神を祭る机、又は祭壇とを合わせて、祖先神を祀る御霊屋の
意味を表す。
<一九四ページ>
そこから本家、大元の祖先等に使う。
更に、卑弥呼が卑弥弓呼に狗奴国を与え邪馬壱国の女王に君臨した建前から、卑弥
呼は狗奴国の宗女とすると、復と云う限り、卑弥呼と壱与は即位の条件は同じ条件で
あるから、狗奴国の宗女卑弥呼十三歳なる一人の女性を倭国の王位に就けたと、
云うことになる。
邪馬壱国高千穂峰の真南に狗奴国があり、国王の名は男王卑弥弓呼という。
狗奴国の長官の名は狗古智卑狗と云う。
狗奴国長官狗古智卑狗[くなこくちょうかんくこちひく]は倭国、邪馬壱国女王卑弥呼[
わこく、やまいちこくじょうおうひみこ]に属していない。
即ち、血の繋がりも無く一族でも無かった。
卑弥呼の義母、卑弥弓呼の母の付き人、中国、呉の人である。
卑弥呼と卑弥弓呼はもともと仲が悪かった。
狗奴国の男王卑弥弓呼は邪馬壱国の開港問題以外にも、呉の孫権の極東傀儡によ
る同盟問題、魏との同盟派兵問題遼東の公孫淵との確執等、悉く女王卑弥呼と対立
し、狗奴国を除く二十九ケ国の足並みを妨害した。
女王卑弥呼は男王卑弥弓呼と、その長官狗古智卑狗を倭国連合形態を騒乱させる
反逆者と位置づけて、聖戦を旗印に、倭国連合大将軍に大夫卒善中郎将掖邪狗[た
ゆうそつぜんちゅうろうしょうえきやく]、副将を卒善校尉都市年利[そつぜんこういと
しごり]を任命して兵三万を授け、戦車、軍馬と共に討伐を目指して出兵した。
愈々、宣戦布告、戦争が勃発した。
聖戦とは云え、卑弥呼にとって積年の恨みを晴らす、遺恨の戦いでもある。
しかし、侮れぬ相手である。
倭国二十九国を相手に、一歩も引き下がらぬ強か者、戦況は五分と五分である。
<一九五ページ>
激しい両軍の攻防は、三月を経たが一向に埼が明かず戦乱の決着を見ないまま、
地域戦闘に戦況を変えつつあった。
女王卑弥呼は戦いの状況を戦況報告書に纏め、郡に提出した。
太守として帯方郡着任間も無い弓遵は、細部の事情が分からぬまま早速調停に乗
り出した。
魏国最高責任者大尉司馬懿仲達[ぎこくしばいちゅうたつ]軍師の一人塞曹掾史張政
[そうえんしちょうせい]に一軍を授け、倭国に派兵した。
一軍さは、一個師団の構成二千五百人、その五師団を云う。
実は、女王卑弥呼は魏の帯方郡太守弓遵から事前に、魏国軍派兵の受諾を強要さ
れていた。
遼東半島から北朝鮮に駐屯している倭国軍は、内乱の調停に乗り出した大将軍大
尉司馬懿の息子司馬昭が統括していた。
魏国軍派兵の受け入れ条件は、休戦調停の受諾が成立するまで倭国軍を拘束し、
受諾調印後解放すると云う人質政策の申し入れがあった。
倭国二十九国連合と狗奴国は、一時休戦を余儀なくさせた。
夫れ夫れの国が派兵している兵士は、狗奴国を含めて一族郎党から出兵している
からである。
何故狗奴国が此処に含まれているかというと、魏国は倭国三十国を、一国一国平等
の立場に置いたからである。
倭国連合と狗奴国の休戦条約は締結した。
倭国連合と狗奴国の戦争犯罪人は、卑弥呼と狗古智卑狗と断定した。
両名は、内乱と魏の立場から重罪を問われ、死罪を申し渡された。
卑弥呼に次いで弟の男王が即位したが、休戦処理が上手く行かず、諸国の王の中
に不満不服者が続出し、停戦中にも拘らず、拘奴国に対して再戦を断行しようとする
側と休戦を受諾する側の意見が激しく対立して、秋の塞曹掾史の仲裁で味方同志の、
紛争は、一次落着したように見えたが、既に千数百人の死傷者が続出し、此のまま
では内部分裂も、時間の問題の様相を呈していた。
<一九六ページ>
拘奴国が、内紛の状況を具さに観察しているのが不気味である。
魏の軍隊は、狗奴国に対して内乱に拍車を掛けるようなことを為れば、領土の一部
を没収する件を提訴して、狗奴国を封鎖した。
当時、海国狗奴国は、薩摩半島、錦江湾、大隅半島、有明湾岸、日向灘に面する大
淀川赤江河口付近まで領有する大国だった。
此の地理的条件を見ても邪馬壱国が盆地山野を出て、近郊に中立開港が欲しったこ
とは、痛いほど理解出来る。
しかし戦いが終結した限り、今は詮無いことである。
次第に内乱の馬鹿馬鹿しい無益と損害に目覚めた倭国連合の一統は、一人として狗奴
国へ寝返る者はいなかった。
卑弥呼存命中摂政を努め、今は倭国王として君臨し、直接陣頭指揮に立って内乱鎮
圧に奮闘努力した弟王も、片寄ったエゴイズムに気が付き、姉卑弥呼を慕う素の部下
達と、躙り寄った政策変更を打ち出した。
しかし、時既に遅く、多くの犠牲者を出した責任の重大さは、免れることが出来なかった。
責任を負い死の淵に立った男王は、生前卑弥呼が宮内に婢千人を自ら侍らしていた
が、その中で今は御年拾参歳の児童、壱与を卑弥呼の宗女とし養育していたが、己
に変わる壱与を昔、卑弥呼が即位したときの条件が同じであることを強調し、魏国塞
曹掾史張政や倭国連合二十九国及び狗奴国の諸王、長官、将軍を集め緊急協議に
入った。
やがて、卑弥呼宗女、壱与が共立によって即位したので有る。
時に、二百四十七年、壱与十三歳で有った。
男弟の処刑も終わり、姉卑弥呼眠る臨時西域都護塞曹掾史張政の許可を得て、今
の西都原古墳の地に葬った。
<一九七ページ>
此処に至る国見山の直線が、今も残る。
又、倭国二十九国を相手に戦った狗奴国の戦争犯罪人、狗古智卑狗は現在の串間
市今町南方に穀壁と共に石棺に入り土を封じて塚を造った。
又、此処に至る東南の直線は、楽浪郡平壌を発し帯方郡京城を通過、狗邪韓国、
壱岐、対馬を越え、松浦半島北松浦郡に至る。
やがて島原半島国見山々頂を確認して、更に高千穂峰頂上に留まる。
更に此処を出て鳥見山を眼下にしながら母智丘神社神殿を経由、串間市今町南方
に至る。
此の南方最終地点こそ、穀璧が埋物された場所で有る。
この場所を北方に稍東に傾けながら直進させると、串間と日南の市境に雄鈴山七八三
が存し、天空の直線はその上を通過して田野町に至り、更に国富町を通り抜けると、
西都原古墳群の男狭穂塚の中央を越えて南方に至る。
やがて此の地を飛び立った天空の直線は、都濃町男鈴山一四〇五を直下にして珍神
山仏野八二三を通り、北方町 の茶臼山六九五を見て祖母傾き県立公園に存する国
見山一三九二の頂きに停止する。
魏志倭人伝に、つぎのようなことが書かれている。
[其死有棺無榔封土作家始死停喪十余日当時不食肉喪主哭泣他人就歌舞飲酒巳
葬挙家詣水中操浴以如練沐][其の死には棺有りて枠無く土を封じ家を作る。死はじ
まりて十余日喪に停まる。肉を食せず喪主は号泣す。他人は歌舞飲酒に就く。巳を
葬ると家を挙げて水中に詣で以て操浴す。練沐の如し。]
次に卑弥呼が、亡くなった時のことが書かれている。
[卑弥呼以死大作家径百余歩殉葬者奴婢百余人]
<一九八ページ>
[卑弥呼以って死し、大いなる家を作る。直径百余歩、奴婢百余人は葬者を巡り回
る。]
扠、卑弥呼の死に様を、言葉の成り立ちから考察して見よう。
[以]は、[田]を耕す鋤の形、或いは鋤と人を合わせて、人が鋤を使って田畑を耕
す様子を表す。
即ち、道具を使って何かをする、[只]は文字の成り立ちから説明すると、道具を使う、
と云うことになる。
卑弥呼は病死或いは老死でもない。
此の場合道具、刃物、即ち刀で以て自決したので有る。
[大いに家を作る。]は、前文に有る通り、土を封じて家を作るとあるから、そのまま
採用する。
径百余歩を一歩一Mとして計算すると、百歩は百M、百余歩は百数十M、一里は千
歩、即ち千Mのことである。
大きな家の直径は百余歩とあるから、百数十Mである。
仮に百余歩を百二十Mとすると、円墳の周囲は三百七十七M位になり、円墳の面積
は一万一千三百四平方M
に直すと三千四百二十坪[一町一反強]になる。
徇葬の徇は殉死の殉と意味も内容も異なる。
古代史の世界では、卑弥呼を神格化するためか、或いは古代中国の因習、埴輪、乃
木将軍を捕らえている。
殉死の例えは数えれば切りが無い。
忠誠を誓う虎賁の士として従い行く最後の喜び、殉死はそのような喜びの中に漂って
いる。
しかし文章の世界では、前後の文体から判読出来ない場合、文字一つ一つが解明の
要素に成って来る。
だから[徇の世界、殉の世界]此の世界は全く異なり、個々に独立して存在する。
全く同じ内容であれば、どの様な形で羅列しても、一つの文として他に同化して当然
で有る。
此の観点にたって徇と殉は、決して同化せず異なる。
<一九九ページ>
旬は、くるりと巡らす様了と、日とを合わせて、日が一巡りすることを表す。
中国古代の暦で、十日間のことである。
一ヶ月を三分したうちの一つで、上旬、中旬、下旬、十ヶ月、十年、十歳、等が、それ
に当たる。
徇は、行くと旬とをのせた字で、行くは十字路を示し道路や歩行に関係する字を作る。
結論の徇は、十日余りぐるりをぐるぐる巡り歩く、と云う意味になる。
殉は,死と旬とを合わせた文字で、死は、象形文字ではバラバラになった骨と人とを合
わせた字で、人とヒは同じ文字である。
死体がバラバラの骨になるということは、つまり[死]をあらわす。
殉は、死ぬと巡る、従うを伴わせて、主人の死に巡り合い従って死ぬことを表す。
徇と殉は、以上の様に、生と死の違いを示す意味に到達する。
卑弥呼は、国家の習わしに従って国家反乱最高戦争犯罪人として、魏を代理する塞
曹掾史張政によって、身柄を拘束された。
判決は、檄文によって死罪が告諭ゆされた。
白絹によって倭国女王の威厳を示し、検視は塞曹掾史張政 介錯人は倭国大将軍卒
善中郎将難升米で有る。
もろ刃の刃を胸に断て、国の責務を遂行した。
香久山よ 峰の流れは 飛鳥川
差し羽の飛翔 鳥見目指して
卑弥呼 七十六歳
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