都城の邪馬壹國
著者 国見海斗 [東口 雅博]
<一三一ページ>
鹿児島県隼人町に鏡座する鹿児島神宮は、他の神社仏閣と直線で結ばれる
中で、当代随一の謎深い神である。
私は直線を通じて名山、奇山、神社、古墳、遺跡を国見山と関係づけて調べて
いるが、国見山より時代が遅れて命名されたと思われる烏帽子山岳も、国見山
岳と同様神秘のパワーを発している。
鹿児島神宮は貪欲で、国見も烏帽子も総なめだ。
高千穂峰までも手を伸ばし、それぞれのパワーを吸収している。
鹿児島神宮が手を繋く四方八方の神々、それを結ふ山々を今ここに紹介しよう。
鹿児島神宮を出た直線は、宮崎県青井岳国見山四〇八の頂上目がけ突き進む。
更に直線の足跡を瓶台山五四三の頂点と東霧島神社の本殿に残し、天空の科
学が通過したことを証明している。
直線の太さは針先程で、鋭く中央部分に触れて行く。
次に鹿児島神宮と烏帽子岳の関係を直線で示して見よう。
鹿児島神宮と大隅半島の鹿屋市の南に存する神武天皇の父君、鵜草茸不合尊
[うがやふきあえずのみこと]を祀る宮内庁管轄吾平山丘陵を結ふ直線下には大
穴持神社、更に錦江湾を縦断した其の先には鳥帽子岳が有り、全ての中央部分
を突き抜けて、その頂上を通過する。
やがて鹿屋の笠の原台地の古道を縦断、祓川の上空を駆けぬけて、吾平山陵
御神体に到達する。
次に鹿児島神宮と高千穂峰が結ふ直線を示して見よう。
鹿児島神宮を東北に発っした直線は宮崎県東郷町の熊山六二二の頂上を極め
るのに、途中、霧島神社の本殿上空 を通過、更に高千穂峰の預上に至り、其処
を飛び立つと西諸県郡[もろがた]須木村の七熊山九二九と鶴丸城を掠めるように
通過しながら、宮崎県西都市近辺の国見山一〇三六に至る。
<一三二ページ>
国見山一〇三六を飛び立つた直線は、児湯郡都農町の尾鈴山一四〇五頂上を
越え、東郷町熊山622に留る。
次に鹿児島神宮を発進する直線は、国見山と結ばれないが、何か不思議なパ
ワーを予感する。
神宮を東北に向かった直線は、宮崎県北諸県郡高崎町の霞神社を通過、西都
市の潮神社に至り,新田古墳群の中で止まる。
以上が鹿児島神宮の持つ強力なパワーだが、まだまだ未知の神秘を有する神
社で有る。
吾平町の吾平山丘陵は、もしかすると、日本を代表するビラミッドと呼ばれても
汲して過言ではない。
もし内乱によって諸王を葬り、或るいは鵜草茸を葬った家[ちょう]か塚だったら
、霊峰高千穂は吾平山丘陵の敵か味方か何れであろう。
高千穂峰は、吾平山丘陵と南北に寸分違わず対峠して六三KM、見事に向き
合っている。
此の南北は、見過すことのできない重大な直線の方位である。
[其の南、狗奴国有り、]魏志倭人伝を彷彿とさせる直線の事実で有る。
串間市今町は穀璧が発掘された場所であり、韓国ソウル[古代帯方郡]との関
係を示して見よう。
串間市今町は、中国、後漢の頃、外地の臣下が子爵の位を与えられ、その証
しとして所有した穀璧が、発掘された場所で有る。
今、天空の直線を今町から、り西北に発し、母智丘に向かって飛び立つと母智
丘神社の境内を通過、都城の鳥見山差羽の谷を越え、更にスピードを上げて、直
進すると高千穂峰山頂を極める。
頂上を確認しながら直線を延長させると、人吉市の鏡山五九〇の中心を見なが
ら八代海に出てくる。
海を渡り熊本県天草郡大矢町の茲青観音堂の上空を抜け島原湾を越えると、雲
仙普賢岳と国見山が双子山となり、其の演点を極め、此処は魏志倭人伝の重要
な国々が寄り集まっている。
<一三三ページ>
国見山の頂上を見極めながら直線にパワーを増すと、伊万里市内に入る。
既に此処は北松浦郡だ。
魏志倭人伝の著者、陳寿は末盧国「まつろこく]と呼び、一八〇〇年前の二、三
世紀頃、人家四千数百戸の邪馬
壱国に属する諸国であった。
しかし、国際港湾を有する末盧国は、重要な倭国の対外窓口で有り、国際軍事
都市でもあった。
当時末盧国には朝鮮半島からやってくる郡使や、倭国から大陸に向けて出港す
る交易船、或いは倭国の使者、持衰[じすい、下級役人]、荷主、船員、乗船者で
賑わう大きな港があった。
現在も、海上保安庁や海上自衛隊の基地で、旧海軍の軍港であり原子力港水
艦の寄港問題で話題になる。
大型船舶用ドックも有り、日本有数の港を誇っている。
天空の西北の直線が、末盧国を後にすると直ぐ壱岐水道が目に入る。
やがて目の前に魏志倭人伝の一大国、今の壱岐の島が現出する。
壱岐の島の宇戸湾は、それに面して港町郷の浦が有る。
其の港を右に見て、更に西北に直進すると魏志倭人伝の対梅園、現在の対馬が
見えて来る。
対馬海峡東水道を波りきると、長崎県下県郡厳原町厳原港上空に差しかかる。
厳原港を天空の直線を北西に延長させると、西水道大韓海峡を確認しながら鎮
海湾に臨む。
魏志倭人伝の狗奴韓国[くやかんこく]は、現在の鎮海市で有る。
大望の朝鮮半島に波り、更に西北に天空の直線を速めよう。
慶尚南道、鳥山市上空を過ぎ、慶尚北道高霊郡、金陵郡をかすめ、忠清北道の
報恩郡を越え、清原郡、更に鎮川 郡に差しかかるや京畿道に入り安城都、龍仁
郡に至り、最後の地点、天空の直線を進め延長するとソウル[京城]特別市の中
心地に止まる。
<一三四ページ>
ソウル特別市は、魏志倭人伝の帯方郡に比定されている。
此の西北の天空の直線を更に同方向に延長させると、京畿道北緯三八度線板
門店上空に至り、朝鮮民主主義人民共和国[北朝鮮]黄海北道、金川、そして平
山上空を通過するといよいよ古代国家楽浪郡、現北朝鮮の首都ピョンヤン[平壊]
の中央に至る。
首都ピョンヤンは、魏志倭人伝の楽浪郡に比定されている。
何と不思議な北西或いは東南の直線であろう。
北西の直線を見て誰もが気付くことは、魏志倭人の幾つかの国が、天空の直線
下に現れることである。
今回は西北の串間から出発し平壊の楽浪に至ったが、逆に平壊の楽浪郡から
出発して串間に至る東南の直線は、 殊志倭人伝の[倭人は、帯方郡の東南、大
海の中に在る]と云う東南と私が発見した国見岳を、満足していることは言うまで
もない。
秋志倭人伝の伊都国、南奴国又は奴国、不弥国は島原半島国見岳の東南の
直線の山裾に広がる諸国である。
これから描く直線は、此の東南の直線に平行して奇妙な線が二本、帯方郡と串
間今町の天空の直線が屈折しないように見張るが如く神社、仏閣を通し、残りの
一本は国見山の幾つかを通過して、東南の直線に従うように平行している。
一体誰がこの様ないたずらをしたのかどのような目的で行ったのか、興味深い
問題である。
好奇心旺盛な方は、神社、化閣が示されている九州地図を拡げ、私が槻略の
場所を示す順を追って印を打ち、シンボルの中央を直線で結ふと、必ず感銘と疑
惑が渦巻くはずで在る。
宮崎県串間市の南、名谷海岸の岩石群に、七つ岩と云う景勝地が在る。
<一三五ページ>
七つ岩を出発点として、宮崎県那珂郡榎原の榎原神社神殿に向け、天空の直
線を西北に放ち、神殿に至ると次の目的地、宮崎県北諸県郡三股町の御崎神社
の本殿に向い、更七延長すると宮崎県北諸県郡高崎町の霞神社の御神体と対峠
する。
直線はやがて次の目的地、人吉市雨の宮神社社殿中央にむけ出発し、途中、小
林市、えびの市を通過、熊本県の国見山地に突入する。
国見山地山中の大平山一一四九の環点を見極め、天空の直線は、人吉市雨の
宮神社社殿中央に達する。
雨の宮神社をゆっくり西北に延長すると、熊本県八代市八代神社の社殿に着地
する。
これら、神社群の天空の直線は、串間や京城といかなる関係が在るのか、興味
がつきない。
二本目の平行線を紹介する前、断って置く必要が有る。
串間から京城、平壊に延ばした天空の直線は、対馬の向こうは朝鮮半島で、日
本から見ると海外である。
八代市の八代神社は国内である。
次の残りの一本も、国内で留まる。
更に天空の直線を、海外に延長するとどうなるか、興味有る仮題だが、今は調
べていない。
其の点を申し上げ、それでは二本目を紹介する。
宮崎県日南市油津に、偶然か、串間と同じ名称の絶景、七つ岩と云う海中から
突き出た岩島が有る。
此の地は地元宮崎だけでなく、近県の人々にもよく知られた日南海岸の景勝地
である。
此の七つ岩を出発して、宮崎県宮崎郡田野町と南那珂郡の郡界に存する鰐塚
山壱千古拾九Mを目指す。
途中天空の直線は、油津神社付近を通過する。
油津神社と鰐塚山の関係は、古代史に興味ある人ならすぐピンと来ると思うが、
後程紹介するとして今、直線は鰐塚山の預点を極める。
<一三六ページ>
鰐塚山を通過した天空の直線は、宮崎県北諸県郡青井岳五六三に差しかかり、
隣山のけらがつか四四九を走り抜け、数KMで諸県郡四家付近の第一回目国見
山四〇八を通過して、宮崎県西諸県郡須木村に向かって加速するとやがて、第
二回目国見岳七四六に到達する。
天空の直線は其処を離れ西北に向かって、第三回目の国見山を目指す。
まもなく宮崎県境を越え熊本県に入り、多良木町を越え、五木の子守歌で有名な
五木村が見えてくる。
五木村には、第三回目国見山一二四一が待っている。
五木村国見山一二四一の頂点を極めた直線は、第四回目の国見山を目指す。
やがて、熊本県八代郡の郡界に存する第四回目国見岳一〇三一の頂点に着陸する。
以上、三本の東南、西北の天空の直線を紹介したが、世の中には不思議なこと
を残した人がいたものだ。
此の現実は、如何なる理由で実行されたのか。
古代、大古墳を残した権力者に匹敵する人物が、係わったに相違ない。
宮崎県宮崎郡田野町と南那珂郡の郡界に存する、鰐塚山一一一九と日南市油
津の油津神社の関係を紹介しよう。
油津神社は、神武天皇の最初の妃、吾平津妃を祭神としている。
和銅二年七〇九年元明天皇のとき創建、旧称乙姫大明神と云う。
明治五年旧吾田村の旧八幡、春日稲荷、都万の四社を乙姫大明神合祭して、平
野神社と称した。
その後、吾平津神社と改めた。
邇々芸命は、山の神大山津見神の女、木花之作久夜毘売[このはなのさくやひめ
]と結婚し、火遠理命[ほおりのみこと]を儲け、火遠理命は海の神の娘、豊玉毘売
命と結婚し鵜草茸不合命を生む。
豊玉毘売命の御神体は、大鰐で有り、大鰐の出産を見ることにより離婚する。
<一三七ページ>
鵜草茸不合命は、母豊玉毘売命の妹、大依毘売と結婚、神倭伊波礼毘古命、
漢風諡号、神武天皇を生み、神武天皇は、乙姫、吾平津毘売と結婚。
此の系統から見ると、神武天皇は海神の血を引き、大鰐の豊玉毘売命は祖母
に当たる。
その後、東征して別れた妻を見る神武天皇の思いが、此の天空の直線によって
、吾平津神社と鰐塚山を結んでいるように見えて仕方がない。
前述の楽浪郡、帯方郡、即ち平壌、京城と、串間を結ぶ東南の直線は、何か気
になる直線だ。
此の直線下には、私が追い求める山岳、国見岳一三四七も普賢岳一三五九に
対峠し東南の直線を出迎えている。
しかも直線下の諸国の配列は、古代の遺産として面目を保っている。
平壌大同江付近の、遺跡群、璧、鎮海市任那の古墳群、壱岐、対馬の遺跡群、
島原半島国見岳周辺の遺跡群、高
千穂峰にまつわる天孫降臨の神話、波り鳥差し羽と天皇即位大嘗祭に翳す扇等古
代の鳥見山、後漢時代臣下につながる穀璧の発見地、串間市今町、分かっている
遺産だけでも枚挙に暇がない。
此の直線にはまだまだ謎の遺産が、数々埋もれている。
偶然か、邪馬壱国の主要道も又、我々の目の前に突き付けられている。
もう少し、東南の直線にこだわって見よう。
今の平壌、大同江北岸に楽浪郡を設けたのは、前一〇八年、前漢の武帝が衛氏
朝鮮王を滅ばして占領し、中国前漢東方の拠点としたのである。
二〇三年遼東大守公孫度は息子康に、鬼道の直線、楽浪郡と都城高千穂峰を
結ふ東南に帯方郡を設置させた。
楽浪郡設置から帯方郡設置まで三一一年を経た。
公孫度は黄巾の賊の後、中国後漢の最高実力者として頂点にたった董卓の命を
受け、遼東大守として赴任した。
<一三八ページ>
公孫度大守は、その頃まだ遼東の軋き継ぎ整理に追われ、朝鮮南部と極東の倭
国は未調査である。
董卓の命に従い倭韓連合を配下に修めた公孫度は、今は倭国の報告を受けるし
かなかった。
楽浪郡と倭国邪馬壱国の象徴、高千穂峰を結ぶ東南の天空の直線は、シルクロ
ードほど名はなかったが、重要な朝鮮半島との交通の機関として存在していた。
一八〇年代の倭国は、朝鮮半島から遼東に至る通行は、何恐れることも無く自
由に活歩して、とくに馬韓は同族意識があり、血の繋がりが有った。
一九〇年、後漢の権力者董卓は、賂陽を放棄して長安に遷都せざるを得ぬ国内
情勢に追い込まれ、遼東の主導権は公孫度大守に奪われる羽目に陥った。
此の機を逃さず、遼東大守公孫度は三国の覇者に先だって、自主独立した。
公孫度は和韓連合に対して、正式に大同江の王険城と高千穂峰の東南の天空の
直線の測量を命じた。
一八七年、公孫度が遼東大守に着任したその年、曹操の子曹丕[後の文帝]が
生誰した。
更に公孫度は倭韓連合に対し、陸路、水路の測量調査を命じた。
魏志倭人伝は、水路、陸路の行程を次のように書き現している。
先ず水路の場合であるが、[郡至倭循海岸水行歴韓国乍南乍東到其北岸狗邪
韓国][帯方郡より倭国にいたるには、海岸に循って韓国を水行し、一定の間隅の
場所を次々と止めながら通り過ぎ、乍ち南へ乍ち東に曲がり倭国の北岸、狗邪韓
国に到。]
それでは西晋の皇帝武に上表した魏志倭人伝の象形文字を世界始めてここに
紹介する。
韓国の行程の中に潜む文字であるが、一八〇〇年前二、三世紀、古代の被写
体、漢字の世界は素晴らしい。
[至]は矢が地上に逆に立止まる形を書いた字で、これ以上進めない地点迄来
る行き着くことを描いた文字。
「到]は[至]と[刀]、曲がって反りの有る刀を合わせた文字で、ゆるく曲がりなが
ら行き着くことを現す。
<一三九ページ>
[至]と [到]は此れほど違う。
[至]は正しく直線、即ち天空の直線の科学である。
[循]は[行]と[盾タテ]本来兜の庇で目を守る描写で有るが、広く何かを盾に身
を守るに使う。
此の場合、切り立った海岸を盾にと云う意味から海岸に従って行くが、答えにな
る。
[歴]は屋根と稲の束を二つ並べ虎様子で、一定の間隔をおいて並ぶと云う意味
を示し、それに[止]は足跡の描写で止まる、止どめることをあらわし、一定の間隔
を置いた地点を次々に止めて通って行くことを表している。
[乍]は刃物で、さくっと切り込みを入れる様子を表した字、後に [乍]は颯と云う
急な動作、たちまちの意味に使われ、切り込みを入れて者を造る意味には、[人]
を入れて[作]で書き表す様になった。
以上から[郡至倭]と [到其北岸」の[至]と[到]は意味の内容が異なり、[郡至
倭]は、ずばり直線の効果が有り、[到其北岸]は曲がりくねりながらも約束の場所
に行く、此れほど内容が異なる。
次に、小路、陸路を表した一節に検討を加えよう。
[南至邪馬壱国女王之所都水行十日陸行一月]
[南の邪馬壱国女王の都へ至るには、海路拾日、陸路一月を要する。]
以上の一節には、次の文が、省略されている。
[郡至倭山陸行循韓国乍南乍東到其北岸狗邪韓国]
[帯方郡から倭国へ至るには、山陸を南へ東へ韓国を循り行くと、倭国の北岸狗邪
韓国に到。] [始度一海千余里至対海国]
[始めて一海(朝鮮海峡)を度(測る)ると、一千余里(約百余km) で対海国(対
馬)に至る。] [又南渡一海千余里名日瀚海至一大国]
<一四〇ページ>
[又、南に一海(今の対馬海峡)一千余里(約百余km)渡る。名は瀚海
と云う。一大国(壱岐)に至る。] [又渡一海千余里至末盧国]
[又、一海(壱岐水道) 一千余男里(約百余km)を渡ると末盧国(北松浦郡)に至る。
そして、[南至邪馬壱国女王之所都水行十日]が、後につずく。
さて此処で疑問を生むのが、[南至邪馬壱国女王之所々々]で有る。
此れを解決するのが、[倭人在帯方東南大海之中依山島為国邑]の一節で有
るが、これを高千穂峰から離れて広義に倭国全体を見つめるとどのようなことが
待ち受けるだろう。
此の解釈を、[倭人は帯方郡の東、帯方郡の南の大海に有り山島に依って国
邑を為す]とすると、結果は東南の方向には変わりないが、過程では[東]、[南
]と云う二つの方向が生まれる。
現に帯方郡を京城SOURUとし北緯三十七、八度とした場合、京城から東に
日本海を越えて新潟付近に上陸、北緯三十七、八度を太平洋側の福島県迄延
長すると原町の国見山に突き当たる。
これは[計其道里当在会稽東治之東、(邪馬壱国は)其の道里 (距離、方向)
を計る(「言」、即ち言葉と「十」即ちまとまった数とを合せ、数を読みながらまとめ
ることを表す)と、当に会稽東治(此の場合魏志倭人 傳を著した陳寿の意よを専
重し、魏の立場に立ち長江河口の宗明島付近より北岸、北緯三十一・五度近辺
とする と丁度まさに東、同じく北緯三十一・五度近辺に霧島山系高千穂峰が鏡座
する。)
国見山とは何か。
国見山を承認しなければ、成り立たない問題であるが、帯方郡の当に東方福島
県の国見山、会稽東治の当に東方高千穂峰、これは偶然とは決していいきれるよ
うな、生易しいことではない。
例えば、福島県の原町国見山と京城を結ぶ東西の直線、此の下方全て当然南
面に当たり倭人の居留地で在る。
だから、帯方郡から発する東南の方向は、奥羽の地を除いて、邪馬壱国の条
件を満たす、全てに当てはまる。
<一四一ページ>
しかしこれは邪馬壱国えの第一歩であり、女王国を此れだけで利用するのは
大きな誤りである。
大きな条件から小さな条件に移行する過程が重要である。
これらの条件を網羅して、積み重ねてこそ邪馬壱国を勝ち取る権利が生じる。
即ち倭国の中の一部分に邪馬壱国が存在すると言うことである。
これを象形文字に置き換えると、[倭人は帯方郡の東南にあり、大海に向かって
出発すると旗竿を立てたような山並み、霧島連峰の陰に身を寄せ合い、女王卑弥
呼の治める国家が維持、運営されている。]と言づことになる。
始度一海千余里至対海国[始めて一海を計る千余里、対海国に至る。
又南渡一海千余里名日瀚海至一大国[又、南へ一海を渡る。名は瀚海と云い一
大国に至る。]
又渡一海干余里至末盧国[又、一海を渡る。千余里。末盧国に至る。]
上記、文の中で重要なことは、[始度一海]と [渡一海]は、同じ意味でない。
それは [度]と [渡]が同じ[わたる]では無い。
[度]は、漢音で[たく][と]と発音し、呉音で [ど]という。
[又]は、手を表し、庶と合わせて、手の指を広げて尺取虫の様に物のながさを測
ることで、物差し、目盛りなどの意味に使う。
だから、始度一海は、狗邪韓国と対海国の海峡の幅を始めて測ると云う意味に
なる。
[波]は、水と度を合わせて、川のこちら側から向こう側へ、足で一歩ずつ、渡る
いみを表す。
[波一海」に就いては、前者の場合対馬と壱岐は、上対馬の西泊港と壱岐宇戸
湾の郷ノ蒲、後者の壱岐と北松浦郡は郷ノ浦と佐世保の間を云う。
東アジアにおける遼東金と女王卑弥呼について調べて見ることにする。
<一四二ページ>
遼東太守公孫度は、倭国と韓国の方位、距離以外に、種々の社会制度や人口
調査、国人、種人の風習等、細部にわたり知り得たのである。
一九六年頃、公孫度は楽浪郡の王険城を基地として、正式に楽浪公を自任した。
これは、超古代の倭韓連合律令制度の一部を、解決した行為である。
さらに、天空工学に基ずく東南の直線の開発は、駅の問題を解決し、都市国家を
形成する基幹となった。
目だつ場所を通過する天空下には、都市機能を有した諸国が出現し、倭国の頂
点に立つ邪馬壱国女王卑弥呼は、当時独裁的に立法、司法、行政の三権を、独
自有したのである。
二〇三年、病に臥した公孫度に代わり、息子の公孫康が東南の天空の直線下
に帯方郡京城を定め倭韓連合の拠点を設けた。
二〇四年公孫度は他界し、第二代遼東、楽浪王公孫康が就任した。
時に倭国女王卑弥呼は、二十五歳を数えた。
一八四年、後漢十二代霊帝の時、黄巾の賊が起こり国中が厳然とした。
宮中は、宦宮が勢力を振るい帝の力は衰える一方、為すがままである。
しかし、袁紹が宦宮を滅ぼし、黄巾の賊は董卓が采配を奮い決着した。
女王卑弥呼が東アジアに君臨したころと袁紹と董卓の末路を、此処に再現して
見よう。
董卓、酒宴を開き百官を集め、手に刀を執り云うには「大いなる者は天地、次は
君臣。これを治めるはそれがしである。」
上、礼を無くせば、下は背く。 今上皇帝闇弱[あんじやく]のため、天子に向かぬ
。俺は今伊尹霍光[いいんかっこう]の例にならい、帝を廃して弘農王と為し、陳留
王を起てて君とする。汝等[なんじら]百官、分かったか」と、聞くと、群臣恐れて答
えるものがいない。
<一四三ページ>
其のとき一人の男が進み出て、名を袁紹と云う。「今天子、徳が有って罪は無い
。貴様、子を廃てて庶子を立ては、必ず謀反の心があるに違いない。」
董卓大に怒って「天下の大事、皆我に有り。たれか、俺に従わぬものがいるのか
。汝我が刀をきれないと思い広言を吐くか。」
袁紹も激怒して剣を抜いて云うには、「貴様の刀がよくきれれば、俺の刀もよく切
れる。」董卓益々腹を立て、素早、大事におよばんと見たとき、蔡キュウ中に入り急
に止めて云には、「事はいまだ定まらず、軽々しく殺したまうこと勿れ。」
袁紹はこの間に百官を威嚇しながら、剣を引っ提げ外に出て、馬に飛び乗り居城
冀州[きしゅう」を指して下って行った。
董卓太伝[たいふ]袁随[えんかい]に向かい云いはなった。
「俺の命令に背く者は、軍法を持って処罰する。」
百官は皆押し然り、震え上がって恐れおののいた。
董卓は侍中の周比、校尉の伍壊[ごけい」、議郎の何偶三名を呼び「衰紹め、己
の国を指して逃走中だ。此れは謀反の心なり。」
周比申すには、「廃立のことは、天下に立つ者でなければ分かりません。袁紹は、
今の現実が分かっていない。
小さなことを恐れて、でしゃばっている。どうして野心なぞできるものか。今、もし急い
で袁紹を追うなれば、家
臣を納得させるまえに、変が生じましょう。その上、袁紹は奴の四代まで三公を務め、
四方に恩得を与えている。
その門下には、古い役人が多く、若し兵を集めて事を構えれば、山東の国々はこと
ごとく貴奴に従う。此こは貴奴を許し、一郡の太守に封じ諸臣の心を安心させてく
ださい。」
<一四四ページ>
董卓は「この議はしかるべし。」をいって、即刻人を遣わして、袁紹を渤海郡の太守
とした。
これ以来、内外の政や事は全て董卓の料いとなった。
文武の百官に出席せぬ者は皆切り殺すと触れを出し、九月朔日、帝を嘉徳殿に
請じたが、一人残らず集まった。
董卓が刀を抜いて皆に申すには、「少帝、時弱にして全く威儀が無い。天下の君
とするには耐えられない。」
つづいて李儒、郊天の策文を高らかに読み終わると共に董卓は先ず、天子を御座
より引き下ろし、その璽綬を
解き、北に面する臣下の席に即かせた。
何太后を引き出し、その衣服を剥ぎ裸にしたため、少帝も何太后も御涙に咽ばれた。
此れを見る人、みな顔を被って悲しんだ。
その時一人、大音声を上げて「賊臣董卓、天を欺き聖明の君を廃するとは、如何
なることか、汝と死を以てけじめをつけん。」と云うや腰の帯刀を揮って、打ってかかる。
男は尚書の丁簡で有る。
荒声を揚げて君に背く逆賊と呼ばわれた董卓は、対に彼の首をきって落とした。
ここに陳留王劉協を請じ、天子に即位した。
百官はみな万歳を称え、礼は終了した。
今董卓の側近に、騎都尉中郎将都亭候呂布と云うもの有り。
呂布が敵なる時、その勇猛なるを見て、もし貴奴を味方になさば、我、天下近しと見た。
すると一人の者が進み出て「私は呂布と同郷の友で、その心を能く知っている。
勇有りて計りなく、利を貪りて義を忘る。私が行って利害を説けば、必ず味方に付く
だろう。」と申し出た。
この男、誰かと思えば虎貴中郎将李粛で有る。
董卓は喜んで問うた。「汝如何して呂布を降らしめるのか。」
<一四五ページ>
李粛云うには「貴方の秘蔵している赤兎馬と金銀を与えたまえ。」
李粛は此れを得て、従者二人を引き連れて、呂布の陣に行き対面した。
「私は李粛で有る。」呂布は驚き、「貴殿は今何処に居るのか。」
李粛が云う。「我漢朝に仕え、虎貴中郎将の職を受けて居る。今貴殿は、社稜[(し
ゃしょく)国家の安危、存亡を一身に受け、事にあたる臣下、或いは国家の重臣]を
助ける心掛けが有ると聞いて、喜びにたえない。俺は名馬を持参した。一日に二
千里は走るという。水を渡り山を越えること平地を行くがごとし。なずけて赤兎という。」
全身火より赤く、頭から尾迄長さ一丈、蹄[ひずめ]から鬣[たてがみ]までたか
さ八尺、嘶[いななく]声、空に上り海に入る。
呂布大いに喜び「俺は何かを以て報ぜん」と云う。
「貴殿の父はこの馬のことをよく知っている。」
「我が父は、世を辞して長い。何でこの馬を見ることがあろうか。」
李粛笑って云うには「父とは貴殿の丁原のことだ。」
呂布が云うには「久しく丁原の下にいて、今更出られぬかも知れない。」
李粛云う「貴殿は天を衝き海に橋を架ける才が有る。四海誰が知らぬ者が有る。
何時迄人の下に過ごすのか。」
「意や、然るべき君がおらぬ。」
「良禽は選んで木に棲む。賢臣選んで主を佐ける。日月移り易く空しく年老い果て
るは、後悔するとも益なし。」
「長殿は今、朝廷の中で誰が英雄と思っているか。」
「云わずとも全て董卓にはおよぶまい。賢に敬い士に下がり、寛仁にして徳篤く、
賞罰極めて明らかである。」
「俺は素より董卓に仕えるを願うも、縁無きを恨む。」
<一四六ページ>
その時季粛[りしゅく]金珠玉帯[きんじゅぎょくたい]を取り出した。
呂布は驚いて「これは如何なる子細だ。」
十董上早久しく長殿の徳を慕い、俺を使いに出した。」
「董卓俺を愛し給う。何を似てか徳に報いねばならぬ。
此処で少しお待下さい。丁原[ていげん]の首を取り、献上しょう。」
この時丁原は灯火を掲げて、書を見ていた。驚いて呂布に「我が子よ、何事が有
って夜中に問うか。」
「俺は常世の並の男で、汝の子では有らぬ。」
丁原慌てて向き直り「どうした俄に心の変じるわ。」
云いも果てぬ間に走り掛かって、一刀の下に首を斬り刃ね、大昔を上げて皆に申
した。
「丁原は不仁で有る。我既に斬り殺した。志しあるものは我に従え。」と叫ぶと大半
逃げ去った。
李粛大変喜び、先に帰って董卓に報告した。
「呂布を得て早苗の雨[かんびようのう]をえた様だ。」
呂布再拝して云うには「我、今暗きを捨て明らかに仕える。願わくば父として力を尽
くさん。」
董卓は喜びに耐えず、一人部屋に入って酒宴をした。
李粛に重い恩賞を与え、呂布に金の甲錦具足[こうきんぐそく]を賜った。
さて、陳留王劉協[ちんりゅうおうりゅうきょう]字は伯和、御年九歳この方が献帝で
有る。
献帝は董卓を相国に封じ、黄腕を太尉、楊彪[ようひょう]を司徒、筍爽[じゅんそう]を
司空、韓馥[かんぷ]を冀州の牧[きしゅうのばく]、張留を陳留の太守、張資を南陽の
太守に任命した。
董卓[とうたく]いよいよ逆威を振るい、殿に上がり萬ず心のままに行った。
この年改元して初平と号した。
<一四七ページ>
永安宮[えいあんきゅう]に何太后[かたいごう]と弘農王[こうのうおう]を、氷く閉じ
込めたが、弘農王が一首の詩をつくったのを機に李儒を、永安宮に毒の酒を持たせ
、盃を捧げた。
何太后は声を上げて、「国賊董卓天道は汝を祐けず。必ず罰を被るべし。たちまち
滅亡するぞ。」と罵った。
董卓は、喜んで城外に三人の死骸を埋め、毎夜のように宮中に入って官女を姦淫
、龍床の上に横たわり、禁裏の皇女公主を犯す前代未聞の悪逆を働いた。
又、何時も兵を連れて城外を横行し、ある日の事、陽城で社日の祭りの日、兵を
下知し町の一人残らず惨殺し、婦女を略奪する事件が起こった。
被害者の首を市に曝し、婦女や奪った財宝を恩賞として人に施した。
行く末に不安を覚えた一人、越騎校尉[えつきこうい]伍孚[ごふ]、董卓が朝家を
出るとき走り掛かって、刀を抜き斬りかかったが、呂布走り寄り伍孚を押し倒した。
董卓は呂布に命じて首を斬しめ、此れより用心して兵を従え四方を囲み行来した。
勃海郡[ばっかいぐん]に在る袁紹[えんしょう]は、董卓の悪逆を王允[おういん]
に書簡で送り、朝廷の旧臣忠義の志在る人々を集め、誕生日を理由に私邸で酒宴
を設けることをしたためた。
酒宴の日、その中に曹操がいた。
曹操が云うには「其れがしが董卓に仕えるは、隙有らば景奴を殺すためである。
しかし貴奴はそれがしを信じ、 大小の悉く問い譲る。王司徒は昔より希代の刀を
所持するときいている。願わくばそれがしに貸して下さい。容易に貫奴を斬り殺し
ましょう。」
<一四八ページ>
曹操は刀を受け取って、酒宴は終わった。
曹操は家に帰り相府に出たが、既に夜も白み董丞相[とうじょうそう]は書院に
居り呂布が側に自立していた。
董卓は「何故遅く参ったか。」と問う。
曹操は答えて云う。「馬が痩せ道遅くなりました。」
「我、西涼州[せいりょうしゅう」の名馬得たり。呂布、曹操に一匹与えよ。」
呂布は承知して外に出た。
曹操は天の助けと刀を抜いたが、董卓側の鏡の影を見て、「曹繰何事じや」と云
った時、呂布が帰ってきた。
曹操仕損じて刀を納める方も無く、しかし少しも慌てず柄を取り直し、跪ずいて「そ
れがし名誉有る刀を求めて
献上のため腰に帯びて参りました。
董卓手に取り「天晴れなる刀だ。」と呂布に渡す。
董卓馬を引かせ、曹操は拝借して、「御前にて試しに乗って見ましょう。」と云う。
鞍を置かせると曹操急に飛び乗り、鞭を加えて行方知らずに失椋した。
呂布も董卓も深く怪しみ、急に逃げるは何か有ると、国々に触れを出して生け捕
るように命令し、若し生け捕った者には一千金を与え、万戸候に封ずると衣服模
様を詳しく絵に写し、日夜を分かたず州郡に触れ回した。
曹挽は既に陳留に下着し、父を訪ね有りのまま語った。
父を介して衛弘に合い、その忠義の心に家財を売って貴殿を助けるという。
曹操大いに喜び、白い旗に忠義の二字を書き、四方に触れを回すと、集まり来る
者雨の如し。
衛国の楽進[がくしん]字は文謙、夏候惇かこうじゅん]元譲、夏候淵[かこうえん]
妙才の兄弟二人、沛国樵郡[はいこくしょうぐん]の人である。
屈強の兵三千余騎にて馳せ参ずる。
<一四九ページ>
更に、後将軍南陽太守袁術、冀州刺史韓馥、予州刺史孔仲、克州刺史劉岱[こ
くしゅうちょくしりゅうたい]、河内郡太守王匡[おうきょう]、陳留太守張貌ちょうぼう]
、東郡太守喬瑁[しょうばう]、山陽太守袁遺[えんけん]、済北相鮑信[ほうしん]、
北海太守孔融、広大守張超、徐州刺史陶謙、西涼太守馬騰[ばとう]、北平太守公
孫賛[こうそんさん]、上党太守張楊、鳥程候[うていこう]長沙太守孫堅、祁郷候勃
海[ぎごうこうばっかい]太守袁紹、の勢二万、三万続々洛陽を指し馳せ上る。
徳州平原県では、劉備玄徳、関羽、張飛の三名加わる。
このように十八ケ国の諸侯集結して、掛け並べた陣は二百余里、数十万の兵は余
地も残さず、満ち溢れている。
太守王匡が云う。「今共に、義兵を起こして逆賊を討とうとしている。盟主を立てそ
の後を進めよう。」
曹操が云う。「袁紹の四代迄三公に昇り、門下に縁故多く、漢の名将の後胤だ。
因って、彼を盟主としよう。」
衰紹は衣冠を整え剣を帯びて壇上に上り、香を焚いて再拝し誓う。
孫堅、先鋒となり手勢を引き連れ、氾水[はんすい]関に殺奔[さっぽん]した。
関を守る者は李儒、早速董卓に知らせ、酒色に溺れた董卓驚きうろたえ、如何が
すればよいか、皆に議する。
呂布あざ笑い「少しもお心を苦しめ給うな。呂布がお側にいる限り、枕を高くして
お休み下さい。」
その時一人の男が進み出て「この度の戦い私だけで十分、敵前に罷り越し国々
の諸侯の首を取りつかまつる。」
身の丈九尺余り、関西の人、華雄である。
<一五〇ページ>
董卓大いに喜んで驍騎校尉に封じ、五万の兵を授け、李粛、胡珍[こしん]、趙
岑[ちょうしん]を副将とし、氾水関を守らせた。
済北の相、鮑信は弟の鮑忠を呼び、「長沙の太守孫堅が先鋒なら、我は小路を
抜けて先に氾水関に押し寄せ、敵を一攻めして功名を上げるべし。」と申し付け参
千余騎、鬨の声を上げた。
華雄の五百余騎、轡[くつわ]を並べてまっしぐらに切って掛かる。
参千余騎の鮑忠の軍、散り散りになり走ったのを華雄馬を飛ばして追いかけ、壱
刀の下に鮑忠を切って落とし、首を董卓に投げ渡した。
長沙の孫堅、それを知らずに氾水関に入った。
華雄の副将胡珍[こしん]の五千余騎、関を下って打って出る。
孫堅の家臣、程普は矛を回して二、三合、胡珍は落馬して即死する。
孫堅勢いに乗って攻め掛かれば、華雄も兵を下知して、雨のように矢を射させる。
孫堅、兵を収めて梁東に陣を取り、胡珍の首を袁紹の本陣に届けた。
華雄は、休息する袁紹に夜襲を掛けてきた。
孫堅は這々の体で逃れたが、華雄の兵走りきて飛ふように追って来る。
孫堅一人多勢に無勢、弓矢を捨て林の中に逃げ込んだ。
孫堅、危なき命が助かった。
孫堅と抜け駆けの鮑将軍、共に敗れ味方みな落胆した。
しばらくすると斥候の者が帰ってきた。
華雄が兵を引き連れて攻め上って来る。
衰紹は云う。「だれか行ってこの敵を破らん。」武勇の高い愉渉[ゆしょう]と云う大将
が前に出て、兵を引き 連れ打って出た。
<一五一ページ>
武闘参合も合わせぬうち革雄に、一刀の下に斬って落とされた。
敗軍走り帰り、その由告げると、一座の諸侯は驚いた。
大守漢馥、部下の名将藩鳳[はんほう]に出陣させた。
暫くして供の者が走り帰り云うには、藩鳳も一刀洛びて絶命したと云う。
満座興を醒まして色を失くした。
袁紹、嘆じていう。「敵する大将あらずや。」
一座黙然として答える者なし。
そのとき、「それがしが華雄の首を取りましょう」、と云うものがいる。
袁紹尋ねて問う。「お前は如何なるものか。」
「玄徳に従う馬弓手です」
袁術は此れを聞き怒って云う。「お前は国々の諸侯に大将がいないとあざ笑うか。
馬弓手の分際で、大きな舌を動かすな。」
曹操は領きながら諌めて「試しにで向かわせ、勝たないときに罪を正そう。」と云う。
袁紹が申すには「こ奴行かせると華雄に笑われるぞ。」
曹操「この体普通のときと違う。馬弓手と思うまい。」
関羽が云う「それがし華雄の首を取らなければ、軍法に掛けて下さい。」
関羽は八十二斤の青竜刀を引っ提げて出立した。
国々の諸侯が勝負を危ぶんでいると、遥に鼓のこえや鬨[とき]の声が天地を響
かし、山川が動揺した。
<一五二ページ>
関羽は馬を飛ばし敵の大勢を八万に追い散らし、中軍に駆け入り唯一刀に華
雄を切り捨て、首を取り引き返す。
数万の敵軍恐れて近ずく者も無い。
関羽は本陣に帰り、華雄の首を投げ出した。
諸侯は大いに喜んだが、袁術は怒り本国に帰った。
袁術の心を思う国々の諸侯、各々の陣中に引き上げた。
曹操は玄徳に酒肴を贈って、怒りを慰めた。
一方、董卓は仰天して李儒を呼び、計略を協議した。
まず袁紹の叔父、大伝袁隗[たいふ、えんかい]の屋敷を取り囲んで、男女一人
も残ず斬り殺した。
その後、二十万の兵を二つに分かち、一手は李催、郭氾[かくはん]を大将に五
万余騎、氾水の関を固めた。
一手は董卓自ら十五万の兵を連れ、李儒、呂布、張済、樊桐[はんちゅう]を従え、
虎牢関を固めた。
その関の外に、三万の兵を付けて呂布に守らせた。
呂布は武士の誉れ、赤兎は馬の誉れ、寄せての大勢もこの気迫に圧倒されて、
中々進めない。
その時河内の獲将方悦が躍り出て、二、三合刀を交えたが、呂布に馬から切り落
とされた。
呂布は勢いに乗って、王匡の陣を壊滅に追いやる。
王匡危ぶしと見えたとき、喬瑁、袁遺の二人一度に攻め掛かり、王匡を救出した。
呂布は打ち勝ち、敗軍を三十里退却に追い込んだ。
その時、斥候兵が走り帰って、「呂布がここえ攻め寄せる」という。
上党の太守張揚の配下、名将穆順[ばくじゅん]は馬に飛び乗り呂布に向かったが、
唯一合、馬から下に切り落された。
又、北海の太守孔融の部下、大力の持ち主、武安国、五十斤の鎚、五尺の柄を
軽く打ち振り呂布に立ち向かう。
<一五三ページ>
矛を回して十合、武安国は腕を落とされ、袁紹の十八の諸侯一斉に打って出て、
武安国を救助した。
寺に早馬が釆て、呂布がそこまで来たという。
呂布、忽ち切り込んで公孫賛の陣に打って掛かった。
公孫賛、うける間もなく馬で走るが、呂布の赤兎馬、早くも追いつきあわや一命、そ
の時、大きな眼を怒らして呂布に立ち塞がったものがいる。
呂布、屹っとそれを見て、公孫賛を打ち捨てて虎髪の大男張飛に挑む。
関羽これをみて、八十二斤の青竜刀で立ち向かう。
玄徳も又、左右に剣を持って斬りかかる。
火を散らして戦う勇者、諸侯此れを見て、心から酒に酔う心地である。
呂布、形勢危ぷしと見て取って、馬を飛ばして退いた。
呂布の軍勢大半討たれて虎牢関え逃げ込んだ。
此れを世に虎牢関の三戦と云う。
董卓と李儒が協議の途中、「漢東の万、賂陽に都すること二百余年気運は衰えた
。我天文を考えるに盛期、今、長安にあろう。早く都を遷して太平の基を為すべし。」
と云う。
朝廷の百官、司徒要彪[ようひょう]、大尉黄宛等は「遷都の時期ではない。」といっ
たため董卓は怒って「我天下の計を為す。憎っくきおのれら、何とて我が心に背くか。」
と楊彪、黄腕、萌爽三名の官職を剥ぎ、周比、瓊[ごけい」の首を斬った。
家臣どもは、人の妻子を白昼に姦淫し、董卓は禁門に火を掛け人家を焼き払い、呂布
に命じて先帝代々の宗廟、皇后妃大臣の墓まで暴き、主上皇族、更に宝物を数千
輌の車で悉く長安に運ばせた。
<一五四ページ>
国々の諸侯、此れを見て「素早董卓落ち延びたり」と見て取って、我先に氾水関
え、虎孫堅が、虎牢関は玄徳が夫れ夫れ最初に乗り込んだ。
孫堅、更に馬を飛ばし洛陽を望むと、火炎天を魚がす。
曹操、袁紹に申すには「この勢いに乗り追いかけよう。」
袁紹云うには「諸国の見方の勢いは、悉く疲れている。追いかけても益が無かろう。
まず、弐、参日人馬を休めて後に沙汰をしよう。」
董卓、賂陽を落ちて長安に急ぐところ、けい陽の太守徐栄が出迎えた。
董卓、徐栄と李儒に計り、新手をけい陽城の山陰に伏せおき、敵の行き過ぎるを
待ち後を塞ぎ、前後より打ち破
る策を与え、更に呂布に精兵をつけ御車の後陣に回らせた。
案定、曹操の壱万余騎、それとは知らず飛んで来た。
呂布あざ笑い「主に背く匹夫首を無くすな」と罵った。
両方の軍勢、命を惜しまず交戦する。
曹操の壱万余碕、心を壱つにして戦ったが、敵の猛勢に破れて敗退する。
荒れ山の裾で、人馬の息を休める間もなく夜中の二時頃、徐栄の伏勢、夜襲を掛
けた。
曹操は馬に跨がるとき、矢を肩に受け抜く暇も無く、直ぐ又馬の太腹を二槍突かれ
て転落した。
あわや、首を取られるその時、曹操の弟曹洪、飛ぶが如く走り来て二人の敵を斬り
殺した。
曹操、喘いで云うには、「我、深手を追った。此処で死ぬ。汝は落ち延び生き残れ。」
曹洪が申すには「此れぐらいの傷を負ったとて、天下の大事をどうするのですか。」
曹操我に返り曹洪の馬に這い上り、必死に逃れ走りつずけた。
国々の諸侯賂陽に集結し、士卒手分けして焼け跡を洗い清めた。
<一五五ページ>
その時、殿の南に、五色の光る井戸が有るとの知らせが有った。
井戸の中に死した女が居て、屍は少しも腐爛がない。
女は朱の箱を持ち、中から玉璽が出て来た。
[受命干天既寿永昌」と蒙字で書かれ、孫堅は伝国の玉璽[ぎょくじ]と知った。
此れを有する者は、必ず九位の位に上り国を子孫に伝える祥瑞であるという。
孫堅喜び、仮病を起こし本国に持ち帰るを決意する。
「外に漏らす者は、必ず首を斬る。」と声名したが、その中に袁招と同国の者が居て、
早速、袁招に報告した。
「よく知らせてくれた。」とその者に恩賞を与えた。
夜明け頃、孫堅自ら本陣に釆て、袁紹に「病起こり軍中の勤務が不可能。」と申し出た。
衰紹笑い「汝の病よく知って居る。義兵が董卓を誅するとき漢朝の宝、玉璽を得て密
かに本国に持ち帰ると云う
とは、謀反の心有り。」
孫堅は「我知らざること」と云って退ける。
国々の諸侯、誓って云うには「嘘は無かろう。」と。
袁紹は先ほどの軍士を呼びだし事情を聞くと、孫堅刀を抜いて斬ろうとする。
袁紹も刀を執って「軍士を斬るなら汝をきる」と云う。
満座の諸侯一同に中に入って推し止めた。
孫堅は何を思ってか、矢庭に走って馬に飛び乗り、本国を指して馳せ帰った。
その時曹操一万余碕、「董卓に討たれて逃げ帰った、とつげると、袁紹諸侯を集めた。
曹操進み出て云う。「事はみな相違して、日頃の心に背き、疑いを持って兵を進め
ることができない。
<一五六ページ>
我甚だ将軍の立場として耽ずかしい。」と云うと、袁紹等答える言葉も無かった。
この頃、国々の諸侯の心も離れて、散り散りになった。
衰紹も暫く洛陽を引き上げて関東に帰る決意をした。
又、国々の諸侯も、思い思いに帰って行った。
孫堅は洛陽を出て、荊州[けいしゅう]にあった。
太陽西に傾く夕暮れ、後方より壱軍が打って出た。
良く良く見ると、荊州の太守劉表である。
「貴殿は、袁紹の偽りの濡れ衣を聞いて、隣国の繋がりを忘れられるや。」
「否、汝、伝国の玉璽を盗むは、反逆の企てである。」
「否、私は玉璽を盗んではいない。天地神明に誓う。」
「長殿子供の戯れのような、然様な誓いをたてるとは。」
「長殿の兵士の中、明らかに探させるなら、快く通すであろう。」
「何っ。」
劉表急に退くと、孫堅の兵と共に走ろうとする。
兵は悉く討たれ、程普、黄蓋等も命を棄てた。
孫堅はわずか六、七騎で江東へ逃げ帰った。
この時から劉表と孫堅は、互いに仇を結び戦の絶える隙も無かった。
袁紹は河内郡迄居城を引き下げて、よって兵糧に事欠き、北平の太守公孫賛に
書面で、冀州の韓馥[かんぷく]
を共に攻めて、二つに分け取ろうと誘いをかけた。
公孫賛は願うところ、幸いであると云い、やがて兵を出す準備に掛かった。
<一五七ページ>
袁紹は公孫贅を裏切って韓馥[かんぷく」に連絡を取り、「公孫贅が攻め来るぞ」
と云った。
韓馥は臣下に「俺は昔を辿れば袁氏の家から出た、才能は袁紹に及ばず。古に、
才有る者に国を譲ると有る。」
韓馥は反対を押し切って、袁紹を迎え入れた。
袁紹は冀州に入り、太守韓馥を奮武将軍に封じ、国の政治をめさせた。
権力は袁紹に集まり、臣下の諌めを思い知って後悔すれど及ばず、韓馥有れど
無きが如しと成り果てた。
公孫賛は「約束を守れ。」と冀州を指して押し寄せた。
袁紹、橋の上から申すには、韓馥不才にして冀州を維持できず、我に国を譲った。
公孫賛が云うには「昔、賂陽を攻めたおり、汝忠義の人として共に議して貴様を
盟主としたが、実は狼心狗幸[ろうしんくこう]のくせ者であった。」
袁紹は「奴を生け捕って、舌を抜け。」と呼ばわる。
文醜[ふんしゅう]、馬を飛ばして駆け出した。
公孫賛も槍を突きだし、両者戦ったが公孫賛遂に敗れて、山間に馬を打って逃
げ出した。
公孫賛あわや討たれようとしたとき、誰とも知らず、甲冑も着ない一騎、文醜に
分け入り七、八十合、戦った。
文醜かなわじと見て、馬を廻して遁走した。
公孫賛は、「我を助けた者は何物か」と聞くと、「趙雲子竜ショウウンシリュウです
」と云う。
もと袁紹の部下で大将を努めた。
趙雲子竜、云うには「袁紹は民を哀れみ、漢を助ける心無きを見て、ここにやっ
て来た。願わくば仁徳の主に仕
えて、共に塗炭の苦しみを救いたい。」
公孫賛いまだ趙雲の心根が知れず、わざと後陣に備え挿せ、辰の時より巳の
時に至る。
<一五八ページ>
間もなく戦闘が開始され、敵も味方も大勢の中に駆け入った。
左へ追い右に追い、互いの敵を打ち破ること数知れず、血は懇々として溝をなし、
屍は塁々として丘を成す。
公孫賛は後陣勝利を聞き、急ぎとって返し、敵軍大いに乱れ右往左往しながら落
ちて行く。
袁紹は公孫賛の無能ふりを笑ったが、今はそれどころで無い。
趙雲の五百余騎、雨のごとく矢を放ち、袁紹築地の影に隠れて難を避けた。
袁紹、被る兜を脱ぎ捨てて、戦場で死ぬことぞ本懐とばかり、真っ先に馬を飛ばす
と、兵も「命を軽んじてはいけませぬ」、と喚き叫んで攻め戦う。
公孫賛、乱れて趙雲と一手になり、橋の辺りに退いた。
袁紹、大軍を率い自ら馬を飛ばし、追いかけた。
その時、関羽八十二斤の青竜刀を捧げ持ち、張飛一丈八尺の蛇矛を横たえ、劉
備玄徳左右に剣を掲げ、「我、平原より来て公孫賛を助ける。」と呼ばわった。
袁紹、驚くと同時に、人馬は踏み殺され鎧を捨て、兜を落として惨々に落ちて行く。
公孫賛十分打ち勝ち、玄徳をもてなし趙雲の功を語り、玄徳は趙雲の人柄を敬
い趣雲は玄徳に良き主君を思う。
袁紹、討ち負けて一月、既に長安に聞こえていた。
董卓、二人に恩徳を与える目的で、「天子の勅令なり」と云い、二人の使いを遣
わした。
使いは「和睦有るべし」を両者に伝え、公孫賛も「一儀におよばず」、袁紹も又「何
ぞ勅命に背くべき」として、和睦が定まった。
公孫賛、兵を収めて長安え表を上[奉る」、玄徳を平原の相に奏した。
趙雲は玄徳に徳を感じ共にすると云うと、玄徳は云う。
「貴殿は心を堅くして、公孫賛を助けよ。」と云うと涙を流して思い止どまった。
<一五九ページ>
南陽太守袁術は、兄袁紹が冀州を得たと聞き付け、冀北の名馬千匹を所望し
たが、猫の子壱匹与えなかった。
此れが原因で兄弟不和となる。
又、袁術は荊州[ケイ]の太守劉表に、兵量米弐拾万石を借り入れ申し込みをし
たが、一粒も与えなかった。
袁術怒りを含め密かに、呉の孫堅に手紙を送り、「共に荊州を攻め取ろう。」と云う。
袁術は偽り多い男で、言葉に信用が無いことを孫堅は知っていた。
「我、常に荊州を攻める気持ち有り。人の助けを待ず黄蓋を先手に五百余の軍
船で、日を選び進める。」
この宣戦布告は荊州の太守劉表の耳に届いた。
孫堅の子供は呉氏に長男孫策、次男孫権、三男孫翔、四男孫匡、呉氏の妹に
長男孫朗、長女仁、又渝氏の腹に一男孫韶 [そんじょう」がいる。
舎弟孫静は此の諸子を連れ孫堅のところにやって来た。
「長男孫策は、十七歳。依って我に従い戦いに加わわり孫静と孫権は国を守るこ
と」と云うに、孫策気早な若武者なれば、真っ先に船を飛ばして樊城え攻めかかる。
荊州の勢大敗北を被り、黄祖は兜を脱ぎ捨て歩立[かちだち]の勢に混じり這々
の体で戦場から敗走した。
黄祖は全軍戦いに敗れて、命有る者は虜となるか逃走中である旨を、早馬を拾
い告げに帰国した。
劉表、色を失い、諸大将を集め計略を詮議する。
先ず蔡瑁[サイボウ」出でて、一万余騎にて見山に陣を張る。
しかし孫堅は、詰所の戦いに打ち勝ちて、負け知らずの常勝である。
蔡瑁忽ち討ち負けて、陣中に逃げ帰った。
この行為は違法であり軍法に付すところ、劉表は最近その妹を愛し、遂に刑は
執行され無かった。
つづく・・
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