都城の邪馬壹國
著者 国見海斗 [東口 雅博]
<二四一ページ>
天子に奏して罪の無い玄徳を罪人にしようとしている。
私たちはここに来て、其のことを役所に話して玄徳の恩徳を表そうとしたが、門から中
に入ることか出来ない。
帰って散々打たれ、追い出された。
張飛は此れを聞いて大いに怒り、牙を噛んで馬より飛び降り、直ちに館門に入った。
番人共張飛を中に居れまいとて、全員集まって来たのを四方え追い散らし、堂中に入っ
て見ると、督郵高座して県吏を集め責めている。
張飛雷のような声を発っして[民を害する逆賊め、この張飛を見知らずや]と叫んで、虎
髪を逆さまに怒り上げた。
ギラリと光る眼は百練の鏡のようになって睨みつければ、督郵驚いて左右の者に下知
して捕らえようとした。
張飛力を出して近ずいてくる奴らを踏み倒し、督郵に飛び掛かり髻[もとどり]を掴み空
中に引っ提げ、[憎き己は良くもここに来られる]と言って門外に引き出した。
傍らの柳の木に括り上げ、自ら柳の下枝を折って督郵の股の辺りを二百程うちつずけ
ると、既に柳の大枝数十本が打ち折れていた。
玄徳は此のことを知らず、俄に物騒がしくなったので、何事かと問うと一人走って来て
言う。
[張飛が酒を過ごし人を縛って痛く鞭打っている。今はもう打ち殺されたろう]玄徳は聞
くか聞かぬまにその場に行って見れば、張飛の怒り叫ぶ声は、休むことも無い。
督郵の体は、柳の梢に吊り上げられていた。
玄徳は驚いて色を失い [これはどうしたことか]と聞く。
張飛は大きな息をついて言うには [この督郵は民を害する曲者である。打ち殺さなけ
れば心が許せぬ]と言う。
そして又大きい枝を振り上げて、散々に打ちのめす。
<二四二ページ>
督郵、木の上から玄徳を見つけ、苦しそうな声を出して言うには[玄徳公、願わくば一
命を救いたまえ]
玄徳、人慈の心深く急いで張飛を押し止どめているところに、関羽馳せ釆て言う。
[兄は今まで莫大功を立てながら一県の尉に除せられ、今、又督郵に無礼をされておる。
某思うに枳棘叢中「しき
ょくそうちゅう]は鸞鳳[らんぽう」の棲所「すむところ」に非ず。督郵を殺して故郷に帰り、
別に遠大の計をなさん] 玄徳は此れに従い、印綬を解いて督郵の首に掛け[景様は民
を害する賊だ。今首を刎ねようと思ったが、我が心忍ばざるところ有り。この故に官を捨て
て帰る。]と言って、関羽、張飛を伴って琢郡えと帰って行った。
その後百姓共集まり来て、督郵を柳の下に降ろした。
督郵は都に帰り、定州の太守に訴えた。
太守は此の事柄を朝廷に奏し、兵を差し向けて玄徳を捕らえようとした。
玄徳は事件が急だと知り一族を車に乗せて、代州に行き劉快を頼り、暫く茲に隠れた。
此の行為は現代社会のあちこちで勃発する内戦や世界戦争、冷戦、更に経済戦術も
含めて余け変化が無い。
当時中国という大国は、極東の倭国に対して何の影響も与えない、遠い国の存在だっ
たろうか。
倭国は倭国で外部の影響を受けない、平和な弥生時代を謳歌していたのか。
例え二千年前、今から考えると半動物的な人間社会の連中としても、果たして極東の
倭国だけが、農耕民族、弥生期を諸外国の影響受けずして、或いは排斥して海に囲まれ
た地の利便を活用して、国家間の編成から脱退に成功を収め得る事が出来たであろうか。
考えれば考えるほど、二千年前とは言え人の行為と言うものは今に当てはまり、余り
変わっていないのが不思議である。
<二四三ページ>
戦後から始まった真の古代文化の発掘調査によって、文献資料は乏しいが日本国家
の成立は、次第に明らかにされようとしている。
果たして如何なる結論が将来、生じて来るか楽しみである。
これが当時の時代背景としたら、当然、女王卑弥呼も此の時代の中に翻弄されていた
はずである。
黄巾の賊は、中平元年百八十四年中国後漢も末期には入り、民衆の不平から端を発
した一揆である。
国を食する十常侍は益々蔓延り、軈て後漫の終焉が目前に追っているが、誰も気が付
かない。
既に、魏、漢、呉、三国の時代は、幕を切って落とされていたのである。
私の考えでは、倭国九州王朝邪馬壱国の女王も魏国と関係し、中国の策略計略の中
に翻弄されながらも、強かに
倭国の神髄を秘め、外交を演出し中国歴代の臣下として極東の要を守ったに相違ない。
卑弥呼が即位した年が、中平元年百八十四年で有る。
漢の高祖三尺の剣を携えて秦の乱を平らげ、哀帝の時まで二百余年、天下を治めたが
、王莽に位を奪われ世が乱れ、光武帝これを平らげ、後漠の世を起こされた。
光武帝より十二代霊帝、御年十二歳にて帝位に即く。
光和五年、改元して中平元年甲子の年、倭国女王卑弥呼が即位した年でも有る。
本来倭国は、武器を持った男子が王として君臨していたが、倭囲も又中国と同じように
内乱が続き、中国と共立して一人の女子を王とした。
正始八年二百四十七年狗奴国との内乱の責任をとり自決、親魏倭王卑弥呼、享年七十
六歳。
卑弥呼には武装した一千人の婢が仕えていたが、その葬送には選ばれた奴婦百余人
が、径百余歩の家、今の直径五、六十M周囲百六、七十Mの大きな塚の回りを徇月の間
、即ち十日間程葬者を送るためぐるぐる巡り歩き、喪主は慟哭し、その他は歌舞し、飲食
を共にする。
<二四四ページ>
その遺体は棺に入れるが其れを覆う枠は無い。
棺は穴を掘り直接土で封じるが、それは土を盛り上げ塚を造って完成させる。
それを家[ちょう]と言う。
始め死するや、喪に止まること十余日、その間肉は食せず、喪主は哭泣し、他人は歌
舞飲食す。
既に儀式が終われば、家を挙げて水中に詣で操浴す。
卑弥呼の後改めて男王が君臨すると、国中に不服者が出て、誅殺された者が一千余
人にも及んだ。
復び、卑弥呼の宗女、壱与十三歳首女王に即位させると国中は平和を取り戻した。
中国の資料から解ったことは、東洋の当時の社会情勢、また漢字の構成の基礎となる
図案化の特徴から、有る程
度の内容と作者の意義である。
遠藤哲夫先生は、漢字の知恵で次の様に書かれている。
後漢の許慎[三十年ー百二十四年]が著した説文解事は、漢字の構成上指事と言われ
るが、物の形でなく抽象的概念や物の位置方向等を符号で示したり、象形の一部を指示
したりするもので、これを符形と言う。
数の概念、一、二、三、や、小、上、下等此れに当たる。
説文解字では、合意が形合成に当たる。
象形又は符形の文字を二つ以上組み合わせると、それぞぞれの文字を生かしながら、
新しい意味内容の文字を構成する。
例えば[鳴く]は[鳥」と[口]、[隻]は[佳]と[又]、[奮]は[大]と[佳]と[田]の組み合
わせで、全て形合成に属する。
[木]は二つ並べると[林]になり、[止]は左足で右を添えると[歩]になる。
<二四五ページ>
[歩]に [川]の意を表す[水]、即ち [シ]サンズイを添えると[渉]を造る。
筒、洞、同、胴、鋼、桐は全てトウ、ドウという発音で共通している。
此れは各文字の構成部分に含まれる[同]の字が、その発音を示しているからである。
竹、シ [水]、月[肉]、木、金、等はそれぞれの意味を表す。
漢字の構成部分で、特にその字の発音を示すものを[音符]と呼び、他方の意味内容を
限定しているものを[意符]と言う。
音符と意符との合成による漢字構成を、音意合成と言うが、説文解字では形成となずけ
ている。
例えば[鳥]で漢字を作る場合[鳥]又は [僅]を意符として、此れに適当な音符を付け
れば良い。
鳩、鴻[ちん]、鵠[石、くぐい]、鶏、鶴、雁、雉、等で、鳩は、鳥の鳴き声を含み人の連想
を助け、文字の意味を表に出す場合も有る。
環[輪の形の玉]、寰[宮殿を取り囲む垣根]、還[基に戻る]、圓[囲む、巡らす]、鐶[金
属の輪]の文字は全て[環]を音符とする意志形成で、[カン]の発音が共通している。
然し此の字は、意味の上でも共通している。
其れはぐるりと廻るというと言う点である。
環は古代の死者の埋葬に際し、死者の胸元に置いた玉製の数珠を表すが、[ぐるりと
巡る][取り巻く][廻って基に戻る]等が、此の文字に与えられた意味である。
漢字の中に潜む芸術的絵画は、必ず魏志倭人伝の中にも存在しているし、古代を浮き
彫りにさせる力を秘めていると言うことを確信している。
それでは魏志倭人伝がもっている幾つかの漢字を例に、絵に措いてみよう。
其国本亦以 男子為王[其の国は本来中国と同様男子を以て王となした。][本]は木の
根本に印を付けて、広く物事の基、草木の根本に使う。
<二四六ページ>
[亦]は両手を広げて立っている人の両脇に点を付けて腋の下を表す。
腋の原字、同じものがもう一つ有ることから亦に使う。
[以]は田畑を耕す鋤きの形、人が鋤を使って田畑を耕様子を表す。
道具を使って何かをすると言うことから、何々を使って、何々でもっての意味になる。
住七、八十年倭国乱相攻伐歴年乃共立一女子為王名曰卑弥呼[倭国は乱れ、相攻伐
すること歴年、一女子を中国と共立して、王と為した。崩寿七、八十年、名前は卑弥呼と
言う。]
[住]は、イ部即ちニンベンは、人の状態、動作、性質等を表す字を作る。主の点は、一
個の点で小さなものを表す。 又有る部分を特に示す印し等に使う。
[主]、の成り立ちは炎の先がじっと立って燃えている形を表した字で、それに燭台を加
えた字である。
灯火を支配したのは、一家の主人であったので主の意味に使う。
[住]は、イと主とを合わせた字である。即ち人が一所に留まることを示した文字である。
[乱]は、両手と糸巻きとを合わせて、糸の縺れをとぎほぐす様子に右側の押さえる記号
を付けて、乱れた糸を収めることを表す。
[乱]は、乱れると、収めるの二つの意味があったが、今では乱れるの意味に使う。
[相]は、内部迄見抜く意味を表す。今は此の字を借りて、あい、たがい、の意味に使う。
[攻]は、エの縦の線で上から下まで突き抜く、即ち穴を明ける様子を表す字で、それに
攵[ボク]、動作を示
す記号を添えて、敵の城等を突き抜いて攻めることを表す。
[伐]は、イと戈とを合わせ、長い柄の先に両刃のついた武器で、人を切る様子を表す。
<二四七ページ>
[歴]は、屋根と稲の束を二つ並べた様子とを併せて、一定の間隔を置いて並ぶという
意味であるが、それに止める、足、歩くを添えた[歴]は、一定の間隔を置いた地点を止ま
りながら次々と、通って行くことを表す。
[年]は、稲の形と音を示す実るとを併せて、稲の穂が膨らみ、実る意味を表す。稲が実
り刈り入れの出来る期間を表す。
[乃]は、漢字でダイ、呉字でナイ、訓でナンジ、ノ、スナワチ、アナタ、等、物がくねくね
と曲がっている様
子を表した字で、此の字を借りて[乃至]の様に接続詞や二人称代名詞に使う。
[共]は、玉のようなものを両手で捧げる形を書いた字で、両手を一緒に挙げることから
[共]の意味になる。
[立]は、人が踏ん張って地上に立っている形を示す。
[子]は、子供の形を書いた字である。
以上の語彙から文章を組み立てると次のようになる。
倭国は桓帝から霊帝の間、来るとしも来るとしも城攻めが戈でお互いを殺戮したが、中
国と倭国が話し合って
十三歳の一人の女子を王にしたが、戦いの内部まで良く見抜いて、大乱が収まった。
王の名は卑弥呼という。
七、八十才まで寿命が有った。
同じように漢文の文字を象形文字から解読して見る。
卑弥呼以死大作家径百余歩徇葬者奴婢百余人[卑弥呼は女王の儀式に則り、懐剣で
戦争責任の自決を遂げた。
直径百余歩の大墳丘墓を忽ち作り、奴婢百余人、埋葬者の家の回りを十日間巡り歩いた。
更立男王国中不服更誅殺当時殺千余人
[更]は、漢音でコウ、訓でサラ、フケル、アラタメル、カエル、カワル、老いて経験深い
者、夜間のときの区切り等、古くは二股の机、二つに分かれると支、動作を示す記号を合
わせた字、二つに分けて別の物とすることから、サラニ、アラタメルの意味に使う。
<二四八ページ>
[服]は古い字体では月は舟で盤と同じ意味で、音を示す俯くとを合わせて、盤に向かっ
て俯いて仕事をする。
そこから仕事に従う意味を表す。
[誅]は、チュウ、セメタテル、セメコロス、武力デ罪人を討ツ、言部のゴンベンは言葉に
関係する字を作る。
古い字体は口と音を示す辛、心の意とを合わせた字、口から表現される心底から言葉
の意味に使う。
朱は、木の中心に印を付けて、木の幹を切ったときの中心部を示した字で、中心部の木
質部は赤みを帯びていることから、赤い意味に使う。
誅は言と朱を合わせた字で、今回の誅は中心人物を攻め殺すの意味が適切だろう。
年老いて経験の深い男が王に起った。国中は男王の君臨に従おうとしなかった。更に、
諸国の中心人物が攻め殺された。まさに其のときから一千余人が殺されるに至った。]
復立卑弥呼宗女壱与年十三為王国中遂定
[復]は、フク、かえる、かえす、又、同じものを上下に重ねると足を合わせ、其れに行く
を添えて、同じ道を再び戻ってくる意味を表す。
同じ道を引き返す、帰る、元の状態に戻る、繰り返す、再びする、報いる、仕返しをする、
又、もう一度、等。
此の復は、前述した卑弥呼の生涯や倭国乱の時期、城攻め、殺戮などの目的とは、関
係しないが、中国と倭国の話し合いによって女王が成立し、壱与が女王に就いた状況と
卑弥呼が即位したときが、全く同条件を書き印した復である。 ∴
恐らく年齢は状況から判断して同年代に即位し、安定した国家体系を得たと思われるか
ら、此の辺りが復に関係しているに違いない。
<二四九ページ>
[宗]は、ウカンムリの家と示すの神を祭る祭壇とを合わせて、祖先神を祭る御霊屋の
意味を表す。
そこから大本の祖先、本家等に使う。
[定]は、ウカンムリと正しいを併せて、家をただしく収める意味を表す。
卑弥呼は中国後漢の時代、遼東太守公孫度の推挙によって百八十四年、黄巾の賊が
後漢の国を震撼とさせた年、倭国女王に即位した。
倭国大乱は軈て女王共立により誕生し終結した。
女王卑弥呼の即位の年は、十三歳で有る。
黄巾の賊も首領張角の死去により其の年のうちに平定された。
正始八年、卑弥呼自決、老男王即位、内乱の責任を取り老男王自決、十三歳壱与、倭
国女王に中国と共立によって即位、この年、帯方郡太守王室が就任、塞曹掾史張政来倭
、狗奴国長官狗古智卑狗、戦乱の責任を取り穀壁と共に串間の今町に葬られる。
卑弥呼は男弟、後の男王と共に西都原に祀られた。
時に二百四十七年のことである。
次に串間の穀璧について述べて見よう。
文政元年千八百十八年二月の事、中国漢代の皇帝が臣下の倭国の諸王の一人に与
えたという硬玉穀璧が、日向の国串間今町王の山から発見された。
地元の農民佐吉が弥生期の箱式石棺の中に眠っていたものを見つけだしたものである。
その後農民佐吉は、穀璧を家宝として大事に所持した。
明治の始め孫の代になり、河野佐吉として孫が家督を襲名した。
<二五〇ページ>
孫の河野佐吉は遊び人で、立地や家屋敷の財産を売り払い、全て博打の金に替えて
しまった。
その頃、東諸県郡本庄町[現国富町]に剣柄紳社があり、宮司を宮永真琴と言った。
宮永宮司は、尋ねて来た松浦武四郎と懇意になり、宮司は武四郎の為に漢詩を作り、
其の人格を称賛した。
漢詩は今も宮永家に保管されている。
武四郎は、串間の遊び人、河野佐古が親からの宝物、玉璧を所持していることを宮司か
ら耳に挟んだ。
早速武四郎は佐吉と出会い、宝物の穀璧を買い取った。
武四郎は伊勢の国の人で、文政元年千八百十八年の生まれである。
明治二十一年七十七才で亡くなった。
武四郎は明治十年千八千八百七十七年占鏡の説明書、撥雲余興を著している。
古い焼き物に詳しく、特に古代史については秀でていた。
その年、穀璧は桐箱に収められ、多気志楼蔵と箱書きされた。
明治十年十二月、小野湖山氏は前田侯爵家から玉璧の由来を箱書にするように依頼
された。
前田家は武四郎から穀壁を買い取り、現在東京の前田育徳会の宝物館に保管されて
いる。
此の玉璧こそ魏志倭人伝の魏の皇帝斉王が正始六年、倭国卒善中郎将難升米に賜っ
た黄幢に匹敵する物である。
後漢の霊帝は中平元年百八十四年黄巾の賊を平定し、女王卑弥呼が即位したのを切っ
掛けに、倭国乱も治まった。
献帝の時、初平元年百九十年、董卓の命で公孫度は遼東、楽浪太守に仕命され、倭国が
落ち着きを取り戻したその功績を讃えて、内乱の扇動国、狗奴国の王に対して漢委狗奴
国王印の金印、長官に穀璧が賜授された。
考古学雑誌第十一巻第十号、大正十年六月五日発行の文中から、宮崎県串間市王の
山から文政元年千八百十八年二月、農民佐吉、穀璧を発掘、加賀百万石旧藩主前田家
東京が蔵品云々々と発表された。
<二五一ページ>
璧 箱書
文政元年戌寅二月 日向国那珂郡今町 農 佐吉 所有
地字王の山 掘出石棺中獲古玉古鉄器三十余の一云々
【 明治十年丁丑十二月 湖山長憲 題
以上について平子鐸嶺氏は所見を次のように述べている。
周宏璧考略 平子鐸嶺 草
成六瑞 王用鎮圭 公用桓圭 侯用信圭 伯用躬圭 子用穀璧 男用蒲璧 合六幣
圭以馬、璋以皮 璧以帛
注に云う、五等諸侯天子を奉るに璧を用いると、今見る所の壁面、恰も粒子の如く凸起
せるものなり。
これ呉氏の所謂穀璧足るものなり。
即ちこれ周代子爵諸侯の天子享用の器たるものならん。
真に希世の珍宝と称すべし。
弘璧の大きさに就いて云い、穀璧は製作に就いて云い、即ちこれ宏壁にして穀璧たる
ものか。
明治四十一年戌申二月二十二日夜稿
台湾故宮博物館による六瑞の説明は、六種瀬の玉器のことで六種の権力を与えた玉
器である。
鎮圭の長さ、一尺二寸、天子の物、中央に穴が有る。
桓圭の長さ、九寸、公爵の物、下方に穴有り、以下同型
借主の長さ、七寸、侯爵の物、 同上
躬圭の長さ、五寸、伯爵の物、 同上
穀璧は、王周璧紋、子爵の物、円形板、中に円孔有り
<二五二ページ>
蒲璧は、王周蒲紋、男爵の物、円形板 中に円孔有り
串間の穀璧は、直径三十六CM、厚み約六MM、出土品中最も大きな形で有る。
璧の出土例は、朝鮮大同郡大同江面、石巌里第九号墳、前漠、居摂三年、直径二十
一CM。
外、中国に二個、日本は串間今町を含めて三個有る。
奇しくも場所は朝鮮大同郡大同江面、ここは古代の楽浪郡、王険城の南を流れる大河
川で今の平壌に当たる。
後漢献帝の時、董卓の命をを受けた公孫度は、初平元年百九十年遼東楽浪の太守と
して就任した其の矢先、董卓
は献帝を連れて洛陽を捨てて、長安に遷都した。
倭国女王卑弥呼は献帝の臣下として、楽浪太守の部下となり命令に従った。
その頃、朝鮮半島の南、馬韓、弁韓、辰韓は倭の種人として倭国に属していた。
建安八年二百三年、後漢献帝も黄巾の賊より既に十九年を数え御年三十三になられ
たが、臣董卓が権力の暴威を振るい、国中大いに乱れ、群雄が並び起った。
遼東の公孫度も自立して、息子の公孫康と共に、長安の天子の制度を取り入れ政務を
司った。
倭国女王卑弥呼も引きつづき遼東侯公孫度の臣下として、朝鮮半島南部、倭国を率い、
良く国を治めた。
朝鮮北部、楽浪の王でも有る遼東侯は、大同江の王険城を起点として邪馬壱国の中心、
霊峰高千穂に至る直線距離の測量開発を命じた。
太陽の黄道、星座から割り出した座標軸を起点に座標を定め方位方向を追求し、目印
の山又山を踏破して行く。
測量器械は、今のプリズムに変わる凹凸面を利用した神獣鏡で有る。
水路の測量は、数百隻の測量船が配備された。
合図は狼煙と銅鐸で有る。
<二五三ページ>
その他、馬車や騎馬は当然である。
こうして楽浪、今の平壌と都城盆地の西北に鎮座する高千穂峰の直線方向が定まり、
距離が推定された。
二百三年、公孫康は父君遼東公と卑弥呼の測量の完成を祝って、今の京城を設置した。
正しく帯方郡、京城は此の東南の直線の鉛直線にある。
平壌と高千穂峰を結ふ直線は、東南に向かっで京城を発すると狗邪韓国に至る。
現在の朝鮮半島南部、慶尚南道鎮海湾鎮海市に当たる。
金海平野の此の付近は、中国に狗邪韓国、倭国で任那と呼ばれ、倭国と朝鮮半島、陸
路の遼東半島を結ぶ重要な拠点であり、此処東南の直線下には無数の古墳群が集中し
ており、倭国通商貿易港も兼ねた日本領で有った。
更に、三百有余年以来数百年、高句麗との戦いに敗れ、倭国が任那から撤退を余儀な
くされるその日まで、古戦場の様相も呈している。
狗奴韓国を出発した東南の直線は対海国、今の長崎県下県郡厳原町厳原港の上空を
正に貫通する。
厳原港を越えた東南の直線は、一大国、今の壱岐郷ノ浦町郷ノ浦港沖合二、三KM余
りの海上を飛んで行く。
扠、倭人伝の中の[始度一海、南渡一海、又渡一海]の[度]と [渡]について、古代の
文字に立ち返って其の絵の中から作者の神髄を探って見よう。
度は、漢でタク、ト、呉でド、和でタビ、タイという。
成り立ちは[又]即ち [手]と、音を示す [庶]とを合わせて、手の指を広げて尺取り虫
のように物の長さを測る、そこから物差し、目盛り等の意味に使う。
此の解釈の立場に立つと[始度一海]とは、始めてここから海の幅を測ると、と云うことに
なる。
即ち、海の幅を測らなければならない理由が有ったと云うことになる。
<二五四ページ>
次の渡は、漢で卜、和でワタルという。
成り立ちはシ即ち水と、音を示す度[尺取り虫が這うように、手の指で一はづつ測って行
く]とを合わせて、川のこちらから向こう側え一歩づつわたる意味を表す。
この様な文字の使い方から[南渡一海][又渡一海]の渡は、南一海を渡る、又一海を
渡る、と云うことで、の測るとは、自ずから性質が異なっている。
一大国郷ノ浦港沖合三KM余りを東南に直進して行く直線は、末盧国、現在の佐賀県
東松浦半島に上陸する。
古事記は末羅県、日本書紀は松浦県と有り、現在の唐津市付近である。
唐津の宇木汲田遺跡からは、測量用の凹面鏡や銅鐸類の部品等多数出土している。
余談になるが、私が示している国見山の鉛直線の付近は遺跡の宝庫と云っても、決して
過言でないということだけは申し述べておく。
松浦半島は現在、東松浦半島と北松浦半島が有る。
東南の直線は、東松浦郡と北松浦郡の県境を嘗めるように、通り過ぎて行く。
二百三年を境に倭人伝からこの辺りを探索してみよう。
帯方郡二百三年設置当時、公孫康政権と倭国が都市整備して開発された港湾が郷ノ
浦港だとしたら、其の港から千余里は、佐世保周辺の港が丁度適している。
九十九島は、風光明媚其のものである。
唯、心配なのは当時と比べて、海進がどの程度進んでいたかである。
倭人伝に、[東南陸行五百里伊都国]と有る。
佐世保から大村湾の東に沿って、東南の方向に進むと大村から諌早に至る。
多分伊都国は諌早で有る。
<二五五ページ>
諌早の場合、距離が佐世保から丁度五十KMである。
倭人伝も丁度五百里と書いて、余の字が書いていない。
条件は東に国見岳と普賢岳が並び、有明海、島原湾、橘湾、大村湾、五島灘等の周辺
の海洋観察に最も適した場所で有り、一大卒の駐留地として申し分がない。
又、楽浪や帯方郡から高千穂峰に描いた東南の直線も、雲仙普賢岳と並び立つ国見
岳の上空を通過して、諌早の真上からも東南、西北の高千穂、楽浪、帯方の宮殿を臣
下の立場から遥拝することが出来る。
更に、倭人伝によると、人家も千余戸ばかりと云う。
諌早そのものは三海と山を背に、海の食べ物は別として主食の収穫は少なそうだし、
又それほど人口を収容できる地形でも無い。
それでなくても、外国の訪問者や一大卒の検察官、軍隊が犇めき、民間人は限られた
人達で、官に奉仕する関係者だけだったかも知れない。
長崎は諌早に準じて伊都国の可能性が高いが、広大な土地に一千戸の家族ではいさ
さか物足りない。
恐らく諌早の伊都国の傘下に置かれた、属国の可能性が有る。
距離も五百里丁度ではない。
海の検察も諌早ほど有利性に乏しく、東南の直線も角度的に物足りない。
やはり長崎は、隣国伊都国の関係から見て、諌早の勢力下に置かれた属国で有った
ように思われる。
[東南至奴国百里]とは、伊都国から測って奴国までの距離が古里だと云うことである。
勿論、東南の方向は、最大の条件である。
すると諌早の東南十KMの地点に、愛野町と千々石[ちじわ]町が存在する。
<二五六ページ>
この二つの町の近辺が奴国[ぬこく]である。
魏志倭人伝は、この付近に二万余戸の家屋が有ったと書いている。
国家権力を有した諌早の軍都、官庁を避けて、諌早を中心に愛野町、千々石町、或い
は今日の国見町迄、東南の直線の下に集まって、居住したと考えられる。
今から三年程前、島原半島の国見町役場を訪問したことが有る。
役所に行く前日、国見町の小さなホテルに投宿した。
ホテルの主人は、私が国見岳の調査でこの町に来ている事を知っていて、夕食のとき
[今、長崎県教育委員会が 発掘調査に来られた。紹介しましょうか。]と耳打ちされた。
私は早速繋いで貰い、夕食後この部屋で古代の国見岳に就いて語り合うことになった。
やがて数人の調査員が来られ、島原半島国見岳一三四七が話題になった。
国見町の古代道路の発見、遺跡発掘が話題になった。
私は、[国見山岳は北海道、沖縄を除き全国に見られ、九州地方に二十四山、奈良県
に五山、四国二山、秋田、福島等その他一山ずつ有るか無いかである。
国見と同じ働きをする山岳に、烏帽子山岳が有る。]と云う様なことを話した。
[東行至不弥国「フミコク」百里]、魏志倭人伝の東南至奴国百里、の次に書かれた一文
で有る。
当然この起点は古代の奴国、今の千々石町付近で有る。
東行すれば不弥国に至ると云う。
およそ十KM、東行すれば不弥国に至る、となるとその真東の島原市を於いて外にない。
此のように国見を有する東南の直線は、倭人伝に纏わりついて私の心を離さない。
魏志倭人伝に次のような謎の一文が有る。
<二五七ページ>
[南至投馬国水行二十日]、此れを訳すと、投馬国に行くには南に向かって船で二十
日かかる、と云う。
どこから出発するか、結論を先に述べておこう。
それは不弥国、島原市で有る。
水行一日は、船でどれ程掛かるのか、江戸時代の船旅を書いた歌人の三島敏子さんの
、日向おんな旅日記を参考に計算して見よう。
江戸の地踏む感慨、品川へ心はやる姫さま
五月二十七日、雨天かきくもりて向志かどはかどらず、夫れ夫れ支度も出来て六ツ半七
時過ぎに、ゆるやかにここを立ち出るころハ小雨。
生麦、小雨、川崎、大森小休にて、まず降りハやみ、品川に行くまでに晴れよかしと、
思ひし所、鈴ケ森辺ハ薄日さし出ーーー。
ゆるやかにここを立ち出ずるという一言に、三月十五日に延岡を出発してより七十二日
間海路、陸路をたどりつついよいよ江戸の地を踏む感慨が、しっとり伝わってくる。
梅雨含む朝の庭に静穏に満ちた大輪の白花香気ある花の誇り、充真院のおんな立ち
姿を彷彿させる一行である。
日高蔦子の高鍋、大阪の道中日記
蔦子が慶応三年千八百六十七年一月二十四日高鍋を発ち二月九日浪速の港に着くま
で十五日間の船旅の日記である。
中に和歌三十首を詠み込んでいる。
充真院とは延岡藩内藤充真院さまのことで、大名家夫人寡婦、この日記の一部は江戸
と延岡の往還に書かれた。
日高蔦子は文化十二年千八百拾五年美々津の生まれ、充真院より十四歳年下です。
蔦子の夫は藩の学者として、大阪へ遊学中病死した。
<二五八ページ>
二十年余り経って、念願の墓参をする、夫恋い得る妻の旅日記です。
以上が三島敏子さんの文章の一部である。
此の二つの文章から一日当たりの徒歩の距離と水行の距離を割り出して見よう。但し、
宿泊は見込まない計算に
なるから、一日当たりの速さに三割程上乗せした数値が、実際の徒歩や船そのものの速
さになる。
充真院さんの場合、海路と陸路を使い七十二日間掛かって、延岡から品川に到着しよ
うとしている。
日高蔦子さんの場合、船旅で高鍋から難波の港迄十五日間掛かったと云われている。
今、宮崎から日本道路公団の高速道路を使い、即ち九州縦貫道、近畿道等を利用して、
古代からの港、難波、船
場住吉、堺近辺を測ると八百五十KM以上掛かる。
船旅の場合、出発港は宮崎県美々津の耳川河口辺りがいい。
日高蔦子の出身地で、高鍋と延岡の間ぐらいでもある。
又、神武天皇の東征の港でもある。
海路の距離に殆ど影響はない。
航路は、四国の沖合黒潮に乗る場合と、瀬戸内海を経由する場合が考えられる。
江戸時代、近世は中古、近古と違い海賊に侵されたり、上古の様に敵対する諸王がい
ないから、食料や飲料水の補給を考えると、瀬戸内経由が安全でいい。
船旅の距離は美々津、難波の船場で五百五十KM、箱根等を考慮して陸路大阪、品川
間は六百余KMである。
するとその結果は、海路で一日当たり三十六、七KM、進むことになり、陸路で一日十
一KM歩むことになる。
又、延岡から品川迄七十二日間、掛かったということは延岡、難波の船旅は十五日間
だから、大阪、東京間の陸
路は五十七日掛かったと云うことになる。
東海道五十三次の各宿場泊まりを思うと、五十七日はだ当な日数の様に見えてくる。
<二五九ページ>
東海道五十三次とは、江戸時代、京都三条大橋から東方沿海の諸国を経て、江戸に
通じる街道を設け、幕府は五十三次の駅を譜代諸侯の領地とした。
江戸日本橋から京都三条大橋まで、五十三の宿駅のことである。
品川、川崎、神奈川、保土ヶ谷、戸塚、藤沢、平塚、大磯、小田原、箱根、三島、沼津、原
、吉原、蒲原、由比興儀、江尻、府中、丸子、岡部、藤枝、島田、金谷、日阪、掛川、袋井
、見付、浜松、舞坂、新井、白須賀、二川 吉田、御油、赤坂、藤川、岡崎、池鯉鮒[ちりゆ
う]、鳴海、宮、桑名、四日市、石薬師、庄野、亀山、関、坂下土山、水口、石部、草津、大
津、以上を東海道五十三次という。
和船を漕ぐ用具の一つに艪があるが、人が握って押す部分のことで、腕と脚、或いは羽
、即ち水中にあって水をかく部分から成り立っている。
脚の上部に取り付いている艪臍を船の艪床にある艪抗に嵌め、腕には舷に結び付いた
早緒を掛け、此れを操って船を前進させる。
江戸時代、艪と帆を利用した大型船で千石船があった。
米を千石積載出来る船のことである。
一石は十斗で約百八十リットル、千石は一石の一千倍に当たる。
帆は二十六反、艪は十七から十八梃、此れが千石船の姿である。
一反は二丈六尺、或いは二丈八尺を云う。
此のような大型貨客船でも、距離に対する速さは、従来の古代の船と大差がなかった。
扠、[投馬国に行くには、南に向かい船で二十日掛かる]という前述の一文を、思い出し
て頂きたい。
投馬国に行くには島原市が起点であり、島原市は古代の不弥国である。
<二六〇ページ>
不弥国、島原市の東シナ海橘湾から、天草の牛深と甑島の間を擦り抜けて、東経百三
十度ぐらいを真っすぐ南下
すると、およそ五百KMに奄美大島がある。
船の南下の途中経由は、鹿児島県薩摩半島を抜け、大隅諸島に至り、更に南下して吐
口葛嗽列島[とから]を歴り、そして薩南諸島の鬼界島から隣の奄美大島に至る。
当時の航海技術は命を張って会得した高度な経験の産物と思われるから、島伝い船舶
航海法は技術と相侯って、
海難事故は最小限に留まったと思われる。
以上から、一日二十五KMの速度で奄美大島、即ち投馬国目がけて針路をとると二十
日で現地に至るのである。
[但し宿泊を見込むと船其のものの平均の速さは三割りぐらい減に成る。]
[南至邪馬壱国女王之所水行十日陸行一月]
直訳すると[南、邪馬壱国に至る。女王の宮殿がある所、船で十日、徒歩で一月掛かる
。]と云う意味になる。
此の文中目立つのは[至]と云う文字が絶対的に至上命令を受けて、他の語句を圧して
いるということである。
[至]と云う文字は、イタル、トドク等の意味を含む字を作っているが、成り立ちは矢が地上
に逆さまに突き立って止まった形を描いた字で、もうこれ以上進めない地点迄来る、或い
は太陽が南北の極点に達した時、位の強い意志を持った漢字である。
だから[到]や[致]とは随分掛け離れた、差の付いた文字である。
右え行こうと左に来ようと、又基の位置に戻って南に進み繰り返し繰り返し目的の南の
地に、どんなことが有っ
ても真っすぐ至り着くと云う文字で有る。
このようなことを頭に入れて[南至邪馬壱国]を理解すれば、絶対に目的地に達すると云
うことが見えてくる。
摩れば、どこを起点にすれば良いかと言うと、勿論それは帯方郡である。
帯方郡から陸の平地や山間部を、ぐるぐる蛇行しながらどんどんどんどん南下して、やが
て狗邪韓国こ至り、そ こで船に乗り換え、対海国、一支国を経て末盧国の佐世保に至り、
下船した後改めて陸路を南に南に、女王国邪馬壱国高千穂峰を目指せば良い。
<二六一ページ>
此の道程は東南の道しるべ直線の科学が案内人と変わり、目標をはっきり見極め進む
から然程困難を感じない。
扠、距離は帯方郡から狗邪韓国迄約三百KM、渡海して末盧国佐世保迄約三百KM、末
盧国佐世保から邪馬壱国
高千穂迄直線距離で約二百KM、即ち陸行は合計で五百余KM、水行で三百余KM。
水行の三百余KMとは狗邪韓国、今の鎮海湾の港から対海国、即ち今の対馬の上対
馬付近迄が百余KM。
上対馬から壱岐、即ち一大国迄百余KM。
壱岐から佐世保、即ち未盧国迄百余KM。
以上、三百余KMを単純に十日で割ると一日当たり三十余KMとなるが、当時の外洋大
型船は江戸時代に比較して船の主要材は、板材よりも丸太のキールを中心に軸組し、外
装も太と丸太と小丸太をバランス良く重ね合わせ、重心は漏水による浸水を船底に溜め、
ローリング、ピッチングを防ぎ、浮力との調節こも役立てたと思われる。
此のように考えると、船体の重量は江戸期の物の二倍ぐらいは、有ったに違いない。
速度も抵抗が大きく帆船で無く人力だから一日当りの航行距離は、江戸期よりも二、三割
りは伸びが無かった。
又、港の入港や出港も手間が掛かり、装備の点検や飲食の積み荷作業、休養等に日数を
要したと思われる。
当然、雨天の障害は付き物である。
出港は穏やかな海の凪ぎと満天の星空が浮かぶ夜、月と星座が針路を決める。
各島々の寄港は、以上から判断出来るように言うまでもなく、魏志倭人伝にも、[帯方郡を
出港して倭国に至る
には、海岸に循って水行し韓国を歴する。]と有る。
ここで、[循]と[巡]の違い、歴史の[歴]を分解して説明する。
<二六二ページ>
[循]は[行く]と[盾]従うとを併せて、従って行く意味をあらわす。
[巡]は[行く]と[巛]セン、見る、とを合わせて見て歩くと言う意味を表す。
[歴」は[屋根と稲の束を二つ並べた様子]を表し、それに[止、アシ、アルク]を添えた歴
は、一定の間隔をおいた地点を次々止まりながら通って行くことを表す。
以上、漢字がもっている絵画の感性を古代の文字の中に織り込んで読解すると、当時
の情景が思い忍ばれる。
扠、話をもとに戻すが、水上の三百KMを十日で走れば一日当たり三十KMであるが、
途中一ヶ所の停泊時間を
八時間とすると、二十四時間の三割だから実際のふねの速さは二十KMぐらいになる。
陸行五百KMも蛇行する道路の増部分一割見込んで五百五、六十KMとすると、おんな
旅日記等も考慮しながら宿場も織り込み、一日当たり十八、九KM進むと一月は、丁度
満足する数値になる。
但し、飛脚や早馬のような、或いは軍令を目的とした軍馬を用いることは、考えていない。
序でに、次の一行も説明しておこう。
[自郡至女王国万二千余里]、訳文は[帯方郡より女王国に至るには、一千二百KM位
有る。]此のような意味で有る。
倭人伝の始めに出てくる狗邪韓国のところに、次のようなことが書かれている。
[郡至倭循海岸水行歴韓国乍南乍東至其北岸狗邪韓国七千余里]、これを直訳すると[
帯方郡より倭国に至るには海岸に従って水行し、さっと南え、さっと東え韓国の一定の間
隔をおいた地点に泊まり乍ら、次々通り過ぎて行く。 帯方郡より倭国北岸、狗邪韓国に
七百KM余で至る。] 要するに、帯方郡南、東経由狗邪韓国行き、ここまでが七千余里、
ここで東南の直線の科学、高千穂峰行きに乗り換えると、後五千余里で高千穂峰に到着
しますよと云うこで有る。
七千余里とは七百余KM、五千余里とは五百余KM、壱万二千余里とは一千二百余KM
のことである。
<二六三ページ>
扠、狗邪韓国から東南の直線の科学号に乗り換えて未盧国佐世保に行く距離は、三
百余KMで有る。
佐世保から高千穂噂までは二百余KMで有る。
七百余KM、三百余KM、二百余KM、この三数字の合計が一千二百余KM、即ち一万
二千余里である。
実際に地図の上で、ソウル、鎮海、対馬厳原、壱岐の海上西方二、三KM、国見岳普賢
岳、高千穂峰以上を直線で結び、其の長さを測定し、更に此の直線に纏わり付く道路を確
認して、前述の東南の直線の科学の距離と平均すれば一千二百余KMの数字を見るこ
とができる。
佐賀県東松浦半島に上陸した東南の直線は、現在の伊万里市上空を駆け抜けて、や
がて有明海の入り江に差しかかり、普賢岳の連山、国見岳に降り立つ。
国見岳の山裾には、伊都国、奴国、不弥国の国々が、東南の直線の科学に従って群
立する。
国見岳を飛びたった直線の科学は、島原湾を横断して宇戸半島も後にして、更に八代
海を斜めに横切り、熊本県国見山地に差しかかりやがて熊本県境を越えて、鹿児島県境
と並行に宮崎県の高千穂峰一千五百七十四Mのご神体に至る。
ご神体とは邪馬壱国、高千穂峰そのものをさして云う。
奈良県桜井市の三輪山と同じで有る。
一 I
倭国全土を従え、自ら邪馬壱国の女王として君臨し中国の臣下として仕えて、倭国反乱
の首謀者、狗奴国の王卑弥弓呼を誅伐するを欲し、途中にして挫折した倭王卑弥呼、享
年七十六歳、自らの皺腹を王として作法に則り、威厳を以て果てたのである。
死の直前、倭国王卑弥呼が成し遂げたことが有る。
一つは倭国大乱の休戦協定の立会者、魏国塞曹掾史張政の申し出による、狗奴国長
官狗古智卑狗の戦争犯罪人有罪判決確定後の処置の件である。
<二六四ページ>
和解調印として、自決後の処置に関する提案は、お互いの名誉ある和睦を示すために、
高千穂峰の東南の直線の延長が即刻串間今町迄着手され、其の地に狗古智卑狗は、
後漢の皇帝から子爵に除せられた証しの穀璧と共に、石棺の中に消えた。
更に卑弥呼も又同様、天空の直線の科学の最後の天子に対する御奉公を命ぜられ、
東南より北方にとって返し、串間の国を出て日南の男鈴山七八三を跨ぎ、宮崎県児湯郡
の尾鈴山に直線を延ばし、己の基本となる高山に国見山一三九二を見極めて、此の南
北の直線の円直下、将来西域都護となる西都原古墳の中に身柄を安住させた。
時を置いて隣には、弟王がともに眠る。
[名曰卑弥呼事大道能導衆]享年七十六歳合掌 中国の山海経という地理書の作者は、
禹の治水を助けた伯益と言われるが、禹は黄河の水害を治めた功績によっ
て、舜に次、天子になった人で、其の子孫が夏王朝四百年を建国したと言う。
禹は今から四千五百年前の人である。
山海経は周代の頃の作とも言われ、仮に周の戦国時代に書かれたものであっても、約
二千五百年前の書である。
文の中に次のことが書かれている。
[蓋国は鉅燕の南、倭の北に在り、倭は燕に属す。]と書いてあり、これは見逃すことが
出来ない重大な事柄である。
南朝鮮半島の極至を越えて、更に大同江の王険城を大きく左折、丹東、鞍山、錦州を
経由、山海関を通過天津、北京に至る。
ここ北京が燕の国の都、薊である。 .
燕は周代戦国七雄の一つで在る。
<二六五ページ>
燕の国の始まりは、周の武王の弟、召公セキが現在の河北、東北南部、即ち南満州、
朝鮮北部を統括していた。
前二百二十二年、四十三世の時、秦の始皇帝によって滅ばされた。
秦の始皇帝の前から倭国は、燕国に属していたと言う。
現代では[属す]とは、属国、隷属の意味になる。
今から二、三千年前、燕国の奴隷の倭国で会った場合、東南の倭国の本国の存在が、
植民地ではないということを認めながら、薊にいる倭人を奴隷として吸うだろうか。
ここで古代に立ち返って[属]の意味を考えよう。
大半の人は属するというと奴隷のように考えがちだが、全く其の考え方だけけでは当た
っていない。
本来古代中国人の漢字に対する考え方は、線をもって絵を描き、それが表現力となって
我々の目の前に出現していると言っても過言ではない。
我々日本人の祖先の文字に対する表現は、漢字と片仮名や平かなの中に過去、現在、
未来、進行形を織り成し、深く意味を込め、華麗で流露な文体を醸し出した。
だから次第に今では本来の漢字は、当用漢字の中に略されて困難な漢字こそ芸術的な
感性を有しているにもかかわらず、現在そのような漢字は見いだせなくなっている。
古代中国で使用した[属]や[族]は同意語で、生物学上の分類の単位に使用されている。
生物学上の分類の単位を順に列記してみる。
@、界は、生物分類上の最高の階級。
A、門は、分類上の第二位に在り、動物門、植物門。
B、綱は、糸と岡、太くて強いつなを併せて物事の要、物の分類をするうえで大きな区
分に使用する。
<二六六ページ>
脊椎動物門を哺乳綱、鳥綱、爬虫綱、両生綱、魚綱等。
C、目は、例えば、霊長目ひと科、大事な所、要、物事の境となる字。
D、科は、[禾]、穀物と[斗]量るを併せて、穀物を升で計り分けることを表し、等級、区
分の意味に使う。
例えば霊長目ひと科等。
E属は、[尾]と [萄]くっつく、とを併せて、交尾してくっつくことを表す。
そこからくっついてはなれない、或いは仲間の意味に使い、同じような者の集まり、尊属
、卑属、金属。
生物の分類の単位は科と種の間に位置する。
ばら科さくら属等に分類する。
同義語、同単位に族の字がある。
E/1、族は、矢と軍隊の旗とを合わせて、旗のところに矢を集めて置く意味を表す。
族は、同じ祖先から別れた著そこから身内、群がる等先祖を同じくする仲間、一族、−
家族、部族の意味に使う。
F、種は、[禾]と[重]遅れる、とを合わせて、おくての稲のこと、種に使う、種、植物の
種、物事の基。
生物学の分類で、最小の段階、属の下。
G、亜種は、種の下位で、必要がある時に用いる、例えばキジ種をキジ、キュウシュウ
キジ、キタキジ等の亜種に分ける。
G/1、変種は、生物の分類上で種の下に置かれる階級で、普通同一種の中で若干の
形質が異なり、地理的に異なる分布圏を占有する物を指す。
動物の分数では、品種、又は亜種とされることが多い。
H、品種は、同一種の農作物、又は家畜で遺伝的に特定の形式を同じくする一群を言う。
又、生物の同一種中に見られる種々の群型を言う。
<二六七ページ>
変種とほば同義であるが、主に産業関係の分野で使われる語である。
更に地理的品種、育成品種等に分ける。
その他品種改良や育種改良があり、細胞改良等クーロンが在るが、品種以降は一般的
に人と関係ずけることは困難なので、取り敢えず無視することにする。
古代中国の漢字の中に見出す、現代生物分類額の単位の文字は、古代と現代の間を
埋める何物にも外ならない。
門、綱、目、科、属、族、種、等、それぞれ分類の基本項目の中心を成す区分文字である。
門は入り口や外囲いに関係する字を作るが、両側に開く扉のある門を表した字で、分類
上の大別、部門、専門、仏門等が用語の主流をなす。
綱は、前述したとおりである。
目は、[見]の基本の文字で目の形を表している。
生物学分類上の一単位で綱の下、科の上、例えば霊長目等と言う。
科は、前述のとおりである。
属は、尾と蜀[しょくくっつく]とを合わせて交尾してくっつくことを表し、そこからくっついて
離れない、仲間の意味に使う。
もう一度山海経の地理史に書かれた中国と倭国の関係を、再現してみよう。
[蓋国は鉅燕の南、倭の北に在り、倭は燕に属する。]
倭国が燕に属する限り、倭人は遼東を越えて燕に詣でたということを意味する。
倭国は二千数百年もの昔、既に朝鮮半島を闊歩して自由に行来できたのか。
又、当時の [属]の意味が後年の意味と果たして同じなのか、気をもたせる一文である。
此の項、終わり
<二六八ページ>
年 表
A.C紀元後
一四七−一六七、桓帝、在位。
一六八−一八九、霊帝、在位。
一四七−一八九、倭国大乱、[後漢王朝、桓、霊の間、約四〇年間。]
一八一、諸葛亮孔明生誕。
一八四、光和末年、中平元年、霊帝の時、黄巾の賊起こる。倭国女王卑弥呼十三歳即
位、司馬懿仲達、六歳。
一八七、曹丕生誕、[後の文帝]
<二六九ページ>
一八九、袁紹、宦宮を殺す。霊帝薨去。
一九〇、初平元年、献帝起つ、九歳。遼東太守公孫度着任。
一九一、初平二年、董卓洛陽放棄、長安遷都。
一九二、初平三年辛羊[かのとひつじ]十一月七日孫堅戦死。壬申[みずのえさる]四月
二十二日董卓死去。
一九六、公孫度楽浪郡併有。
二〇三、公孫康帯方郡設置。
二〇四、建安九年、公孫度死去。公孫康第二代遼東、楽浪太守着任。
二〇八、赤壁の戦い。
二一六、曹操、魏王となる。
二一九、公孫康死去。公孫恭第三代遼東、楽浪太守着任。
二二〇、魏の黄初元年、後漢滅ぶ。曹操死去。曹操の子、曹丕魏帝となり文帝と称す。
二二一、魏の黄初二年、▲劉備、蜀漢帝と称す。公孫恭に車騎将軍平郭侯。
二二二、呉王、孫権の元年。三国の鼎立。
二二三、劉備玄徳死去。
二二六、魏の黄初七年、大月氏衰える。曹丕文帝没。明帝即位。
二二八、魏の太和二年、公孫康の次子公孫淵、公孫恭に変わり第四代当主に成る。
呉王孫権、呉帝と称す。
二二九、魏の太和三年十二月、大月氏王波調、親魏大月氏王波調となる。
二三〇、公孫淵車騎将軍に魏王朝より叙任。呉帝、呉の黄龍三年甲士一万人東方海
上に派兵。
二三三、三国志著者陳寿生誕。呉帝、公孫淵と盟約し背後から魏を制圧図る。魏、公
孫淵を大司馬楽浪公とす。
二三四、呉王朝、高句麗王と盟約、単干に叙任。八月諸葛亮孔明死去、五六歳。
<二七〇ページ>
二三五、魏の青竜三年、司馬懿最高位大尉着任、五七歳。司馬炎誕生、[西晋の武帝]
二三六、壱与誕生、[卑弥呼の第三代倭国女王]高句麗、魏王朝に内属。
二三七、景初元年七月、公孫淵、魏朝より離脱、自立して燕王と称す。七月、母丘険、公
孫淵を攻撃、敗退す。
二三八、景初二年一月、魏の明帝、大尉司馬懿に遼東出兵を命ず。六月、卑弥呼、明帝
に朝献。同六月、司馬懿、公孫淵、戦闘開始、同八月公孫淵敗退、嚢平城陥落、公孫淵一
族惨殺さる。遼東、楽浪魏の一部となる。十二月、親魏倭王卑弥呼を拝命。
二三九、一月明帝急死。六月呉が魏を攻撃。
二四〇、正始元年帯方郡太守弓遵[きゅうじゅん]は建中校尉悌儁[ていしゅん]等を倭
国女王に遣わし賜る。
倭国女王、使いに上表、詔恩を答謝する。魏の帝芳即位す。
二四三、正始四年、親魏倭王卑弥呼、伊声耆[いせいき]、掖邪狗[えきやく]等八人天
子に遣わし、卒善中郎将の印綬を拝する。
二四五、正始六年、倭の難升米[なんしょうまい]に黄幢[こうどう、魏の黄色い国旗]を
仮授す。
二四七、帯方郡太守王き[おうき]新任、狗奴国との戦況を報告、塞曹掾史張政[さいそ
うえんし]を倭に遣わす。卑弥呼死す。
二四八、倭国男王即位。男王内乱の責任をとり自決。壱与十三歳倭国女王として即位。
狗奴国長官戦争責任者として自決。
二五〇、司馬懿死去、六九歳。
二五二、嘉平四年、王凌[おうりょう]謀反。魏、呉を討つ、呉将軍諸葛格の為大敗。
二五四、正元元年、皇后張氏の謀反。皇太后、少帝を廃し高貴郷公曹髦[そうもう]帝
位に即く。
<二七一ページ>
二五五、正元二年、鎮東将軍母丘倹、文欽と共謀し謀反す。母丘は謀殺、文は逃亡。
司馬師病死。
二五六、甘露元年二月、呉の孫峻十万の兵で入冠。八月、蜀の大将軍姜雄入冠、一
時敗退、司馬孚援軍し勝利 二五七、甘露二年二月、司馬昭、師の弟、諸葛拠を斬り乱
を平定、大将軍で兵馬の実権を握る。
二六〇、景元元年司馬昭の権力増大、魏帝曹髦謀するが、皇太后と司馬昭に殺される。
四月昭、相国となり晋公に封じ九錫を加える。六月鎮留王曹換帝位に即く。
二六一、景元二年七月、楽浪、外夷、韓、歳、狛[はく]等即位に祝賀す。
二六二、景元三年四月、粛慎[しゆくしん]は遼東を介し、朝貢。
二六三、景元四年十一月、征西将軍登文、鎮西将軍鐘会と蜀漢を滅ばす。
二六四、成 元年一月、蜀漢に進駐する鐘会謀反、鎮定。三月、蜀漢最後の皇帝劉禅、
魏の安楽公に封ず。
二六五、成 二年八月、相国晋王司馬昭死去、晋王は炎が踏襲、十二月相国司馬炎、
魏帝曹換の禅譲をうけ晋を建国、西晋の武帝と称し泰始元年と改元。
二六六、泰始二年、倭国駐在二〇年に及ぶ張政等一行西晋に帰国。女王壱与武帝に
使いを遣わす。壱与三二歳。
二七六、戊寧二年二月、東夷八国帰化。
二七七、戊寧三年十二月、東夷三国前後十余輩各帥種人部落内附。
二七八、戌寧四年、東夷九国内附。
二八〇、大康元年、西晋、呉を滅ばす。晋の一統なる。炎、四五歳。壱与四六歳。この
年奈良遷都か。
二八一、大康二年三月、東夷五国朝献。六月東夷五国内附。[東夷とは倭国を指してい
ると思われる。]
二八二、大康三年九月、東夷二九国帰化。
二八六、大康七年八月、東夷十一国内附。馬韓十一国使いを遣わし朝献す。
二八七、大康八年八月、東夷二国内附。
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二八八、大康九年九月、東夷七国内附。
二八九、大康十年五月、東夷十一国内附。東夷絶遠三十余国朝献捕虜。
二九〇、 大巳 元年、永 元年、東夷七国内附。晋の武帝薨去。
二九一、永 二年、東夷十七国内附。
二九二、三国志著者、陳寿死去。
二九七、永興元年、八王の乱。
三一三、韓わい族朝鮮支配。楽浪郡、帯方郡名のみ残し地方となる。
三一六、西晋滅ぶ。
三一七、東晋立国。
此の項、終わり。 |