都城の邪馬壹國
著者 国見海斗 [東口 雅博]
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更に魏志倭人伝に、(正始四年二四三年倭王卑弥呼、又大夫イセイキ、エキヤク等八人
使いを遣わし、倭錦[ワキン]絳青兼[コウセイケン]、帛布[はくふ]、丹[たん]、木付短弓
矢[モクフタンキュウヤ]を献上した)とある。
木付短弓矢の木付短弓矢とは、弓の握り部分が木製で、動物の皮を使ってその部分を
補強し、矢をつがえる武器のことである。
矢は先ほど説明したとうりであるが、一端の羽は鷲鷹のなかで差し羽がいいとされるが、
今は手に入らないと云う。
倭国が魏の臣下のころ、西暦二〇〇年頃、中国は偉国の短弓矢が素晴らしいと思っていた。
偉国も中国皇帝に献上する武器だから、相当腕に自信が有ったに違いない。
素晴らしい商品が生まれる根拠は、単なる製造実験だけでなく、使いこなす技術指導力
を伴う必要が有る。
中国はどこで実戦を確認したのか、甚だ興味有る課題である。
偉国内に弓矢を主力とした軍隊が存在していたと言うことは、容易に考えられる。
長弓の場合、戦車から射るには裾が邪魔になり、短弓が使いやすい。
騎馬の場合、馬上と言う条件の悪さからバランスの取れた長弓が使いやすい。
陸戦のように連射する場合、本弭を地上に据えた場合、これらは 長弓が、実戦に役立つ。
腰を屈めて射る場合、短弓が役立つ。
このようなことを考え、偉国武力集団の程度を位置づけると、長弓でも短弓でもあやつれ
る騎兵隊も含めて、強力な実戦隊が存在していた。
差し羽にはまだ古代に繋がる話がある。
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差し羽は差羽と書いたり翳とかく場合もある。
鷲鷹目の鳥で、鷲では無く、鷹の一種で鳶にも似ている。
鷲は鴟、鵄とも書き、差し羽と同じ鷲鷹目の鳥である。
体は鳶色で翼の下に白い斑点が有る。
鳴き方に特徴があり「ピーヒョロロ」と鳴く。
日本を始め中、東アジアに広く分布し渡り鳥ではない。
市街地や海浜に多く、小動物の死骸を好んで食べる。
金鵄勲章とは、神武天皇東征の時、長髄彦[ながすねひこ]を征伐したが、その時弓の先
に止まった金色の鳶を金鵄と云うが、それに囚んで武功の有った軍人に、手柄の程度に従
って、功一級から功七級の何れかを授与した。
明治二十三年に制定し、終身年金を賜ったが、昭和十六年一時金に改まった。
現在は廃止されている。
差し羽は天皇が即位、朝賀等の大儀に、高御座に出御して群臣の拝賀を受けるが、
その時の差し羽は翳と書、壇の下の女嬬が、翳の羽で軍配団扇の形に作り、その下に
一丈から一丈二尺の長柄を付けたものを、左右から差しかざし体を覆った。
差し羽の姿は、背面は褐色、尾羽に三、四条の横縞が有り、胸、腹部は白色で有る。
山地、森林の蛇、昆虫、小鳥等を主食とする。
夏鳥として四月初めから五月上旬、数羽から数十羽の単位で続々南方面から日本に渡
って来る。
九月下旬から十月末にかけて、多いときには数千羽の大きな群れで、南方方面に戻っ
て行く。
差し羽の数は、推定三万五千から四万羽で有る。
都城、金御丈、鳥見山で一九八六年、およそ三万羽をカウントした。
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鳥見山と金御岳の山間は、日本国内で数の出る場所として、三本の指に入る。
宮崎、鹿児島ルートは大正時代、既に確認されている。
一度飛び立ち一気に渡る距離は、最長沖縄本島から宮古迄三百KM、五時間を越える
渡海である。
繁殖地は日本海を囲む地域であるが、青森や北海道では繁殖しない。
越冬地は、東南アジアやフィリピン、ニューギニア等、沖縄で越冬するものもいる。
鳴き声はかん高い声で、ピイックイーと鳴く。
差し羽と鳶、渡り鳥と地鳥、同じ鷲鷹目、背面は褐色と鳶色、胸部と腹部は白色と鳶色、
食事は森林の蛇、昆虫、小鳥等、そして一方は小動物の死骸や魚である。
上昇気流に乗って上空1万mをスタートして、一気に駆け飛ぶ渡り鳥、片や市街地や、
餌を求めて、海浜に住み着く地元鳥、比較すればするほど、差し羽に軍配が上がる。
神武天皇は日向宮崎の出身で、金色の鵄と戦場で出会った。
鳥見山は畏くも神武天皇大八州を平定し、給い、橿原に都を定められ、その功を天祖天
孫の霊に帰し給い、天地神祇の霊地にして、且つ御自らの懐かしい発祥地に鳥見山の霊
畤を設けられた。
鳥見山差し羽の白鳥か、海浜の鳶か、飛鳥文化は何れかを選ぶ。
国見山曽爾村八八三の一号三〇を見て頂きたい。
二九、峰ケ塚古墳−日本武尊−景行天皇陵−榛原鳥見山−国見山一号、である。
大阪府羽曳野市に峰ケ塚古墳がある。
この古墳と国道百七十号線を挟んで東側に、日本武尊の御陵がある。
御陵の町の名は羽曳野市白鳥町と云う。
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御陵の北側には誉田八幡神社、誉田白鳥埴輪制作跡が寄り添っている。
御陵を東に天空の直線を進めると、大阪、奈良を二部する県境生駒山中に突入する。
生駒山を抜けると奈良県に入り、香芝、上牧、広陵、田原本を過ぎると天理教の町、
天理市に至る。
天理の山の辺の道、渋谷町に景行天皇陵がある。
天理の直線はこの御陵の上に留まる。
景行天皇は第十二代の天皇、名は大足彦忍代別[おおたらしひこおしろわけ]と云う。
容貌は魁偉で御丈は一丈[一丈とは一尺の十倍、役三m]余である。
東国を巡視し、実施日本武尊を遣わして、東国の蝦夷を平定し、熊襲征伐等代業を成した。
在位六十年、聖寿百三七歳、[日本書紀では百六歳]日本武尊は景行天皇の皇子で、
古事記では景行天皇の第三子、日本書紀では第二子である。
第一子の大確皇子[おおうすのみこ]と双生児で、本名小確皇子[こうすのみこ]、別名日
本童男[やまとのおぐな]或いは日本武尊と称した。
天皇の命を奉じて影行二十七年熊襲を征伐、川上梟帥を誅伐した。
川上梟帥は死に臨みその武勇を称賛して、日本武尊の号を献じた。
西暦九七年の事であった。
東国の蝦夷を征伐に出征するとき伊勢神宮に立ち寄り、伯母の偉姫命から天の草薙
の剣を拝受する。
東国に行く途中駿河で賊に会い、騙されて大鹿のいる茂った林のような野の中に入っ
ていく。
賊は野に火を放ち焼くと、日本武尊は騙されたと気がついて、直ぐに火打ち石で野を焼
いて、焼け野の災いを免れた。
別の話は、叢雲の剱が自ら抜けて、尊の傍らの草を薙ぎ払い、焼け野の災いを免れる
事が出来たので、叢雲の劔を草薙の劔と銘々したとある。
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尚、東進して海を渡り、奥州の地を平定して尾張に帰る。
更に伊吹山に赴き、賊を討つが、その持病に倒れ薨ぜられる。享年三十歳であった。
伊勢の国の野襃野に葬ったが、日本武尊は白鳥と化し陵から出て倭の琴弾の原にいた
のでその地に陵を造った。
しかし、又飛んで河内の旧市の邑に止まったのでその地に陵を造った。
この御陵こそ、今景行天皇陵に留っている天空の直線の出発点である。
景行天皇陵に止まっていた天空の直線は、狂いも無く東の空似動きはじめた。
やがて榛原の鳥見山七三五mが眼下に迫る。
誠にふしぎなことである。
鳥見山山頂を確認した天空の直線は、室生湖の上空を一跨ぎして宇陀郡室生村に差し
かかり、赤目四十八滝の景勝地を見て、最後の目的地国見山曽爾村八八三、一号に着地する。
景行天皇と日本武尊の墳墓が国見山を介して榛原の鳥見山、桜井の鳥見山、都城の
鳥見山に係っている。
誰が一体いつ頃思いついたのか、此れは偶然では無い。
古事記の作者、臣安万侶は天武天皇の帝紀と本辞を消したとき、古事記の正しさを知ら
しめる為にこのようなことを魏志倭人伝を真似て、作為的に考え出したのか。
例えば、魏志倭人伝の中に次の一文が有る。
[其道里当在会稽東治之東]
邪馬壹國女王卑弥呼の都は、会稽東治の東に当たる。
国見山が秘めた鳥見山三山差し羽と白鳥、景行天皇と日本武尊、推古天皇と飛鳥文化、
そして神武天皇と高千穂峰、此れらは国見山を中心に一本の線で繋がっている。
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現実を伴う物、伴わないもの、物語の中で一体化している。
白鳥最後の安住地は河内の旧市、羽曳野古市である。
羽曳野は何時命名されたか知らないが、白鳥にとってこれ以上の安住地はない。
羽は鳥の羽で、鳥の左右の羽の形を表した文字である。
曳は引っ張る、引きずるの意味である。
野は里と予からなり、里は田と土、縦横に路の有る村里で土は道路のことで有る。
予は大きな像の様にゆったりしているという意味で、広々と伸び広がっている村里、田
畑林を表す。
羽曳野はゆったりした土地に羽を休める場所で有る。
太安万侶は古事記の信憑性をを高めるために、古事記に基づく人と町を開発したのか
もしれない。
榛原の鳥見山、桜井の鳥見山、御所の国見山、都城の鳥見山、此れを結ぶ直線の途
中、足摺岬の上空を通過するが、足摺岬で思いでの深い話がある。
五年程前、昭和薬科大学考古学教授、古代史の大御所、古田武彦先生が、私が所有し
ている勲記のことで電話を頂いた。
公大王碑に関係した酒匂景信が、明治天皇から表彰された真筆の勲記や、景信が活躍
の度夜叙勲した、勲記、明治十一年十二月三十日陸軍士官学校砲兵科卒業当時、陸軍士
官学校々長陸軍中将正五位勲二等大山巌から拝受した卒業証書等数点が、共同通信社
を通じて全国紙に掲載されたことがある。
譲渡のことで電話を頂いたが私はとうとう誰にも譲らず今も所有している。
先生と数回電話で話し合って其の最中、遺跡と国見山の愚見を呈して困らせたことがある。
先生は反対するでなく、聞いてくださって、足摺岬の調査を一緒にやろうとお誘い頂いた。
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「君は東京に来れないか」とか「大阪で会おう」とか「福岡ではどうかね」と云われたが、と
うとう電話の声で終わってしまった。
唯先日、四国の足摺岬と国見山の関係を調べているとき、ふと先生の言葉を思い出した。
私は国見山の直線下には、必ず古代史に影響を与える重要な要素が潜んでいることを強
調したのである。
あれからもう五年、私にとっては貴重な思い出である。
都城の旧弥中郷村の鳥見山と高千穂の峰を結んだ東南の直線の鳥見山の山裾に正応寺
という部落が有る。
今は安久町だが、東南の鳥見山に向かって正応寺の部落の中をどんどん進んでいくと鳥
見山五五〇、の頂上の手前三kmに医王山知足院正応寺の由来と書かれた案内板と市指
定史跡、正応寺の石塔群と書いて、ペンキで白く塗られた角柱が、疑木の手摺りの欄干横
に自立している。
案内板の正応寺の由来の説明の中程に、次のようなことが書かれている。
時代の推移と共に当時は荒廃を重ねたが、近世に入り慶長一三年[一六〇八]時の都城
領主北郷忠能が寺禄を給し、一族の宥政上人[真言宗]をして再興せしめた。
幕末に至り、薩摩藩の徹底した廃仏毀釈で当時も廃され、以来広大な寺跡は荒廃し、古来の
石塔墓類は山中に散乱埋没していたが、幸いにして地区民に依って宥政上人以下の近世の
住僧墓等が保存され、々々と書かれている。
以上の文字から判断すると
@、慶長一三年[一六〇八]と言えば関が原の戦いが終わって、後陽成天皇のとき慶
長八年家康が征夷大将軍に任じられ、同十年秀忠が将軍に着任、同十四年、本家島津
家久は琉球征伐をし、以後島津の領とした時代である。
A、幕末の廃仏毀釈は慶長四年三月一三日[一八六七]太政官布告で神仏分離が通
告され、つずいて一七日別当と権現の号が廃止された。[因に九月八日、明治と改元された]
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B、正応寺の石塔群は一六〇八から一八六七の二五九年間、宥政上人を始まりとする近
世の僧侶の墓石標の集りと言うことになる。
それでは医王山知足院正応寺の県立は、いつ頃誰が開山したのか。
案内板には次のようなことが書かれている。
正応寺は島津荘園の支配者、摂政関白近衛氏縁の寺として平安時代の仁安元年[一一六六]
、三井寺[滋賀県]の座主の命を受けた禅慶上人と中郷弁済永史永井氏により建立されたと言う。
当時の本尊薬師如来像は、天台宗開祖の傳教大師最澄の作と言われ、本堂のほか僧坊十二
坊、鎮守神の日吉山王社が有った。
本堂跡と薬師寺跡が今日も残っている。
開山の禅慶は都城の豪族、伴兼高の子と言われる。
さて、現在の正応寺部落の入り口にある興玉神社は神社案内によると、明治六年久玉大明神
外近在の数社を外山権現の社地に合祠したもので主祭神は猿田彦神である。
内神殿は本殿祭壇上に安置された一間厨子で、ほぼ純粋な神宗様式で有る。
口傳によると、内神殿はこの場所より東方一kmにあった正応寺の本尊薬師如来像の厨子と
され、明治初年に村民の厚意により、ここに移されたという。
其のとき取り外した棟木には建立年月日の他大工藤原国家謹作等の墨書銘がある。
応永六年一三九九年に建立されたもので、宮崎県に現存する最古の建造物と判明した。
数少ない九州の中世禅宗様式の中でも、建立時代の確実な建物として、貴重と書かれている。
此れほどの名刹を何故鳥見山の山裾に設うけたのか。
江戸幕府の職務内容に鳥見山と言う職名が有った。
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若年寄の配下鳥見組頭に属し、将軍び遊猟地鷹場を巡視して鳥の所在を調査する
役である。
都城中郷の鳥見山は、南方面から飛来して正応寺の山間に羽を休める差し羽の休
息地である。
羽を広げると一M五十cmにもなる大鳥で、背面は茶褐色、腹部、胸部は純白の白鳥
で有る。
差し羽は、四月にかけて南方から飛来し、南九州の上昇気流の激しい地域で羽を休め、
日本アルプスで産卵し、成長した小鳥を引き連れて南方に飛び去って行く。
以上第一部 第二部へ
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