邪馬壱国 奈良県五山の国見山岳<3>
    都城の邪馬壹國
                          著者  国見海斗 [東口 雅博] 


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四、雄略天皇陵−針塚古墳−高貴寺−九品寺−大黒寺−墓山不動−不動寺−国見

岳四号

五、仲哀天皇陵−聖徳太子御廟所−二子塚古墳−国見岳四号

六、四天王寺−応神天皇陵−科長神社−岩橋山六五九−岡峰古墳−国見岳四号

七、成山古墳−古室山古墳群−国見岳四号

八、高津宮−杭全神社−仲津姫皇后陵−観音塚古墳−国見岳四号

九、円珠庵−允恭天皇陵−鹿谷寺廃跡−屋敷山古墳−国見岳四号

十、大阪城本丸−田辺廃寺跡−御所の日本武尊、白鳥陵−国見岳四号

十一、観音寺−当麻寺−御所の国見山五号−国見岳四号

一二、恩地神社−宮塚古墳−国見岳四号

十三、水呑地蔵尊−束明神−国見岳四号

一四、牧野古墳−壷坂寺−国見岳四号

十五、奥の院−久度神社−佐味田宝塚古墳−マルコ山古墳−羅岩石−国見岳四号

十六、牽牛子塚古墳−比曽寺跡−蔵王堂−竹林院−国見岳四号

一七、鳥土塚古墳−果山古墳−亀虎古墳−国見岳四号

一八、乙女山古墳−畝傍山−橿原神宮−久米寺−若水神社−国見岳四号

十九、高松塚古墳−高取城跡−国見岳四号

二〇、丸山古墳−中尾山古墳−高取山五八四−如意輪寺−水分神社−金峰神社−

国見岳四号

二一、宝幢寺−本薬師寺跡−定林寺跡−国見岳四号

二二、多神社−藤原宮跡−傳飛鳥板蓋宮−石舞台古墳−国見岳四号

二三、矢田寺−飛鳥坐神社−酒船石−岡寺−国見岳四号

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二四、慈光院−額田部窯跡−本光明寺−国見岳四号

二五、郡山城跡−安部寺跡−国見岳四号

二六、文殊院西古墳−宮滝遺跡−国見岳四号

二七、八幡神社−喜光寺−薬師寺−聖林寺−談山神社−国見岳四号

二八、石ノカラト古墳−箸墓古墳−等弥神社−国見岳四号

二九、塩塚古墳−平城宮跡−大和神社−大神神社−西の覗岩−大峰山上権現−山上ケ岳−

国見岳四号

三〇、法隆寺−景行天皇陵−玄賓庵−宗像神社−鐘掛岩−国見岳四号

三一、興福院−善福院−三輪山−石位寺−国見岳四号

以上、国見岳大峰一六五五、四号に属する八百万の神々の、天空の直線の科学である。

神々の中に登場する神社仏閣意外に、不動尊がある。

不動尊とは不動明王の事である。

不動明王はインド教のシバ神を密教に取り入れ、五大明王、八大明王等、諸尊の本尊である。

次に古代仏教の伝来について概略書いておこう。

中インドのカビラ城主の子に、シャカムニが居た。

二九歳のとき出家、六年の修行の後、ブッダガヤにて大悟を開き、即ち仏教を創始して説法

を四五年間、八十歳で亡くなるまで教えを説いた。

 釈迦入滅の年、弟子たちが集まり、釈迦の遺教を議定した。

これを仏典結集と言うが、入滅の年から百年を経て、第二の結集[けつじょう]が開かれた。

 釈迦の死後二百五十余年、中国泰の一統が始まる数十年前、中インドのマガタ国アシ

ョカ王は、篤く仏教に帰依して国都華氏城で第3の結集を開催した。

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 仏教師を諸外国に派遣して、広く外国に流布した。

 アショカ王の死後、約三百数十年、後漢中世の頃、中央亜細亜の大月氏国カニシカ王は

、西北インドを征服して国勢が振るった。

 この頃、仏教が大月氏国に伝来し、王も深く仏教を信仰して、第四の結集を決行した。

 大月氏国は、仏教の興隆を高め、この時代の仏教の中心地となった。

 中国も西域の交通が開け、後漢明帝の時、紀元後六十七年使いを遣わして、仏典、仏

像を求めさせた。

 仏教はこのとき、中国に伝わった。

 しかし、西域の僧侶が頻繁に中国と行来し、仏教の翻訳が始めて起こる時代の到来は

、後漢の末である。

 仏教は中国伝来の後、およそ三百年を経て古朝鮮に伝わり、更に百八十年後、朝鮮よ

り日本に入来したという。

 日本史の中に、五百五十二年、百済の聖明王、仏像経論を我が国に献上すると、ある。

 しかし、これは推論であるが、日本の原始仏教の伝来は既に二百五十年頃始まったと

思われる。

 国見岳四号の二九に大峰山上権現という言葉がある。

 権現とは、広辞苑によると、仏、菩薩が衆生を救うため種々の身や物を権[かり]に表す

とある。

 又、権現と権化は同義で、神仏が民衆済度のため、権に姿を変えてこの世に現れること

、又その化身とある。

本地垂迹説によると、仏が化身して我が国の神として現れること、又その神の身を言うとある。

 熊野三所権現、山王権現の類いを言う。

 大阪府富田林に鎮座する滝谷不動尊は、日本不動尊は、日本三大不動尊の一つである。

 滝谷不動尊が、国見山岳に係わる天空の直線科学に参加していることは当然であるが、

国見山五山のうち四山にも顔を揃えている。

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 五号三五の、宝積院−滝谷不動尊−九品寺−国見山五号−高取城−高取山五八四−

国見山三号

 一号十九の、滝谷不動尊−宗像神社−国見山一号

 二号十三の滝谷不動尊−屋敷山古墳−畝傍山−天香久山−国見山三号

 三号五の滝谷不動尊−九品寺−日本武尊白鳥陵−国見山五号−高取城−高取山−

国見山三号

 以上四本の天空の直線科学である。

 この形態は先に示した国見山岳五山も全く同じ作用を示しているから、当然直線の部

分部分の交点には、現代コンピューター時代集積回路以前のキルヒホフの法則幅射論

による網状回路の交点か、クロスバー方式による電話交換方式のような交点が、無数に

生じる。

 これは奈良盆地全体を越え、隣接に及ぶ土地を造成したのと同じ効果がある。

 やがて、後世のある日、祖先が領有したか民衆が公共に利用していたか、その一画の

名を変えて例えば滝谷不動尊のような名のある名刹が、歴史の波を踏み越えて、現存し

て来たと思われる。

 滝谷不動尊と御所の国見山五号から国見山三号の間を、実況的に解説してみよう。

 滝谷不動尊の本尊を発した天空の直線は、葛城山の頂上九六〇付近を通過して、日本

武尊白鳥陵大小二つの中心部を突き抜け、国見山五号山頂に達する。

 ここを発した天空の直線は、高取城城址本丸跡を越え、高取山五八四頂上を確認しなが

ら奈良、三重の県境東吉野国見山三号一四一九の頂点に到る、と言うようなことになる。

 更に、ここで高取山の高取城と、国見岳四号一六六五の関係を調べてみよう。

 高取城の西北、大東市に野崎参りで有名な、野崎観音、慈眼寺がある。

 慈眼寺を出発して直線の科学が東南に発すると、千光寺、乙女山古墳を経由し有名な大

和三山の一つ、畝傍山一九九の頂点に至る。

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やがて神武天皇と媛踏鞴五十鈴媛皇后[ひめたたらいすずひめこうごう]を祭神とする橿

原宮の旧址、橿原神宮を経過して、欽明天皇陵、高松塚古墳と次々通過、その中央部を

確認し東南に推し進む。

 やがて天空の直線は、高取城に到着する。

 高取城に止まった天空の直線は、休む間もなく次の目的地、奈良県吉野郡天川村国見

岳四号一六六五に向かう。

 下千本を過ぎて間もなく、吉永神社上空に差しかかり、後醍醐天皇の眠る如意輪寺に

至る。

 後醍醐天皇は第九六代天皇で、一千三百十八年、踐祚、即ち位に即位した。

 親政を志し天皇自ら政治を司ることを願って、北条氏を滅ぼし建武中興を達成した。

 建武中興とは、一千三百三十四年、後醍醐天皇の時、北条氏鎌倉幕府を討幕し、京都

に都した。

 年号を建武と改め、平安の中期御三条天皇が荘園の 立を防ぐために設けた役所、即

ち記録所を再興し更に雑訴決断所を設置して、天皇親政を復活したことを言うが、足利尊

氏の謀反に合い、僅か二年半で崩壊した。

 以後天下は乱れ、南北朝時代を向かえる。

 後醍醐天皇は失意のうちに吉野に遷幸、崩御した。

 如意輪寺は吉野の桜、中千本にある。

 天空の直線は如意輪寺を発すると、次に上千本、水分神社、金峰神社、次々と中央部分

を通過して、大天井ケ岳一、四三九に至る。

 大天井ケ岳を発した天空の直線は、奈良県の神秘の秘境大峰山に存す国見岳四号一六

五五の頂点を極める。

 天空の直線と相俟う高取城の、概略を紹介しておこう。

 近鉄吉野線、壷坂駅が高取城の入り口である。

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ここはお里、沢市で有名な壷坂寺と言う名刹があり、駅の東四KM地点である。

 それから二KM、石垣が昔を残し眼前に迫り来る。

 山城と平城を兼ね備えた高取城は、五八三Mの高所に聳えたが、今はない。

 別所の大手口から本丸まで十二の城門跡を残し、雄大な城郭を忍ばせる。

 その昔、吉野行宮の関所、南朝越智氏の居城で北朝の戦は、今もこの地に名を残し

ている。

 豊臣時代に入ると、秀吉の弟秀長は大和郡山城主として入城し、この城を郡山城の

出城とした。

 徳川時代は本多利久が城主となり、次いで植田家政が入城、二百四十の間、明治

の始め迄つづいた。

 天空の直線は物の見事に、南朝物語を的中させている。

 大阪府富田林の滝谷不動尊は、南朝楠木正成公の真っ只中にあり、大楠公の守り

本尊の漢がある。

 このような結果が出てくると、高取城築城以前のことが思い浮かんでくる。

 確かに高取城や、滝谷不動尊は若く、国見山が発展した時代とはそぐわないが、前述

のようにクロスバー的に造成されて、由緒ある祖先の神々が割り当ての地を拝受し、後世

の子孫に対して代々無言の遺贈したその地に、現代から見ると伝統と文化を以って。価

値ある文化遺産を建立し、今日迄引き継がれ守られてきたとしたら、これは正しく国見山

の天空の直線の恵みに他ならない。

 付近で農作業をしている七十柄身のおじいさんに声をかけてみた。

「いそがしそうですね。」 「うん」

「ここの古墳、人がたくさん見にきますか。」

「ああ、天気やと、日に二、三組はきよる。」

「みんなに、古墳の話、したことありますか。」

「うん、たまにな−。」


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「昔から住んでいるのですか。」

「うん、ここに来る人はな−」一息いれて、「薮をちょっと覗いてみて、又黙って直ぐ帰ってし

まいよる。まぁ売店ももトイレも無いし、しょうがないなあ。」

「この国見山低いけど、今迄変わったことはなかったですか。」

「まぁ低い山やからさほどめだたんし、山の上から何もみえんしなあ。」すこし間をおいて「そや

、あの頂上石塔が立ってたと思う。どないなってるやろう。昔は上ったけど、今はどないやろ

。あると思うけどなあ。」

「えっ、そんなの建ってるんですか。」

 私は慌てて問い直した。

 石塔の話は三度目である。

 今三度と書いてしまったが、実はこの御所の国見山五号で三度目である。

 一度目は、人に聞くというよりも、宮崎県都城の旧中郷村々史に登場している。

 二度目は、奈良県桜井市の等弥神社宮司さんである。

 奈良県榛原の鳥見山を発し、隣町桜井市外山[とび]付近に存する鳥見山に天空の

直線を繋ぐ。

 桜井の鳥見山の西方山裾に、上社祭神を天照皇大神、下社祭神を春日大神とした等

弥神社が鎮座する。

 更に境内の社には、弓張、恵比須、金毘羅、黒龍、稲荷、猿田彦、愛宕の七社を祭り、

桜井市護国神社もある。

 大祭は五月五日。

 鳥見山霊時大祭五月十三日。

 神嘗祭十一月二十三日。

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 由緒、延喜式の式内の古社にして、旧奈良県々社である。

 桜井駅東南、なだらかな山容を見せる鳥見山の西麓に等弥神社は鎮座する。

 百五十余基の石燈籠が林立する参道を進むと上社[上津尾社]に至り、裏参道を下り

下社[下津尾社]に至る。

 上社より鳥見山々頂え道がつづいている。

 この山は、神武天皇御即位の後、四年の春二月、鳥見の山中に霊時を建て、大孝を

申し述べ給うた大嘗会の舞台であり、、毎年五月十三日、鳥見霊時顕彰会により、お山

の拝所で大祭が斉行されている。

 [鳥見山中霊畤神武天皇四年紀元前六五七年二月二十三日よって霊畤を鳥見山の中

に立て、皇祖天神を祭りて大孝を申し述べ給う。 これ、大嘗会の初の舞台である。]以

上は神社案内である。

 私が鳥見山を調査しているころ、奈良県桜井市の鳥見山々麓、等弥神社の宮司さんを

訪問したことがある。

 その時の会話の中で、次のようなことを語られた。

 「明治の始めのころであるが、鳥見山の山頂に石柱を建てる話が、政府から舞い込んだ。

 奈良県には鳥見山が二山あり、何れかにするか話題になった。私の祖父たちは、最後

まで頑張ってとうとう等弥神社の鳥見山に石柱を建てることで決着した。」と言う話をされた。

 等弥神社の鳥見山は、北の山麓の村、今は町を[外山]と書いて[とび]と読む。

 等弥神社の[等弥]も[とみ]と読み、[とび]が[とみ]に変わった可能性がある。

 宮司さんの話の中で「江戸時代、鳥見山の土中から鳶の焼き物か、或いは埴輪らしきもの

を発見した。

 以来、等弥神社では鳶を祭神とするようになった。」と言うことも語っておられた。

 桜井の鳥見山を出発した天空の直線は、高市郡明日香村飛鳥、即ち飛ぶ鳥のアスカ

の上空を通過する。

 飛鳥は小さな町だか、奈良の古代史にとって重要な無くてはならない存在である。

 奈良の古代を象徴する飛鳥時代の飛鳥には、飛鳥坐神社、飛鳥寺跡、傳浄御原宮跡、

飛鳥寺等多数の遺跡、名刹が現存している。

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 当時の大都会、飛鳥の上空を通過した天空の直線は、隣町の甘樫丘一四八の上空に

差しかかる。

 甘樫丘は、第十九代允恭天皇が、姓氏の混乱を正すため、探湯[たんとう]を行ったと

ころである。

 探湯とは、神の意志を受けて、罰や訴訟を決裁する裁判で、正しければ神の加護を受ける。

 これを神明裁判といい、探湯は古代神明裁判の一つで、裁判の途中審理の決しにくいとき、

真偽、正邪を裁く上で、神に誓って熱湯の中に手を浸けた。

 正義は焼けただれず、邪は燗れた。

 甘樫丘は、奈良県高市郡明日香村豊浦に位置する。

 後に、曽我蝦夷[そがのえみし]、入鹿[いるか]親子の大邸宅になった。

 甘樫丘の豊浦上空を抜けた天空の直線は、次の目的地、御所の国見山五号に差しかかる。

 国見山の西、数十Mに日本武尊白鳥陵大小二つ並んで入る。

 東六、七KMには、高取山がある。

 御所の国見山五号から今着いた天空の直線が、早九州宮崎に飛び立った。

 既に、大阪湾を渡り切り、四国徳島に差しかかる。

 徳島上空を斜め横断した天空の直線は、土佐湾黒潮に乗って足摺上空を一跨ぎする。

 豊後水道を北に見ながら、黒潮の太平洋を西南に突き進んで行く。

 間もなく宮崎の大河、大淀川の河口赤江付近に至る。

 赤江を後にした天空の直線は、鰐塚山上空に差しかかり右に高千穂峰を確認して、宮崎

県都城市豊満の鳥見山、通称トンビが丘に到達した。

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 叉、奇妙な話だが現実は現実である。

 鳥見山が、都城にトンビが丘と少し名を変え現存している。

 大正時代に地元の古老が書き残した書の中に、石柱や神武の話が桜井の等弥神社の

宮司さんが言われたことと似たような事が書かれている。

 明治時代、鳥見山の全国統一の見直しが有ったとすれば、天皇国家時代、大正に変わっ

たからと言って急に忘れ去られた山に変貌することは絶対に考えられない。

 古老が言うには、この鳥見山に祭壇らしき物が有ったとか、石柱が立っていたはずだとか、

あいまいな言葉で当時の面影を残している。

 地元の農家の人の話では、田畑を耕していると、古代の遺跡、遺物に何度か出会ったと、

言う人がいる。

 それでは何故この時代に都城の鳥見山は消されてしまったのか。[今の地図からも消えて

いる。]

 当然古老の村史の中に、鳥見山を鳥見廟霊畤と書かれ、トンビが丘の名前も見える。

 平成の今は、鳥見山の名を知る人もいない。

 私は何故、明治の始めまで名山の仲間入りをしていた山が、大正になって忽然と消されて

仕舞ったのか思い当たる節が無いでも無い。

 史実によると、都城は、明治の後期、四十二年以来、熊本に本部を置く歩兵第六十四連隊

駐屯地があり、それを引き継いで大正十四年には、歩兵第二十三連隊本部が設置され、軍

都の顔を持った。

 明治政府が考えた天皇制と、古来より伝わる伝説に矛盾を生じていなかったか、古老の書

の中に出てくる喜田博と言う当時の学者がいる。

 喜田博士は郷土史家の古老に対して次のように口を封じている。

 

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