都城の邪馬壹國
著者 国見海斗 [東口 雅博]
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神武天皇から仁徳天皇迄一六代、安寧天皇と仲哀天皇は六〇歳に満たぬままお
隠れに成られた。
御二万の御年について太安万侶を信じることに吝かでなく、不審な十四代を対象
に還暦の各々六〇年ずつを控除すると、控除の年数は計八四〇年に至る。
西暦の紀元から神武天皇の即位は、西暦元年から六六〇年前に即位されたことは
現存する太安万侶編修長の記紀に記されているが、編年体に示された干支を使い一
覧表から其のときの御年は、元年辛酉春正月庚辰朔即位神武天皇六二歳[じんむが
んねん、かのと、とり、はる、しょうがつ、かのえ、たつ、いちがつ、ついたち、そくい、じ
んむてんのう、ろくじゅうに、さい][BC六六〇年]と云うことになる。
御生誕は日向の国高千穂の宮にて己未[つちのとひつじ]の年、西暦BC七二二年で
ある。
立太子は日向の国高千穂の宮にて甲戌[きのえいぬ]の年、一五歳、BC七〇七であ
る。
日向の吾田邑の吾平津姫を娶り妃となし、手研耳命[たぎしみみのみこと]を生む。
丙辰[ひのえたつ]歳、皇太子年五七、[BC六六五]高千穂の宮に在り、冬十月東征
に出立する。
丁巳[きのとみ]歳、年五八、春三月吉備の国[BC六六四]に入る。
戊午[つちのえうま]歳、年五九、春二月[BC六六三]皇太子遂に吉備の国から東下す。
己未[つちのとひつじ]歳、年六〇、春二月[BC六六二]皇太子、中州大いに定め、橿原
に都を置く。
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辛酉歳、前述のように[BC六六〇」年六二、神武元年、天皇即位されたと太安万侶は記
紀に書き止て入る。
二年壬戌[みずのえいぬ]春二月年六三、[BC六五九]功を論じ賞を行う。
四年甲子[きのえね]春二月年六五、[BC六五七]霊畤[祭りの庭、種を蒔く、土高し、
蓄える]を鳥見山に作り皇祖天神を祀る。
三一年辛卯[かのとう][BC六三〇]夏四月天皇巡幸し大和を秋津島と号す。
七六年丙子[ひのえね]春三月十一日[BC五八五]天皇崩ず。寿百三十七歳。
七七年丁丑[ひのとうし][BC五八四]畝傍山東北陵に葬る。
神武天皇の御略歴から判断すると、太安万侶の意図はBC六六〇年が我が国に最良な
年代と決め、神武天皇の即位を中心に報告することが中国歴史に劣らない時代とみて、後
年どのようなことになるか考えも無く此の決定に及んだと推測する。
其のころの中国は周の武王の建国以来およそ四〇〇年が経ち春秋の世を、三〇〇有余
年後には戦国の世を向かえるという激動の時代であった。
中国の強烈な写し絵が、神武天皇の武勲と相俟ってこれからの天皇家の御発展と御安泰
を願い、太安万侶の側頭部を掠めたに違いない。
それが証拠に今は時代を経て、伝統在る名勝旧跡地名に及び喜ばしいが、当時日本全国
統一された国司や郡司を利用して、記紀の信憑性を高めるために神代の地名を彼方此方に
命名した節が在る。
当都城地方にも、未だに多数改名された地名とは別に少し名を変え現存している。
神武天皇、辛酉歳、神武元年、年六二、BC六六〇、天皇即位の日を起点として一六代
まで天皇全てを干支による還暦に基づき、八四〇年を紀元後、ACの時代に引き戻すと西暦
一八一年が、神武天皇、辛酉歳、が御生誕の日となり、還暦して西暦二四一年が天皇即位
の日となる。
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此の年数は故意に作った数字では決して無い。
太安万侶が十六代迄の天皇を、異常なまで百数十歳と並べ立てた疑問から生じた干支
を中心とした結果である。
当然長命な天皇が居られて当然である。
しかし摂政は当時天皇自ら国を平定し、人事の果てまで執り行われていたようである。
若くしても困難なことであり、尚年老いて幾人かは居られたかもしれないが、今に於いて
歴代となると不可能に近い。
神武天皇は西暦二百五十八年、七十七歳の戊卯[つちのえう]の時、喜寿を以て御他界
されるが、誠に不思議な一致を見るものがある。
話は唐突に過ぎるのは承知のうえ神武天皇の鳥見山と関係付けるため、魏志倭人伝の
一部をご紹介したい。
[塞曹掾史張政等為檄告喩之、卑弥呼以死、大作家径百余歩、徇葬者奴婢百余人、更立
男王国中不服、更相誅殺当時殺千余人、復立卑弥呼、宗女壱与年十三為王国中遂定、政等
以檄告喩壱与]
此の漢文は陳寿[二三三−二九七]という歴史家が中国の三国時代の歴史を著述して、西
晋の初代武帝に献上し中国の歴史書として認められた重要な文献の中の一節であるが、三
国の一つ魏が中国の正当な国家として位地付け魏志倭人伝は東アジアの極東にありながら、
魏に忠実に従い貢献する倭国の姿を魏の歴史の中に組み入れた、倭国日本にとってもこれ一
つしか無い貴重な歴史書である。
上記漢文を解説し直訳すると次のようになる。
帯方郡太守が派遣した軍事、軍務担当官、塞曹掾史張政等一軍、一万数千の大部隊が
邪馬壱国、親魏倭王卑弥呼
を軍事裁判に処するため、魏国の国旗黄幢や魏国の法律に従った裁定詔書を携え邪馬壱
国宮殿を訪問した。
判決は国家反逆罪、死刑である。
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既に官位を剥奪された親魏倭王卑弥呼は、魏志倭人伝に卑弥呼とのみ記され市井の人
に立ち返った。
直径百数十メーターの大きな円墳の製作は認められたが、埋葬に従う召し使いは百数十
名に止まり、倭国の慣習に従って葬られた。
魏志倭人伝は葬儀の方法を克明に記している。
[死するや棺有るも榔[かく、うわひつぎ]が無く、その上に土を被せ冢[ちょう、つか]を作る
。死後喪に服すること十余日、肉を食わず、喪主は号泣し、他人は歌舞し飲酒する。葬儀が
終われば家を挙げて河川に出掛け、操浴[そうよく]するが、まるで練沐[れんもく]の様であ
る。]
[卑弥呼の死後、男王を選出したが邪馬壱国三十国の間に不服が続出して、各国に別
れ互いに誅殺し合い一千余人の犠牲者が出た。
卑弥呼が女王に選ばれた時の様子を再現することが諸国王の間で都合が良いと気寸い
た国々ま倭国日本に派遣されていた中国の顧問、軍政官張政と相談の結果、卑弥呼にて
らし十三歳の宗女を女王に復立、やがて内乱は平定し国中は平静を取り戻した。]
此処で重大な復立の復とは象形文字の立場から考察すると次のような結果を得る。
復は同じものを上下に重ね、其の字に足を合わせ、更に行くを添えて、同じ道を再び戻ってく
る意味を表す。
これは卑弥呼の年齢が壱与の年齢と同じであることを意味し、更に卑弥呼と同様、魏国と
共立して国王を選出した状態を明らかにしている。
女王卑弥呼が選出されたときも倭国乱れ、相攻め殺し合う内乱状態が歴年つづき、後漢の
関与によって共立された。
又お互い女王と云うことも復が如実に物語っている。
張政は別の文献によると二十年間倭国に滞在して、壱与の政治に携わっている。
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女王壱与の即位は魏の正始九年、戊辰[つちのえたつ]西暦二四八年、二二歳である。
魏志倭人伝の文中にも卑弥呼の死後二十年経過して、西晋の初代武帝が魏の国を滅ば
した一年の後、魏の張政を朝献を兼ねて見送り引率して武帝に感謝を上表し、引き渡して
いる。
其のころ既に張政の力を借りて中州に東征を果たし原大和を建国なし終えた女王壱与は
、西晋の泰始二年、丙戊[ひのえいぬ]、西暦二六六年、三二歳を迎えた。
神武天皇が都を橿原の宮に即位したのが、辛酉[かのととり]、西暦二四一年、である。
神武四年甲子[きのえね]西暦二四四年春二月、我が皇祖の]御霊や天より鑑を降ろし
て朕躬[ちんみずから]を光りにより助ける。
今諸々の虜、既に平らき、内事をなし似て天神を郊祀し、用いて大孝を申すべし。
則ち霊畤を鳥見山に作り皇祖天神を祀る。
さて此処で気が付くことは、女王壱与の奈良遷都と神武天皇の奈良遷都である。
神武天皇は即位十七年丙子春三月十一日、西暦二五七年、崩寿、七七歳の喜寿を似
てお隠れになられた。
即位後の神武天皇と卑弥呼、男王、と其の第三代を継承した女王壱与の時期が何か引
き付け逢うものがある。
即位後の神武天皇は奈良に来た女王壱与を待ち佗びるように]御他界された。
神武天皇が生誕されたのが、辛酉歳、西暦一八一年である。
卑弥呼が生まれたのは定かでないが、死亡した年は魏の正始八年、二四七年である。
女王壱与の即位が卑弥呼と同一条件で有る限り卑弥呼も十三歳で即位したのは明らか
である。
又、国内が反乱状態であったということも同じ状況であり、方や後漢、方や魏という中国
の大国が主導の基に両女王が共立という方法で選出されたことも間違いがない。
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魏志倭人伝には、倭国乱れ、相攻伐すること歴年、と書き示されている。
又中国の歴史書、後漢書の中に後漢王朝、桓帝[一四七−一六七]、霊帝[一六八−一
八九]のとき、倭国大乱とある。
それは、一四七年から一八九年の四二年間が倭国大乱であり、此の乱れは中国後漢末
期の中国内部から生じた影響が倭国に反映したとすると、後漢末期の大反乱は何と行って
も光和末年の黄色い鉢巻きを締めた黄巾の賊を除いて外に見当たらない。
黄巾の賊は双方数十万人の大反乱だが、敵将頂角の病死に依り一年足らずで終戦を迎
えた。
其のときの恩賞のなかに公孫一族の公孫度が遼東太守に叙せられている。
其のころ朝廷で頭角を現し霊帝を思いのまま操る董卓が、公孫度と卑弥呼に東アジアを
委託した。
光和末年を中平元年[AC一八四年]と改め、倭国大乱も収まる。
倭国、女王卑弥呼、西暦一八四年、十三歳にて即位す。
女王卑弥呼の生誕は一七二年である。
則ち、神武天皇のご生誕は一八一年であり即位が二四一年、薨去が二五八年、崩寿七
七歳、である。
又、女王卑弥呼の御誕生は一七二年であり即位が一八四年、薨去が二四七年、逝去七
六歳、である。
御二人を並べると何れが初代天皇か、初代女王か、見聞違うばかりである。
神武天皇の鳥見山霊畤、此の山は奈良県桜井市に一山、奈良県榛原町に一山、宮崎県
都城市豊満町に一山、計三山現存している。
残念かな我が都城の神武天皇ご生誕の山、邪馬壱国を形成する霊畤を連想させる名山、
鳥見山が明治か江戸、既に抹殺され、公的な地図からも見ることができない。
しかし我々の仲間や同士の力ある行動と、古文書や文献資料、或いは近隣諸氏の協力を
得てほば間違いなく鳥見山頂点を見いだすに至った。
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細切れに開発が進み、荒れに荒れ見る影もない有り様である。
都城の鳥見山をコンピューターダラフィクスで奈良の二山と直線により調査したところ、およ
そ六百KMの距離に及ぶにも拘わらず、壱パーセント以下の誤差で三山が結ばれていること
を知った。
榛原の鳥見山を発した直線は忽ち桜井の鳥見山頂点に至り、奈良県柏原市飛鳥町の上空
を抜け、明日香村の甘樫丘の頂点から御所市の国見山頂上を極め、和歌山県有田市の潅岸
から一気に大阪湾を一跨ぎ、徳島の上空を飛び越へ、高知の黒潮に出て足摺岬上空に差し
かかる。
黒潮の流れに沿い右に豊後水道を見て太平洋を渡り、日向灘を越えると宮崎大淀川の赤
江河口に至る。
鰐塚山系に入り右に霧島連山高千穂峰を拝み、都城盆地に至ると不思議な山、鳥見山霊
畤に止まる。
鳥見山霊畤から西北に対時する峰、これは魏志倭人伝に云う山島により国邑を為す、霊峰
高千穂である。
眼下には平安京の時代、八千六百数十町に及ぶ日本最大の大荘園、摂政関白宇治の大
御所、藤原頼通が都城の地頭平季基から献上された大盆地が広かり、俗世界を離れた夢の
島を描き出している。
東南にむけ楽浪郡の首都、王険城[現在の平壌の首都]を発した直線は帯方郡の首都京城
に至り、忠清北道車嶺山脈、小白山脈を越え、慶尚南道、鎮海市に至る。
鎮海市は魏志倭人伝の狗邪韓国、日本史の任那と云われた地域である。
歴史の町、狗邪韓国を後に東南に直線を進めると倭人伝の島、対海国、対馬の厳原を過ぎ
一大国、壱岐の湾岸を経て、末盧国、東、北松浦郡の郡界を抜け普賢岳、国見岳頂上に至る。
国見岳を有する島原半島は、魏志倭人伝の伊都国、奴国、不弥国を包括し、投馬国の出
発点でもある。
やがて国見岳を発した東南の直線は、霊峰高千穂の頂上に止まる。
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話は変わって奈良県橿原に大和三山が鎮座する。
大和三山は天香具山、畝傍山、耳成山を指すが、夫れ夫れを直線で結び三角形を構成
すると此れは二等辺三角形を為す。
又高千穂峰と帯方郡、会稽東治で構成する三角形は上記三角形と相似形を為す。
天香具山と耳成山を結んだ東南の直線は先述の帯方郡と高千穂峰を結ぷ東南の直線
と全く平行する。
此の直線下には倭人伝で説明された国々が網羅されている。
高千穂峰は天孫降臨で有名だが、倭人伝に其の道里を計ると当に会稽東治の東に邪
馬壱国があると云う。
言葉を換えると邪馬壱国の象徴は高千穂峰であり、裾野の都城盆地全体が邪馬壱国
、其の中央を突き抜ける東南の鳥見山を結ふ直線は邪馬壱国の政庁を示したものと推
測する。
揚子江河口付近を会稽東治と云うが、魏の国を著述した陳寿の性格から揚子江の南
岸は呉の国であり、北岸が魏ということになる。
当は中途半端な東ではない。
当を象形文字から考察すると、旧字体は田と見合う尚を合わせた文字で、二つの田
の面積や価値が互いに見合う意味を表す。
高千穂峰は北縛三一度五〇分、当に揚子江河口の崇明島の北岸、会稽東治のチー
ドンと東西に対峠している。
高千穂峰、其の南に狗奴国があるという。
高千穂峰の真南、約六三KMの地点に彦波激武鵜茅葺不合尊[ひこなぎさたけうがや
ふきあえずのみこと]を祭祀した宮内庁管轄の伊勢神宮と同じ雰囲気を有する吾平山丘
陵という荘厳な岩窟がある。
此の岩窟に至る途中に鹿屋市があり、町は不思議な道路形態をして居り、市役所は大
正七、八年頃着工し大正一二、三年頃完成したというが、崩落した崖まで道路が有り河
川の岸辺まで道路が付いて納得いく説明ができる人はいない。
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二〇〇Mと三〇〇Mの統一された升日の道路は南北に約十三KMあり、東西の北側は
斜線によって三角形の道路を為す。
七、八年前、日本最大の弥生集落が出土したと表示されていたが、今は無い。
全く狗奴国に相応しい町の形態である。
高千穂の神秘性は申すまでも無いが、現実性ある都城、神武天皇の鳥見山霊畤は今で
こそ忘れ去られた過去の山と成り下がったが、古代を掘り返すとこれほど話題豊富な山は
外に無い。
本来登山するための道路は険しければ険しいほど、目的が無ければ無いほど上り下りの
道路の数が少なくなって当然である。
ところが鳥見霊畤に限って趣が異なる。
中郷村史によると、金御岳と鳥見霊畤の山系両側を千穂と呼び、この名称が高千穂峰の
起源を為す。
鳥見霊畤は奇しびで万古の神秘を秘め、神々しく屹立した山の高さ五五〇Mの頂上は丘
陵で、しかし山の姿は際立って鉾のごとく高空に聳えて、神秘感を与える。
畏くも神武天皇大八州を平定し給い、橿原に都を定め、此処都城鳥見霊畤は、懐かしい発
祥の地である。
都城、鳥見山の麓に田部部落、今は豊満町という名に変わり現存しているが、実は町名変
更の時期が明治三年であり、何か勘ぐりたくなるような時代背景がある。
多分神武天皇の鳥見山の消滅も新政府の方針に従い、この時期に実施されたのではな
かろうか。
それは日向都城の鳥見山、奈良桜井の鳥見山、奈良榛原の鳥見山これら鳥見山三山は全
て神武天皇に係わる名山である。
奈良桜井の鳥見山等弥神社の宮司さんから直接聞いた話だが、[明治の初め頃、私の祖父
は明治政府から鳥見山の山演に石柱を建立すると云う話が持ち込まれた。其のとき隣の榛
原町にも同じ話が持ち込まれ、何れに石柱を建立するか誘致合戦が始まり、その結果払共
の鳥見山山頂に石柱建立が決定しました]
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私はこの言葉を五、六年忘れることがなかったが、田郎部落を調べているとき、田部村は
明治三年、豊満村に村名変更を実施するように明治政府通達が為されたことを知った。
興味のない者にとって何の変哲もない山村の地名変更であるが、鳥見山や田部屯倉を
研究している者にとっては驚嘆に近い晴天の霹靂である。
特に私の場合等弥神社の宮司さんの話を記憶していたため尚更である。
中郷村史に次のようなことが書かれている。
鳥見山の大きな山の中腹に祭壇と見るべき広大な平地が、幾段にも段を為し偉観を呈
している。
絶頂に石碑が立っていたと云うが、今はどうなったものか知る人もない。
中郷村史は大正の初めのものを収録したと思われるから、明治の始めには既に撤去さ
れたと推測できる。
話をまとめると明治の初め都城鳥見山の石柱は取り除かれ、奈良の桜井鳥見山は石柱
を始めて新しく建立され、榛原町鳥見山は争奪戦に敗北し、結果石柱の連立は見ることが
できなかった。
ということは我が都城には既に古く石柱が立っていたことになる。
明治政府は官軍であり、延いては錦の御旗である明治天皇を象徴とした政権である。
鳥見山は神武天皇の霊畤である。
明治政府は鳥見山三山を、平等に扱われて然るべきなのに何故不平等に取り扱ったの
か。
しかも田部部落までも打ち消さなければならなかったのか。
この答えは[古代に纏わる天皇家の係わり全てを打ち消して、新制日本を明治政府自ら
扱える範囲に止め]或いは[特に天皇制は明治政府にとって何者にも変え難い彼らの政策
上の神ノ国を表現為るために欠くべからざる]或いは[それは、国の政策外にある町村を趣
意選択]等々幾らでも考えられるが、国の都合という外ない。
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