都城の邪馬壹國
著者 国見海斗 [東口 雅博]
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以上の短文は記紀による抜粋であるが、此の中に納得行かぬ矛盾が大きべ潜んでいる。
神武天皇と景行天皇、日本武尊、仲哀天皇、気長足姫[おきながたらしひめ、神功皇后
]の四人の関係である。
当然、二人の人皇、一人の皇后、一人の皇子が古代日本の建設のために偉大なる功績
を残された事実は事実として記録により明らかであるが、神武天皇と四人の関係も明らか
である。
其の関係とは何故人皇第一代天皇の生誕地、皇統を重んじる此の時代に放いて、日向
の聖地に向けて弓矢を引く記紀にも残る戦闘行為が決行されたのか、 話を暦に戻し太陰
暦から景行天皇、日本武専、仲哀天皇、気長足姫が熊襲征伐をした日と対象してみよう。
太陽暦は明治憲法によって明治五年から始まったが、日本古代王朝は前述のように古代
中国に倣い太陰暦を採用していた。
さらに古代王朝の四季、四祭は陰暦の一月、二月、三月を春、四月、五月、六月を夏、
七月、八月、九月を秋、十月、十一月、十二月を冬とした。
@、景行十二年壬午秋七月筑紫の熊襲反す。
A、景行十二年壬午冬十月日向に至り熊襲を高屋宮にて討つことを議す。
B、その月熊襲の娘二人を使い酔臥させ、長女は従兵十二名に殺させる。襲国悉く平げ
る。
C、景行二七年丁酉秋八月熊襲また反す。
D、この月天皇は、皇子日本武尊に命じこれを征伐す。熊襲、悉く平定す。
E 貴行五七年丁卯冬十月諸国をして田部屯倉を造らせる。
F、仲哀二年癸酉春三月紀伊に至り熊襲反すを聞く。
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G、仲哀天皇、親ら舟師を帥いて之を征伐す。
H、仲哀八年己卯秋九月香椎宮に居り、群臣を会し熊襲の進討を議す。
I、直ちに熊襲を討つが完全に討つことができなかった。
J、気長足姫[神功皇后]は自ら齋戒し再び神の教えを請い教えに従い祭り即ち鴨別を
して熊製を討つ。
K、旬日 [十日]にて平定す。
以上から神功皇后を除き、偶然と想われるかもしれないが景行天皇、日本武尊、仲哀天
皇に共通していることが存在していることが判明する。
討伐の会議を齋すその月は別として、討伐を決行する日は七、八、九、十各月に集中し
ている。
理由は米の実りや刈り入れに集中していることである。
決して文のうえでは熊襲或いは隼人が何に対して反したかは別として、朝廷に対して刃
を持って向かったとは考えられない。
熊襲の町はいまの鹿児島県曾於郡松山町付近と考えている人がいるが、それは熊本県
が熊襲の町と決めている人と余り大差の無い発想と変わりが無い。
或いは鹿児島県国分に隼人と云う町があるが、ここが隼人の発祥地と考えている人も少
なくない。
曾於郡松山の熊襲や国分の隼人に就いては一槻に熊襲や隼人でないと言い切れないが
、幾ら米どころの熊本とは云え南九州や日向に当てはまらず熊襲とは言えない。
実は南九州に周囲が厳しい山間に取り囲まれ、外敵を防ぐ様に守られた水の豊富な不
思議な大盆地が一つある。
盆地の名前は都城盆地のことである。
今は都城市を中心に北諸県郡三股町、高城町、山田町、高崎町、西諸県郡高原町、鹿児
島県曾於郡末吉町、財部町、が都城盆地の中に存在し北西にある鹿児島県姶良郡霧島町
、鹿児島県曾於郡志布志町、東南の宮崎県串間市、日南市は都城市に隣接する。
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魏志倭人伝の山島によって国邑を為すと書き示された霧島連山高千穂峰は、まさしく中
国古代象形文字を代表する山を顕し、天孫降臨高千穂峰と謳われた山の頂上は魏志倭
人伝の序文、倭人は帯方郡の東南に在り、大海に向かって出発すると旗竿を立てた様な
山島高千穂峰の陰に人々は身を寄せ合い、女王の治める国家が維持されている。
確かに帯方郡[今の京城]から東南に高千穂峰を望むと都城盆地は、高千穂峰の東南
に眼下を拡げている。 実は帯方郡と呼ばれた京城は韓国の首都であり、西暦二百三年、
第一代遼東太守公孫度の息子公孫康によって設けられた。
当時中国後漢の最後の皇帝、霊帝の命を請けた遼東大守公孫度は遼東半島の遼陽城に
拠点を設け、東北満州付近まで領有し、更に今の平壌に当たる大同江の辺に在る北朝鮮の
首都、王険城から朝鮮半島南部、更に対馬海峡一帯から倭国と呼ばれる日本列島の西部
に至るまで、公孫度太守によって支配された。
此のような時代背景を下に、倭国は朝鮮半島から遼東半島を抜けて徒歩や船舶によって
賂陽の都に帝に対する臣下としての朝貢のために出立したが、朝鮮半島や遼東半島から
攻撃を受ける敵対行為は全く無いと云ってもいい。
実は二百三年の帯方郡設置のとき既に北朝鮮の首都、平壌[古代は楽浪郡と称した]即
ち楽浪郡と東南の高千穂峰の間は交通が開かれ、此の二点を結んだ直線の下に都市が
開かれていたのである。
今の平壌、当時の楽浪郡と称した王険城を発した東南の直線は、帯方郡は勿論、後世任
那と呼ばれる鎮海の中心部、当時の狗邪韓国、対馬の厳原町、当時の対海国、壱岐の一
大国、松蒲半島の末盧国を東南に直線で貫通し、普賢岳の国見山に至る。
普賢岳国見山を有する島原半島には、魏志倭人伝に書き示されている伊都国を始め南
奴国、不弥国が存在する。
普賢岳の国見山に留まった東南の直線は、やがて始動して更に東南に進むと高千穂峰
の演上に着座する。
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高千穂峰に着座した東南の直線軋科学を延長させると神武天皇に係わる或いは邪馬壱
国女王の宮殿とも想われる鳥見山の麓を通過して、後漢の外国の臣下が有する穀璧が発
掘された串間の今町に到達する。
何と不思議な直線では無かろうか。
しかし事実は事実である。
高千穂の山の頂には想像を絶する色々の不思議さが潜んでいる。
特に魏志倭人伝に纏わる方位については、余りあるものがある。
高千穂峰の頂から真西に直線を発すると啓東[チードン]即ち揚子江の河口、崇明島[チョ
ンミンタオー]の北側、北緯三十一度四十分ぐらいの所に達する。
北緯三十一度四十分は高千穂峰も同じ緯度で、此の付近は三国時代会稽東治[かいけ
いとうち]と云われた地域出ある。
魏志倭人伝の作者陳寿の性格は物事を書き記したり、日常の生活態度は曲げて判断す
るような甘い考えの持ち主でなかったと聞く。
此の建前から判断すると北緯三十一度四十分は揚子江の北側にあり、呉の国と魏の国の
国境付近とは云え勿論魏国に属していることは明白である。
又作者陳寿はくどくどと書かれた数多い文字の説明をできるだけ省き、文字が持つ絵画
の性格を十分発揮させ、即ち天子に僅かな文字でその中に潜む被写体を最大限利用して
数多く倭国を紹介することを目的として書き上げたのが魏志倭人伝である。
私は決して其の時代の社会性を除き、魏志倭人伝が有する固有の難しさに対してさほど
難解とは考えていない。
例えば前述した魏志倭人伝の序文について、倭人は帯方郡の東南にあり、大海に向かっ
て出発すると旗竿を立てたような山島、霧島連峰の高千穂峰の陰に身を寄せ合って、女王
卑弥呼の治める国家が維持、運営されている。
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此の場合の山島とは山波或いは連山を云い、大きくは山波によって周囲が囲まれた盆地を
指す。
従来の標準的解釈は[倭人は帯方郡の東南、大海の中に在り、山島に依って国邑を為す。
]であるが、膨大な邪馬壱国の書籍に在って、冒頭に始まる文面に誰からも非難を受けたり
語意の訂正も無く何十年、或いは何百年人々の信任を受けてきた文頭に、今更考古学の単
純な部分の落とし穴にはまり決して否定する訳では無いが、全体構造の掴めない遺跡発掘
に明けくれ、それを後元させる労力の必死の姿が重なるとき初期動作の重要性を犇々と感ぜ
ざるを得ない。
斯く云う私の文頭の解釈は我田引水的であるが、若し仮に此の解釈が正しければ他を制
して新説になる。
原文は[倭人在帯方東南大海之中依山島為国邑。注、原文は島の文字は鳥冠に山]であ
るが、見たところ何の変哲も無い日本人でも単純に読み書きできる中国の文体である。
しかし如何に単純な文体であっても相手は凡そ二、三世紀頃の文体であり、しかも天子に
上表する作者にとって名誉であり命懸けの作業である。
一字一句の誤字も許されない場面であり、当然中国歴史書として国を代表させようとする
政界実力者の推挙やライバルが後ろに控えてのことである。
中国の三国、魏、呉、蜀漢の歴史を書くうえに於いて、魏にたいする極東の重要性が今ま
でになかった程影響を与えた為、例え書く紙の枚数に制限が加えられたとしても中国歴史書
として書き残さなければ成らない使命感に駆られ、倭国を具体的に調査して書き示したのが
魏志倭人伝である。
以上は倭人伝の中に潜む漢字の被写体を絵画が持つ性格と併せて読み切ると此のような
情景と成って解釈できるのである。
此れが象形文字の特異性である。
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上記の原文の重要な文字は[之]、[中]、[依]、[邑]である。
[之]は、人の足と、数時の一を併せて、足が境界線から出て行く様子を表す。
[中]は、枠の真ん中に旗竿を立てた形。
[依]は、人と衣とを合わせた文字、人が或るものの陰に身を寄せかけることを表す。
[邑]は、口は一定の場所を表し、巴は人の跪いた形、此の二つを併せて人の居る場所
を表す。
天子が直接治める地。
さて魏志倭人伝の著述の中の方位について、或いは方位から始まる言葉に就いて枚挙
に暇がない。
しかし方位を重視して魏志倭人伝を理解しようとすると単純に注意されることは、先ず物
的証拠を並べることであり、万が一当方に優位性が認められると目立たないように非難す
ることであり、如いては天皇制の皇統を持ち出して私的に研究することは自由であるが、県
は官であり延いては国に繋がることである。
皇統を時に守る立場にあるものとしては、決してそれが事実としても真実は明らかにすべ
きでない。
即ち邪馬壱国はある立場にある人々の間では既に解決されている事柄であるという。
此の奇怪な話は二十一世紀の重荷にならなければいいと想う。
我が国が世界に先駆ける一番の手段は日本の歴史が明らかな国家であり、神話は神話
として認めることである。
神話の無い国こそ国民にゆとりの無いものを与える様に思える。
近隣諸国の人々もいざと云うとき日本人は国を挙げて何をするか分からないと云う人が
いる。
何か神話が其のようなことを云わせているように聞こえて仕方がない。
橿原神宮、宮司、山田正さんは今から十年前の平成二年四月二日の橿原神宮御鏡座
百年大祭を前にして神武天皇御代の蘇りを願うとして次のように述べられている。
神武さん、何と親しみのある呼び習わしであろう。神無建国二千六百五十年の日本の歴
史の中で神武さんのように親しみを込めて我々の心の中に宿しつづけている例は他に見ら
れません。
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我が建国の第一代神武天皇はそれ程迄国民の身近かに感じてきた証拠であると言えま
す。
国の一大事、国の存亡の危機を国民が意識したときに、建国の苦しみを回想することは、
東西古今に見るところで、興隆の原動力と成ってきました。
我が国の過去の歴史を見ても、万葉の時代から神武天皇建国の日を思い、更生の活力を
自他の心に奮い起こした例は枚挙に暇が無いと、古代史と古典を極められた文壇の保田与
重郎は、絶筆の評論[神武天皇]で述べられて居られる。
近代、明治天皇は明治維新に、諸事、神武創業に還ることを王政復古の理念とせられました。
昭和二十年の終戦以降は一時の占領政策にも依るが、歴史の中で神話が抹消され、神
武天皇も学校教育の場では教えられない四十年に及ぶ時代を経て、昭和二十七年の講和
条約発行後、日本経済の復興の兆しが見えた昭和二十九年、誰とも無くなずけた神武景気
は忽ち日本列島に行き渡り、国民に希望を賓した記憶は戦後を経験した誰もが持ちつづけ
たものです。
たまたま昭和から平成元年の今、仁保経済が景気拡大に転じた昭和六十一年十一月以降
三十三力月の長期化を、第二の神武景気となずけた経済発展は、現実に見る神武さんの再
現に他ありません。
平成二年は神武建国から二千六百五十年、しかも四月二日は橿原神宮御鎮座百年大祭
の記念すべき年を向かえるに辺り、伝統を否定して始まった戦後四十年の今日、原点から
のメッセージを、此の橿原から全国に送り届けて新たなる御代への蘇りを願って止みません。
今から十年前橿原神宮の宮司、山田正さんは述べられている。
更に神宮案内には、橿原神宮は御祭神、神武天皇が畝傍山の東南、橿原の地に宮を建て
られ、即位の礼を行わせれた宮址に、明治二十三年に創建したものである。
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我が国建国の始祖となられた神武天皇と媛蹄たら五十鈴媛皇后[ひめたたらいすずひめ
こうごう]が祀られている。
神武天皇は日向の高千穂の宮に居られたが、天の下の政治を行うべく遥々東遷の途に
立たれ、途中多難に遭遇されたが遂に大和の国を中心とした中つ国を平定され、畝傍の橿
原の宮において即位の礼を上げて国の基を立てられた。
広大で荘厳な日本一を誇る橿原神宮の宮司さんでも、神武さんは日向の高千穂に居られ
たと認めて憚らない。
此のような平和な時代とは裏腹に天皇家にとっては誠にお気の寺な辛いときに立たされ
た時代がある。
江戸幕府の徳川体制では天皇家は征夷大将軍の権限を持つ一人の大名程度の扱いし
か受けない立場に立たされていた。
江戸時代の天皇陵は手を就ける者も無く荒れるに任せ、江戸時代の細井知慎[一六五
八年−一七三五年]は諸陵周垣成就記[しょりょうしゅうえんじょうじゅき]に、大和の天皇陵
は今は土民、よじ登り、もしくは暴き等して浅ましきことを深く嘆くと云う文を残している。
蒲生君平[一七六八−一八一三]は天皇陵の荒廃を山陵志に記録を残している。
蒲生君平は前方後円墳と云う言葉を残したことで有名である。
江戸時代の学者、山片蟠桃[やまがたばんとう、一七四八−一八二一は江戸時代という
時代背景の中で、日本紀神代の巻は取るべからず。神武以後と云えども一四、五代よりを
取り用ち得べし。しかし神功皇后の三韓征伐は信用ならず。応神よりは確かなるべし。
此の理由は神武の時代、文字が無かった時代と決めつけ、神武という名前さえずっと後
の世に考えたものであると、述べている。
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更に神武天皇以前の神々や応神天皇以前から神武天皇間迄の各天皇は諡号[おくりな
、しごう]も無く当然文字も無い時代で伝承に頼るしか手立ては無かった筈であると、決めつ
けている。
神武天皇過空論を唱えた津田左右吉[一八七三ー一九六一]は神武東征は歴史的根拠
がないとして大正時代に発表され皇室の尊厳を傷つけるとして全て発売禁止処分を受け
ている。
理由は日向が皇位に服しなか熊襲の居住地であったという他の確実な知識、情報から
日向に都が在ったということは歴史上に事実が無く、東征に事実がなければ大和朝廷は当
初まり大和に在り、神懸かりぷ似た神武東征はその性格から物語として認めるべきである
と締めくくっている。
やがて明治維新の岩倉具視[一八一〇−一八七二]は第一代神武天皇の肇基に原ずき
簑宇[かんう]の統一を図り、万機の維新に従うを以て基準となす、と記録して実行に遷すの
である。
此のように論戦止むこと無き中に在って古代史、歴史学者、古田武彦先生は神武天皇は
実在したと考えておられる。
古田先生は神武天皇について、神武天皇を省きこの一つを取り除けば、日本古代史の真
相は失われ、肝腎要がとり逃されると云う。
古田先生は神武天皇という漢風諡号は後年に付けられたものであり、若御毛沼[わかみけ
ぬ]が本来の名前であると云う。
古田先生の神武天皇実在の論拠の一つとして日下の戦いに注目されている。
此の部分を直訳すると次のようになる。
[其の国に従い登り行くとき、浪速の渡りを経て、青雲の白肩津に泊まる。此のとき、登美
の那賀須泥毘古トミノナガスネヒコは軍を興し待ち向かえて、以て戦う。爾に御船に入れた
るところの楯をとられて下り立たれた。
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故に其の地を号して楯津と云う。今の者において日下の蓼津と云う。]
此の文相を能く検討すると神武天皇の船周が日下迄上り詰めそこに上陸したと云うこと
である。
ところが津田左右吉の云う偽称説であれば、古事記や日本書紀の書かれた時代には、
既に船で入るような湖、即ち河内湖はなかったと云う。
取りも直さず此れは、陸地の中に船で入ってきたというような文章を記紀は平気で書き示
したことになる。
実は此の河内湖は五、六世紀の中、後期の古墳時代には既に陸地に成っていた。
当時の伝承を知り得なければ書き表すことのできない場面である。
更に古田先生は神武東征を肯定するに当たり大阪の南方を取り上げて次のように論証
されている。
[此処において登美毘古の与えた戦いのとき、五瀬の命は御手に登美毘古の痛矢串を負
い、故に詔す。我は日の神の御子として、日に向かいしこうして戦うは良からず。故に卑しき
奴の痛手を負いぬ。今より行き回りて日を背負い以て撃とうと期待された。南の方より廻り行
かれるとき、血沼の海に至り、その御手の血を洗われた。]
本居宣長は古事記の南方を南の方へと方向をもたせたが、此の解釈では日下の南に海が
広がることになる。
本居宣長は考えて日本書紀の河内を誤りとして和泉に改めている。
古田先生は南方を地名と見抜き枚方が平潟と同じように南潟で、河内湖を背景に其の名
が残されていたことを看破したのである。
古田先生は南方について論証を見たとき、神武説話が造作説の留めが刺されたことを確
信せざるをえなかった。
何故なら、此の微妙な脱出路まで弥生地図に一致しながら、同じ近畿でも六−八世紀の近
畿の地形には全く合致しない説話が如何に偽物と云うことができるのか。
此の事実を知って尚強引に云いつづけることができるだろうか。
たしかに私も日向人の一人として神武の東征、はたまた卑弥呼宗女壱与の東征を考えて
いる一人である。 |