邪馬壹國 5 古朝鮮
    都城の邪馬壹國
                                      著者  国見海斗 [東口 雅博] 



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 紀元前一千八百年、西暦で云う、今から三千八百年前、中国に殷の湯王の湯王が現

れて、夏王朝傑王を滅ぼし殷王朝[およそ六百八十年]を建国し、中国全土を支配した。

 建国最後の皇帝を紂王、名は辛と云う。

 妃の姐己を寵愛し、政治を忘れ悪逆非道の限りを妃と共に施行した。

 姐己が悪政を唆し、紂王は諌める事なく実行した。

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 叔父の箕子は諌めたが、聞き入れられず、却って投獄の憂き目を見た。

 諌める臣下には、火の上に架け波した鉄棒に油を注ぎ、焼け死炮落の刑をあたえた。 

 見かねた臣下の一人、周王発は弟二人を引き連れて、殷王政、紂王に兵を挙げた。

 戦乱は発の時代で終わらせた。

 箕子[きし]は救出され朝鮮王となり、周辺諸国を平定して大同江の北岸に王険城を設

けそこを居城とした。
 
一族は、代々朝鮮王として九百二十年間に渡り君臨し、朝鮮北部を支配した。

 周王発は殷王朝に変わり周王朝を建国、武王と号した。

 武王の弟、召公夾は燕王に叙せられ、現在の河北、東北南部即南満州、朝鮮北部一帯

を領し、薊[けい]現在の北京に都した。

 召企夾から四十三代、秦の始皇帝に滅ばされるまでおよそ九百年間、召一族は遼東の

関係諸国を護持した。

 秦国が八百六十七年の歴史を持つ周を滅ばしたのは、前二百二十一年で有る。

 戦国七雄の頂点に立ち、秦が中国一統の業を成し、秦の始皇帝として君臨したのが前二

百二十一年である。

 始皇帝が亡くなり二世皇帝が立ったが、秦王子嬰のとき、前二百二十一年、沛に兵を挙げ

た劉邦は、江東の項羽より先んじて咸陽を攻め、秦王子嬰を降した。

 秦は、一統の業より十五年で滅びた。

 劉邦は項羽から漢中の僻地を与えられ、漢王と号した。

 四年の後、張良、齋荷[しょうか]、韓信の力を借りて垓下[がいか]にて項羽を打ち破り、

天下を手中に収めた。

 前二百二年、漢王は天子に上り都を長安に定め、漢の高祖と号した。

 そめ頃燕に、衛満と云う豪族がいた。

 衛満は朝鮮出兵の機運の高まりを眺め、漢の高祖が晩年を向かえるころ、前百九十五年、

箕子の居城、大同江の王

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険城に挙兵した。

 大同江は平安南道の東北を境に東白山、小白山を源として下流の諸支流を合流、黄海

に流れ込む四百三十九kmに及ぶ、朝鮮の大河川である。

 衛氏は箕子朝鮮を滅ばし、自立して朝鮮王となり、朝鮮の祖と云われ、大同江の北、

王険城に都した。

 衛氏の第三代は、中国前漢め武帝と対立が深まり、全く漢の命令に従わなくなった。

 前百八年、漢の武帝は、大同江流域北岸の王険城に向けて兵を発した。

 衛氏は伐ち滅ばされ、朝鮮北岸以降、漢の武帝の支配勢力下に収まった。

 武帝は大同江北岸以降に、楽浪郡、真番郡、臨頓郡、玄蒐郡の四群を設置した。

 やがて朝鮮半島の北部は漢の一部となり、漢の勢力は拡大した。

 楽浪郡は、現在の平安北道から京畿道に至る地域で、朝鮮半島の西部に位置し、平壌

が中心地である。

 この頃、燕に属していた倭人も、目まぐるしく変わる朝鮮の覇者の勢力の下に従い、遼東

を通じて楽浪郡の交流が深まったと思われる。

 百六十六年、宦官の横暴が極めて増大し、遂に党錮の嶽が勃発した。

 党錮の嶽とは、宦官を非難する著名士を次々捕らえ、終身禁固して仕進の道を閉ざした。

 百八十四年、霊帝の時、黄巾の賊が起こった。

 張角を首領とした河北の農民の反乱である。

 当時の記録によると反乱民は、十三万人に上ったと云う。

 全員黄巾を着け黄老を叫び太平道と称し、妖術で病を治し旬月[十ケ月]の間世間を願が

せたが、張角の病死により修まった。

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  又、宦官の横暴は、百八十九年袁紹が宦官を滅ばして修まったが、後漢の衰退は日

増しに悪化した。

 朝鮮北部を支配していた楽浪郡の力も、その影響を浮け弱まってきた。

 百九十六年、遼東、遼西の太守公孫度は、後漢の命を受け、楽浪郡を併有した。

 公孫度は倭国、朝鮮南部の交流が深まるにつれ、朝鮮南部の地に拠点を設ける必要に

せまられた。

 二百三年、公孫度の息子公孫康は、楽浪郡の都平壌と倭国邪馬壱国高千穂峰の東南

の直線の鉛直線今の京城に帯方郡を設置した。
 
 二百四年、帯方郡設置の野望を果たした公孫度は、息子公孫康に全てを委ね他界した。

 二百四年、同じ年、父公孫度死去に伴い、公孫康は、第二代当主の立場に立った。

 帯方郡設置のころ、倭国の限界の目標として帯方郡の正に東に国見山を設置した。

 場所は現在の福島県原町国見山、国見である。

 二百八年、後漢赤壁の戦いが始まった。

 赤壁は中国湖北省嘉魚県の西三十五kmの地点に有り、赤壁の戦は揚子江の左岸で

始まった。

 孫権、劉備連合軍と曹操軍の戦いである。

 孫権の部下周渝将軍、更に其の部下黄蓋の二名は、降伏と見せかけ敵船に近づき、魚

油を含んだ枯れ柴を船共々に火を放ち、部下の兵士達と別の小船に乗り移り逃げ帰った。

 冬の南風を計算したこの作戦は見事に的中して、曹操の船団や陣営に飛び火して、曹操

の大軍は大敗を喫っした。

 孫権は江南の大部分を手中に収め、劉備は巴蜀を得た。

 この戦いは天下三部の鼎立を決め、三国時代の始で有る。

 二百十六年、魏の曹操、魏王成る。

 二百十九年、遼東、遼西、朝鮮南北の盟主、公孫康死去、公孫康の弟、公孫恭、実子公

孫淵幼少の理由から第三代当主に立つ。

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 二百二十年、魏王死去、その子曹丕、後漢最後の皇帝献帝の禅譲を受け、魏の初代

皇帝に即位、文帝と称す。

 二百二十一年、魏の黄初二年、魏の文帝、公孫恭を、車騎将軍平郭侯に叙任す。

 二百二十六年、魏の・文帝薨去、第二代明帝即位す。

 二百二十八年、魏の太和二年、直系の公孫淵は、叔父第三代当主公孫恭より位を受け

継き、第四代当主となる。

 この年、呉の孫権は自立して呉帝と称す。

 江南の建業に都を造る。

 二百三十年、魏の太和四年、魏の明帝は遼東、朝鮮の盟主、公孫淵を車騎将軍に叙す。

 二百三十二年、呉帝孫権は公孫淵に幽州、と青州の二州及び十七郡百七十県の領地を

与え、燕王に叙す。

 この二心は、倭国女王卑弥呼にただならぬものを感じさせた。

 公孫淵の最初の叙任は、自立を認めない魏の圧力を含んだ物であり、後者の物は其の隙

を狙った叙任である。

 公孫淵は、魏を裏切って呉の国に迎合したとも取れる態度である。

 倭国と朝鮮半島の立場は、後漢、魏と政権の交代が為されたが、作為の後は見逃せないが

、正当な禅譲のもとが建前であり、魏に従うことこそ自国を守る最大の武器とも思える。

 しかし今、呉と結んだ公孫淵の行為は、果たして彼独自の志向或いは判断に基ずく物で

有ったかどうか。

 私の考えでは倭国と遼東方面、楽浪の関係は、調べれば調べるほど現代我々が思いつ

く以上に、複雑な深い関係、緊密性を漂わせている。

 それは倭国内の邪馬壱国と狗奴国の対立からも想像出来る。

 当時会稽東治と云われた揚子江河口と狗奴国の一部、現在の鹿児島県大隅半島佐多

岬迄の水行距離は僅か八百KMでしかない。

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 それと倭国と朝鮮半島南部の関係は、周辺諸国は同国と見做していると云っても過言

では無い。
 
 結論は倭国と朝鮮半島黄海側の行き来は何ら障害が無い。
 
 狗奴国の考え方は、遼東の付き合いや魏の朝献よりも隣国の大国、呉と身近に関係す

る方が遼東や魏の傘下に収まるよりも得策である。

 呉の大国が狗奴国を見逃すはずが無い。

 倭国を得ることは、朝鮮半島を得たも同じである。

 まして今、魏と呉の戦闘は日増しに激化して、呉にとって、遼東、遼西、燕は魏を挟撃す

る絶好の拠点になる。

 遼東半島一派を見過ごすことは、軍略、智略のうえで既に敗北を認めたことと同然である。

 魏も又、同様の観点の立場にあって、遼東関係を打ち捨てることは自らの敗北を招く。

 倭国、邪馬壱国連合の会議は、迷いに迷ったが狗奴国一国の為に連合の統一を乱す訳

にはいかない。

 狗奴国も耐え難きを耐え、倭国連合に従わざるを得なかった。

 狗奴国は、いつも思うように行かない女王卑弥呼に対して敵愾心を抱いたがおくびにも出

さぬ様に努めた。

 しかし邪馬壱国と狗奴国の関係は、事あるごとに対立を深め最悪の状態を保っていた。

 一方企孫淵は日毎に殊の圧力が増し、其の揺さふりに耐えられなくなっていた。

 公孫淵の頭の中は呉と連合を組み魏を挟撃し、遼東の安泰を図ることで一杯である。

 この状況下に有って、公孫淵は呉によって燕王に叙せられたのを受けたのである。

 二百三十三年、呉王、孫権は遼東に四軍の兵を送り届け、同時に間違いなく、呉の大将軍

に叙した証拠の品の数々を持たせた。

 呉の行動を傍受した邪馬壱国女王卑弥呼は、早速、燕王に上表文を送り時期尚早、機運

に達っせず旨を申し述ベた。

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 困った燕王は前言を改め、早速、再度魏王朝に帰順することにした。

 公孫淵に対する魏の圧力もさることながら、女王卑弥呼と魏の帯方郡太守の極秘の連携

に依る、明帝に伝えた報告が公孫淵の出端を挫いたとも言える。

 この報告は将来卑弥呼にとって、魏の大きな信任を得ることになる。

 公孫淵は、魏の明帝に対し忠誠を誓った証しとして、呉の一軍、即ち一万余の兵士と将軍

が到着すると悟られないように丁重にして、各地に分宿させ殺戮した。

 そして主だった武将の首級を、明帝に差し出した。

 呉王孫権は情報を耳にするや烈火の如く怒りを表し、報復の準備を命じたが諌められ、東

方の戦略を再び練り直す羽目に陥った。

 公孫淵の隣国、東に高句麗の独立国があった。

 孫権は更に其の地に手を伸ばし、東方の外交攻略の手を緩めることは無かった。

 二百三十三年、呉王朝は高句麗国の高句麗王を単千[ぜんう]に叙す。

 二百三十三年十二月、魏の青竜元年、公孫淵を大司馬楽浪公に叙す。

 二百三十四年、諸葛亮孔明、五丈原で魏と交戦中病死す。

 蜀漢の丞相、山東の人、劉備玄徳の三顧の礼に感謝し、臣事し蜀漢の建国に貢献した。

                           享年五十三歳、百八十一年生まれ。

 二百三十五年、諸葛亮の死去にともなって、魏軍の作戦に余裕が生じた。

 魏王朝は呉に対して全勢力を傾けることが出来る。


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 五丈原より引き上げた大将軍司馬懿仲達は長年に及ぶ蜀漢との戦いの武勲を称え、中国最

高官位、大尉、司走、司空の三公の一つ、大尉に叙せられた。

 魏王朝は諸葛亮と相対峠、互角の勝負を挑み一歩の引けもとらなかった司馬懿仲達が、軍

の頂点に立ち天下無敵を誇るに至った。

 二百三十六年、呉の援軍が乏しいことを知った高句麗は、魏の報復を恐れて、呉に叙された

単干の地位を返上し魏に従う旨、天子に上表した。

 二百三十七年、焦った呉帝は、密かに倭国連合の一つ狗奴国を介在して再び公孫淵に

接近した。

 魏に対する不信は公孫淵自身払拭することが出来ず、しかし今更呉にくら替えするわけ

にもいかず、悩み抜いている矢先、それを知った魏の攻撃が突然湧いた。

 公孫淵は、自軍数万と倭朝連合軍数万を酷使して魏軍数万を撃破した。

 公孫淵の自立は、この時を以て決意された。

 年号を紹漢元年と改め、この時呉に援軍を依頼したが果たせず、再び魏に上表文を送り離

反の意志がないことを申し述べた。

 倭朝連合軍は、公孫淵の意志の無い優柔不断な態度に業を煮やしたが、軽率な行動は

慎む様にした。

 公孫淵、自立して燕王と称す。

 二百三十八年、魏の景初二年一月、魏の明帝は、大将軍大尉司馬懿仲達にたいし、遼

東の攻撃を命令した。

 大尉司馬懿は、四軍の兵を率いて遼東に出撃した。

 六月の戦場は泥土と化し、壮絶な戦いが今開始されようとしている。

 その時、倭朝連合軍数万の兵に引き上げ命令の合図が発せられた。


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 引き上げの合図は、公孫淵の敗北と遼陽城の落城を意味した。

 この場面の魏が倭に対する対応は、三国志の著者陳寿承祚によって、魏志倭人伝の中に

詳しく書かれている。

 景初二年六月倭国女王卑弥呼は大夫難升米[たいふなんしょうまい]等を帯方郡に詣で

させた。

 帯方郡太守に対して天子に朝献したい旨、申し出た。

 帯方郡太守劉夏は、役人と軍隊を同行させ、汝の遣使を洛陽の都に案内した。
 
 二百三十八年、景初二年十二月、魏の明帝は、詔書を報じて倭国女王に宣う。

 親魏倭王卑弥呼[しんぎわおうひみこ]に任命する。

 帯方郡太守劉夏は、使いを遭わし、汝の大夫難升米[なんしょうめ]と次使都市牛利[とし

ごり]を送って来た。

 汝の部下は、汝が献上した男子生口四人、女子生口六人、班布二匹二丈を持参した。

 汝の所在は踰遠にも拘らず、即、使いを遭わし貢献した。

 此れは汝が、私に対する忠孝の表れで有ることを認める。

 私は汝を甚哀に感じている

 今汝を以て、親魏倭王と為す。

 金印と紫綬を仮し、装封し帯方郡太守に付し汝に仮授す。

 汝の倭人を安定させ、努めて魏に孝順するよう努力せよ。

 汝の使いでやってきた難升米と都市牛利は、労を努めて、速い道路を渉ってきた。
 
 今、難升米を卒善中郎将、都市を卒善校尉と為す。

 今、絳地交龍錦[こんちこうりゅうきん]五匹、絳地絨粟[こんちじゅうぞく]、ケイ十張、

菁絳五十匹、紺青五十匹を以て汝の貢ぎ物に返礼す。

 又、特別、汝に紺地句文錦三匹、細班華ケイ五張、白絹五十匹、金八両、五尺刀二

口、銅鏡百枚、真珠、鉛丹各五十斤を賜う。

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 以上の品々は全て包装を施し難升米、都市に持ち帰らせ帰り至らば目録と照合して

汝が受け取れば良い。

 悉く汝を以て国中の人に、魏国より拝領したる品々と示すがよい。

 魏は、倭国の人々を忘れてはいないということを、良く知らしめる為にこの品々を利

用せよ。

 故に汝等の好物を、鄭重に賜る物なり。

 以上であるが、此れほど相手を思いやり、解放し守ってくれる言葉が有るで有ろうか。

 明帝本人も余程嬉しかったに違いない。

 二百三十八年八月、この戦いは、遼東の公孫淵の居城、遼陽城の落城と共に一挙に

終結した。

 卑弥呼が参戦するかしないか去年の面影は露ほどもなく、実戦僅か二力月余の戦い

であった。

 一族、閣僚、官僚全て惨殺された。

 公孫淵父子は、城外の戦場で捕らえられ露と消えた。

 百八十四年、黄巾の賊、暴徒鎮圧以来二百三十八年八月の四十四年間、公孫氏古朝

鮮支配はここに終わった。
 

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