邪馬壹國 4高千穂、津留の国見山
    都城の邪馬壹國
                                      著者  国見海斗 [東口 雅博] 


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 宮崎県夜神楽の本場高千穂町、この町から河内という小さな町を通り、大分県竹田市

に抜ける途中津留という山村がある。

 随分経つが五、六年前の冬二月頃、阿蘇外輪山の雄大さに見ほれながらもう一息で

津留というとき、山の中腹で木枯らしが突然大雪と変った。

 昨夜から降り続いていた雪も上がり青空が広がり安心していたが、見る見る暗雲が漂い、

車は雪で埋まった。

 早く此処を抜け出して津留まで行かねば、人影のない上り坂だしまして山中である。

 車がスリップ等して止まったら、困ったことになると思うと不安が走った。

 案の定中腹でスピードが落ち、アクセルの踏み込みが後輪に伝わるだけで空転が始まった。
 
 最早、後の後悔前に立たず、予期した羽目に陥った。
 
 車は急な上り方向に向いていたため、そのままずるずる後退し始めた。

 右は山裾で安心だが、左は断崖絶壁だ。

 車は充分対向出来るスペースがある。

 しかし恐怖の気持ちは変わらない。
 
 落ち着いてと言い聞かせエンジンを切らず、チェンジはドライブのままフットブレーキに足を

掛け、車は見る見る積もる雪と凍てつく道路に任せた。

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 車が、少しでも山側に寄って行く様にハンドルを合わせ、静かに滑り落ちる様努力した。

 兎に角、車を早く止めたいので、運転席のドアを少し開いて道路と山裾の距離を確認した。

 そして思うような態勢に持ち込もうと色々頭を巡らした。

 その時、咄嗟に助手席に脱いでいた防寒着を、前輪の右側に差し込んだ。

 やっとの思いで車が止まった。

 この状態では何かの弾みで谷底に滑り落ちぬとも限眼らないから、ロックしないよう気を

付けてエンジンを切り山際に手で移動して平行に車を止めた。

 時計を見ると昼の一時を過ぎていた。

 もう明るいうちに、竹田市に着くのは無理だと思った。

 これからチェーンの手配をしなければならないし、先ず引っ張り上げてくれる車を待たな

ければならない。

 何時、滑り落ちるかも知れない車の車輪に、石等拾って差込んだ。

 そして車が来るのを待ち侘びた。

 雪は止みそうも無くこんこんと降りつづき、今迄張り詰めていた気力は安心のためか寒さ

がじわっとにじり寄って釆た。
 
 一時間位の間に車が一台上がって釆たが、「私の車では引っ張りきれないよ」と云いな

がら横を擦り抜けた。

 三十分ほどして又来たが、同じようなことを云って行っしまった。

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  貴重な二台だったが、少し粘ればよかったと思った。

 それから暫くして地元建設会社の小型トラックがやってきた。
 
 気落ちしていた私は、真剣な顔で懇願した。

 彼は車を牽くロープが無いと断り、何か急いでいる様子だった。

 その時ふと今迄きづかなかったが、谷側の方に目をやると杭が二本打ち込まれ、杭と杭

の間にチェーンが二重に張られて、其の一つは予備に置いてあるものらしい。

 暫くそれを拝借することにした。

 地元の運転手さんも快く引き受けて「やって見ましょう」と牽引を手伝った。

 その時の気持ちは、今も忘れることが出来ない。

 やっとの思いで津留の町にたどり着くことが出来た。

 早速チェーンを売っている店はどこか、誰かに聞こうと思い辺りを見回していると、津留

タクシーの乗降場が目に入った。
 
 タクシー置き場の隅に邪魔にならないよう車を止めて、事務所を兼ねた待合室に入った。

 留守番をしている人が一人いて「済みません。車のチェーン売っている店御存じ有りま

せんか。」と尋ねた。

 簡単に答えられて、「向かいの修理工場へ行きなさい」と云われた。

 待合所前の道路を挟んで、前が自動車修理工場である。

 たまたま雪のためシャッターが降り、休みを思わせ気付かなかった。

 しかし兎も角云われたとうり入って見ると、シャッターの潜り戸の前に何か書いてある。

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  呼んで見ると外出中として「四時過に帰って釆ます。」と書いてある。

 未だ四、五十分あるので、又タクシー会社に戻った。

 「暫くここで待たせて下さい。」とお願いすると、「どうぞ」と云われたので甘えることに

した。

 彼は「この雪の中、チェーンなしでよく山を越しましたね。どこからきましたか。」と話掛

けて来た。

 朝都城を発って、つい先程山中の坂道で遭遇した経験を話した。

 すると彼が言うには、「それは私が所有している国見山の側の道路ですよ。」と即座

に答えた。

 私は国見山と聞いて唖然とした。

 何故なら私は九州の国見山を古代の道しるべと考えて、其の係わりを調査している

からである。

 因みに色々質問を投げかけてくる人は、津留タクシーの社長である。

 私は国見山の打ち合わせで竹田市に行く途中ですよと話したら、彼は国見山に纏わる

古代に興味を示し魏志倭人伝にも話が及んだ。

 私の実家は奈良県桜井市である。父は明治四十年生まれで高齢のため一人にして置

く訳に行かず、奈良を引き払わせ都城に連れて来た。

 私は奈良と関係が深く、又宮崎県の高千穂峰を直接手で触れたいと云う一念から、都

城に居を移した。

 「それは宮崎と奈良の古代史を知りたい願望と、又九州にある国見山岳を知りたかった

からである。

 特に都城から見る高千穂峰は、他の地域にある山岳と違い、例えば富士の秀麗さと違っ

て一種独特な雰囲気を

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 見山について教えてくれと云われるので、かい摘まんで話すことにした。

 「奈良の国見山と出会って十数年経つ。事あるごとに歴史関係者や知識有る方々と話し

合って来たが、余りに直線が整然としているため、偶然だろうといつも一蹴され、仮に納

得されても其の目的を問われると、私は答え様も無く、唯不思議だというしか今のところない。

又、書物化すると云っても地図の上に線を引くだけで誰でも確認出来るため、それ程仰々

しくする必要性も感じない。九州の国見山を調べる場合、幾種類かの地図を用意して、重ね

合わせる様に探って行くと二十四山あることに気が付く。だけど都留のように地図に乗らな

い国見山が数山有るのは間違いない。或いは名前の呼び方が、変わった山も有るはずだ。

又、古代、国見山と発音したかどうかも知る由もない。しかしこの時代、大変重要な山だっ

たので、特別暗号のような呼称が国見山だけに、与えられていた可能性はある。

 或る時期一律に、突然の布令が有り、国見山として統一されたようにも見受けられる。

 又国見山として機能をもった場合、諸王以上の人が役所に申し出て、初めて公的に決定

されたようにも見える。

 大分県の国東半島は、もしかすると邪馬壱国、女王国の境界の尽きるところと解釈出来る

が、国東半島に国見と云う町がある。本来国見山の麓には、国見の村や町があるのが普通

だが、この町には国見山がない。

 私は国見町役場で、金庫の中に仕舞ってある重要な国見町の地名の由来の文献を見せ

て戴いたことがある。

 それは豊後風土記の壱部か、多分景行記の壱節だったと思う。

 景行天皇がこの地に行幸されたとき、[この地は、国を見るのに最適である]と云われたこ

とが書かれていた。

 豊後風土記は古風土記と云われ、壱巻で出来ている。

 七百拾参年の詔によって、豊後の国の地誌を記した書、今、その八郡の残簡を存している。

 今からおよそ一千三百年前、国見と云う言葉が使われていたことになる。


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  国先半島の国見町が実際、国を見るめに、最適地であったかどうか甚だ疑問ではあるが。

 国を見るということは、自分の国を見ることであり、しかるべき高い山から国を見るのなら一

望出来るが、平地から海をみるなら、海を見るのに最適であると、云われた方が、はっきり

したと思われる。

 国見山にしてもそうだが、いちがいに高い山だけをを対象に選出していない。

 一千三百m級を国見山としているかと思えば、三、四百mの山を国見山としている場合も

有る。

 しかも山の麓に国らしきものも出来ない深山も有れば、名山から見れば不甲斐ない山が選

ばれて、国見山を拝命しているばあいも有る。

 長崎県島原半島に普賢岳と云う活火山が有る。其の西四、五百mに国見岳が有り殆ど普

賢岳と重なっている。

 高さは普賢岳が一千三百三十九m、国見岳が千三百四十七m、少し八m位国見岳の方

が高い。

 国見岳の山裾が国見町で有る。地図によっては普賢岳千三百五十九mと書いているもの

も有る。

 この場合この地域を総称して雲仙普賢岳と云う。雲仙国見岳とは云わない。

 国見岳は忘れ去られた過去の山である。

 五、六年前になるが島原半島国見町の町役場を訪問し、教育長等と国見山について話あ

ったことが有る。

 其の前日の夜のこと、たまたま長崎県教育委員会の人と同じホテルに泊まり合わせたもの

だから、国見山の不思議さについて色々話して上げた。

 すると県の人も、実は古道と遺跡の発掘が明日から始まり、既に古道と遺跡の一部は発見

していると云う。

 実はこの国見岳こそ、弥生時代の魏志倭人伝を圧巻する場所で有る。

 さて、魏志倭人伝の一節に[一女子を共立し王と成す。名を卑弥呼と云う。鬼道に事えよく

衆を惑わす。]と云う文が有る。

 又、梁の時代、沈約が著した中国の国書、宗書の中に、倭王武が中国の天子に送った上

表文が有る。

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  上表文の一説に、次のようなことが書かれている。
 
 [臣下で有る私はいたって愚か者ですが、忝なくも祖先の偉業を受け継ぎ、馬を駆って統

一した国々を率い、自然の大道に帰し、これを崇めています。]

 実は国見山はこの二つの文の中に有る、鬼道とか自然の大道の中に組み込まれた山

である。

 しかし長年つずいたこの仕来りも、次の布令によって実行するものは罪人になる法律が

発布された。
 
 [天武八年六七九年一月七日、正月の節とは云え、諸王諸臣及び百寮は兄姉より以上

の親及び己の氏長を除いて、それ以外、拝してはならない。

 諸王は母と雖も王の姓でなければ拝してはならない。

 諸王は又卑母を拝してはならない。

 正月が過ぎても同じ事である。

 若し布令に反すると重罪に処す。

 この天武令によって良き時代、悪しき時代すべてが消えて、天武、持続の黎明が到来

するのである。

 臣太安万侶は古事記の編纂にあたり、古事記に後世重大な影響を与えぬよう配慮し、

都から速く離れた過去の天孫降臨の地を舞台に、万世一系の皇統を事実や事実でない

ことを踏まえ、登場人物は作為的に過去を造った。

 場所は地名を残し、現代でも名を留めているものも有れば掻き消された処も有る。

 国見山が消えたのも上の例えに漏れない。

 全ての過去が消え、記紀の成立を見た。

 過去の文物、伝統文化は記紀に消え目で見る遺跡は何も語らない。

 僅かに中国の史書に残存を認める。 


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  広辞苑、大辞泉、国語大辞典等、字引には[国見山]の説明は無く、[国見]に付いて

書かれている。

 国の形勢を高所から望み見ること、もと農耕儀礼、「天の家久山登り立ち国見をすれば」、

国の形勢を見るのは天皇である等解釈があり、国見山自体から国を見たということでは無

く、自分の国が一望出来る程度の高い山に登って国見をするという意味になる。

 国の形勢を見るのは天皇であるとすると、当然、奈良県と云うことになり位置も限定され

、諸所に散らばってある国見山の解釈と自ずから意を異にする。

 私の国見山は、本質は同じだが時代とともに使われる目的が宮崎、奈良と次第に変化

している。

 九州全体では、広大な道路綱の目印から古墳、神社、遺跡、と王権の範囲から神社宮

司の範囲迄広がり次第に奈良飛鳥え整備され、移行している。

 本来国見山は、卑弥呼以来王族の祖先を祭る権力の象徴古墳群、神社、遺跡、古城、

古道に結び付いている。
 
 現在九州に国見山は二十四山地図上にあるが、福岡県には一つ有るだけで、それも中

心部より離れた大分県側に近い処に有る。

 広大な福岡県にしては物足りないが、奈良遷都後の福岡は、国見を離れて異様な験さ

を感じる。

 現在の福岡市内真南、直線距離約三十kmに吉野ケ里が有る。

 およそ二千年前、福岡市内は海進の為海に埋没していたと云う。

 例え海の深さが一cmであろうと、当時の技術力では海の上の国、海上都市の開発は

不可能である。

 推測だが、始め吉野ケ里があり次第に海進が終わりを告げるころ、吉野ケ里の勢力も海

浜に移動して、現在の福岡の原型が出来上がって行った様に思える。

 吉野ケ里から福岡一帯を鳥奴国と比定する。

 吉野ケ里には近辺に国見山を控え、吉野ヶ里遺跡が直接関与している重要な国見山の

直線の科学もある。


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  福岡は国見山の係わりが見当たらず、それは言うまでもなく福岡の町が新しいと云う

明らかな証拠である。
 
古代の人々は真南を好む。

 佐賀県東松蒲半島、豊臣秀吉の名護屋城城下町は鎮西で有る。

 鎮西を真南に進見、玄海、伊万里、有田、を越え大村湾を渡ると長碕に至る。

 これらの直線が未れ夫れ町の中心地点を貫通しているのは当然である。

鹿児島県肝属郡吾平町、この吾平町に神武天皇の父君、鳥鷲草茸不合尊[うがやふきあ

えずのみこと]をお祀りした吾平山丘陵が有る。

 此処は宮内庁管轄に成っていて一般参詣も制限が有る。

 参道や石橋の雰囲気は全く伊勢神宮を思わせる。

 ご神体を祀る建物は、自然の岩山の岩窟で有る。

 実は岩窟のご神体、真っすぐ北を向いて高千穂の峰を指している。

 高千穂の峰山頂一五七四を真南に直線を発すると都城、財部、末吉、輝北、大崎を過

ぎて鹿屋の古道,東共心に至り、更に南に古道を貫通、辰喰、十三塚、串良、肝属川を

渡り高山町宮下に出て吾平山丘陵御神体に至る。

 吾平山丘陵の東は、高山町と内之蒲町の町境である。

 この町境に国見山八八七が存している。

 国見山八八七を発した直線は、鹿屋市内の笠野原に突入し、高隈山地の御嶽一一八

二を通過、更に延長すると桜島御嶽一一一七の頂上を越え、対馬海峡を渡り韓国光州

の長城に至る。
 
 宮崎県西臼杵郡大崩山一六四三を出発した西北の直線は祖母山一七五六の頂上を

越え阿蘇神社神殿を通過、国見山一〇一八の頂点に至り、吉野ヶ里遺跡中央部を抜

けて、浮岳に達する、浮岳を再び飛び立った西北の直線は対馬海峡を渡り韓国光州の

長城に至る。

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 以上のように国見と国見山の働きは、全く違った性格を持つ。

 国見は天皇を中心に国を見る位置、場所を決め、五穀豊饒、新嘗、神官等、初穂の行

事を取り行った。

 国見山は幾つもある国もあれば、無い国もある。

 又、低い山も有れば、高い山も有る。

 便利な場所も有れば、深山幽谷も有る、といった具合にバラバラである。

 国見山は国を見る山でもなければ、拝する山でも無い。

 この山の始まりは、駅の始まりで有ると思う。

 次第に時代を経ながら、先祖その他の方向を見るため、或いは直線の修正を確認するた

めの山で有る。

 国見山を利用して、距離が長ければ長いほど権威を表し、短くても安心感を与えた直線の

山である。」

 以上のような国見山について話をしている最中、県道前の工場のシャッターが開くのが見

えた。

 前述した通り国見山の持ち主は、津留タクシーの社長で有るが、社長は尚私の話を聞かせ

てほしいと云われたが、再会を楽しみに別れを告げた。

 後日都城に帰り、地図中に津留の国見山が存するか否か調べたが見当たらなかった。

 しかし不思議な直線が一本津留の国見山と思しきところを貫通しているのが見える。

 直線はJR高鍋駅の北側を発し、都農町の尾鈴山山頂を通過する。

 直線を延ばすと諸潔村の高隈山九五七の頂上を見て、熊本県阿蘇郡高森町の国見山津留


に至るが、途中蘇陽町都留の上空も通過する。

 この町の国見山が地図上で確認できれば、詳しいことが解るが、凡その見当しか掴めな

いのは残念で有る。

 はっきりとしたことは言えぬが、高隈山と尾鈴山を経由している限り、国見山を通過して

いると考えられる。

 このような未知の開発されちない直線の下には、将来、埋設されている文化財が発掘さ

れる場合が多い。

 私は津留の国見山に出会って危険な目にも有ったが、今は良き思い出である。


                           [此の項終わり」
 

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