邪馬壹國 3 古代中国
    都城の邪馬壹國
                                      著者  国見海斗 [東口 雅博] 


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  魏志倭人伝を読む限り、最小の中国文化と歴史について知っておく必要がある。

 例えば、夏王朝から始まって、次が殷王朝、其の次が周王朝という位の事である。

 それに支那、中国の文化や歴史は漢人が産み、近隣諸国に多大な影響を与えた。

 中国文化の発祥は黄河流域から始まり、次第に領土を拡大しながら揚子江方面に

発展した。

 その間、文字、船、医薬が開発された。

 紀元前一千百二十二年、周の武王は殷の紂王を滅ばし、鏑京[こうけい]に都した。

 武王は封建を設け、戦功のあった一族や功臣に土地と諸侯の地位を授けた。

 更に朝廷の官制を整え、政治の総理を家宰[ちょうさい]、民政を大司徒、軍政を大司馬、

司法を大司冠、土木を大司空とし、最高責任者を朝廷に置いた。

 諸侯の領地の広さにより、企爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵の順位を与えた。

 農家に用地を分配し、田制を設けた。

 用地を囲の字型に区画し、囲の中央の一区画を納税の義務とした。

 後の八区画は農家個人の所得とする。

 この方法は古代倭国でも行われた。

 農家に徴兵制を義務ずけた。

 戦争が起こると招集され兵隊になり、終わると農家に戻った。

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 所謂兵農一致の政策を施した。

 武器は、軍馬、兵車、刀、槍、弓矢を主力とした。

 貨幣が流通し、農具型、刀型が有名である。

 学校が開設され、教育内容は、礼[秩序を守る]、楽[人の気持ちを和らげる]、

射[弓術]、御[馬術]、書[読書]、数[数を数える棒を利用する学問]、の六芸である。

 周代は文字も発達した。

 形は今と違い、竹片、木札に文字を刻んだ。

 武王、成王、康王の三代、約七、八十年は安泰だった。

 此れを周の強盛と云う。

 前七百七十年、周の経国より三百五十有余年、平王は犬戎の難[けんじゅうのなん]

を恐れ都を東方の洛邑[らくゆう]に遷都した。

洛邑は後世の洛陽である。

 これを周の東遷[しゅうのとうせん]と云う。

 十一代宣王のとき、四方の蛮族が攻め込んだ。

 宣王の子、十二代幽王は、犬戎と云う西方の小夷[しょうい」に殺された。

 諸王は十三代平王をたて戦ったが、平王は犬戎の難を恐れ洛邑に遷都したのである。

 前七百七十年から四百五十三年、約三百十余年間を春秋の世と云う。

 この時代、醜い諸侯が次々現れ、周王政を補佐した。

 強い諸侯は諸侯の長となり、四方の蛮夷を防ぎ周王政の安全を図った。

 諸侯の長を覇者[はしゃ]という。

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  齋の桓公、晋の文公、楚の荘王、呉王夫差[ごおう、ふさ]、越王句桟[えつおう、

くせん]の五人を五覇[ごは]と云う。

 齋の桓公は管中の才を用い最初の覇者となったが、南方の楚の荘王に敗れた。

 前六百三十二年、桓公の死後、楚は晋の文公と戦って城濮[じょうぼく]で敗れた。

 前六百六十七年、楚は再び晋を破り一時諸侯を従えたが、どの国が強い国とは言

えぬ状態だった。

 呉は楚と戦いながら越とも戦った。

呉王夫差は越王句践を会稽山[かいけいざん]で破り諸侯を従えたが、越は呉と戦って

再び呉王夫差を破り強国になった。

 前四百六十五年、句躁が死ぬと越は衰退し、その後諸侯の長、覇者はいなくなった。

 前四百五十三年から前二百二十一年、二百三十二年間を戦国の世と云う。

 周囲は衰え小諸侯はほとんど滅びた。

 秦[しん]楚[そ]燕[えん]の旧三国と齋[せい]趙[しょう]魏[ぎ]韓[かん]の新四国

が周の中心と成り、激しく争った。

 この七国を戦国の七雄と云う。

 秦国は函谷関[かんこくかん]を門戸とし、西方から他国が攻め入ることは不可能だった。

 戦国の世の初め、秦国に孝公という人がいた。

 孝公は商鞅[しょうおう]の策で力を得、他の六国を圧した。

 此れに対し蘇、秦は合従[ごうじゅう]の策で同盟を作り、六国が力を合わせ秦を攻めよ

うと提案した。

 蘇、秦の友人張儀は連衡[れんこう]の計を立て、六国共、秦国に仕えた方がいいと言い

出した。


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  こんな話をしている間に、秦は土地を増やし資金を蓄え六国の形勢を窺った。

この時、燕と粛の戦いが始まった。

 秦はこの二国が戦い疲れるのを待って、漸く兵を東方に進めた。

 前二百五十六年、秦の孝公は、周最後の皇帝、報王[たんおう]を捕らえて周を滅ばした。

 秦王政は李斯[りそ]の策を用いて六国の君臣を速く離し、連携の取れぬようにして、

此れらの国を政治追放した。

 秦王政は十年掛かって六国を滅ばした。

 前二百二十一年、中国一統を成した秦王政は、秦の始皇帝と名乗った。

 秦の始皇帝は中国一統を為し、黄河、揚子江の両大河を越え、領土を大きく占有した。

 話は前に戻るが、春秋の世の終わり頃、魯[ろ]の国に孔子、名を丘[きゅう]という偉人

が現れた。

 孔子は諸侯に修身治国[しゆうしんちこく]の道を説き、世の乱れを救済しようとしたが、こ

の説は受け入れられず第一線から身を引いて弟子を育て、前四百七十九年、七十四歳

で没した。

 戦国の世、孔子の弟子、孟子[もうし]筍子「じゅんし]が世に現れ、後世の儒学[じゅがく

]を確立、中国の政治、教育の基礎とした。

 この時期、列子、荘子は世事に心を悩ます事なく、白然の運行に任せるべきと唱えた。

 其の主旨は、老子に基ずき老荘の学という。

 儒教と並び、中国思想の一要素を為す。

 此れに並び後に、道教[どうきょう]が起こった。

戦国の世で実用として取り上げられた学説は、揚子[ようし]の利己の説と墨子[ばくし]の

極端な博愛主義の説で、共に乱世に応じた道を講じている。

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  他に、法家として、商鞅[しょうおう]韓非[かんぴ]は法令で国を治める術を説いた。

 縦横家は[じゅうおうか]列国を統一する計を論じた。

 孫子[そんし]呉子[ごし]は兵家として軍隊運用の法を極め、それを説いた。

 さて、秦の一統を成し遂げた始皇帝の政治は李斯の言を用い、周代の封建を改め全国を

郡県に分割した。

 全ての国を始皇帝の直轄としたのである。

 更に民間の武器を回収し、或いは財閥や富豪を国都咸陽[こくとかんよう]に起居させ、

反乱の基を防止し 又、国中を巡幸し天子の尊さを教え、政治の論評する人物を殺した。

 民間の書籍を所持する者、或いは発行する書籍は全て焼却させた。

 中国、支那の北方に匈奴[きゅうど]と云う民族がいた。

 騎馬に長じて戦争を好み、戦国の世のころ度々、中国本土を侵害した。

 始皇帝は匈奴の攻撃に手を焼いたが、将軍蒙括[しょうぐんもうてん]に命令を下し討伐

させた。

 旬奴の侵入を防ぐため、万里の長城[ばんりのちょうじょう]を構築した。

 南方に領土を広げ、阿房宮を始め数百の宮殿を造営して豪奢を極め、外征と土木工事の

為人々を亡くした。

 金の出費も夥しく、国民の負担が重なった。

 始皇帝が崩じ、第二代二世皇帝が立ち、宦官趙高[かんがんしょうこう]が秦の政治家李

斯[りそ]を殺し、暴政を奮った。

 それが発端となり諸地方に謀反者が起ち、中でも項羽[こおう]は江東に、劉邦[りゅうほ

う]は沛[はい]に兵を塞丁げた。

 項羽と劉邦は連合を組み、秦の軍隊を打ち殺した。

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  劉邦は先陣を切り咸陽を攻略し、秦王子嬰[しんおうしえい]を殺害した。

 前二百六年、秦は滅びた。
 劉邦に先を越された項羽は西に進み、鴻門[こうもん]の陣中で臣下の范増[はんぞう]

に劉邦を殺せと進められたが、殺すに至らず、咸陽を去り、彭城[こじょう」に帰り着いた。

 その時項羽は、西楚の覇王[せいそのはおう]と号した。

 諸将に土地を分け与え共に戦い今は良い感情を持たぬ劉邦には、漢中の僻地[かんちゅ

うのへきち]を与えた。

 明らかに劉邦を封じ込める作戦である。

 劉邦は漢王と号した。

 漢王は怒りを堪え、国力を養った。

 機が熟すを見計らって、東方に出兵し楚と戦ったが、戦況思わしくなく敗れ去り、漠中に

逃れた。

 四年後、臣下の張良、蕭荷[しょうか」韓信[かんしん]の力を借りて項羽を垓下[がいか]

に破り、逃げる項羽を追撃し首を刎ねた。

 前二百二年、親王は長安に都を造り、名を漢の高祖[こうそ]と改め、皇帝の位に就いた。

 高祖は平民かち起ち、天子に上った。

 高祖の政策は一族功臣に土地を分配し、其の土地の王と成した。

 同時に直轄の郡県を置き、次に高祖一族以外の諸王を殺し、一族子弟をこの諸王に代えて

、後の患いを除いた。

 帝の死後、皇后呂氏の権力が強く、皇后の死後、一族は反乱を繰り返した。

 以後、同族諸王の専横は、増々増長した。

 第三代の文帝は仁君だったが、諸王の勢力を抑えるには至らなかった。

 文帝の子景帝の時、諸王の封国[ふうこく]を削る事に成功した。


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  呉、楚は恨んで反乱を起こしたが、帝はこれを平定しこの機会に諸王を国都長安に留めた。

 封国は朝廷より人を派遣して、諸国を治めた。

 景帝の子、武帝も諸王の勢力を削り、封国を名ばかりと成した。

 諸王の勢力は、直轄の郡県と変わらぬ様相を呈するに至った。

 加えて文帝以来の倹約に依り、朝廷の財政は豊かになった。

 武帝は国家財政の豊かさに乗じて国家統一を完成し、英知を発揮した。

 孔子の死後、三百年を経過したが、武帝は董仲舒[とうちゅうじょ]の勧めに従い、儒教思想

に基ずく政治教育を標準とした。

 漠代の五経、詩、書、易、儀礼、春秋の教育を深めるため五経博士を置き、儒学が盛んにな

った。

 武帝は国外にも勢力の発展を試みた。

 この頃倭国にも重大な影響を与えた。

 武帝は、古朝鮮北部を手中に収めた。

 古朝鮮北部の始めは、殷の王族箕子[きし]が朝鮮王となり、大同江の北岸に王険城を設けた。

 子孫が代々君臨し漢代になり燕の豪族衛満[えいまん]が箕子一族を滅ばし、朝鮮北部を奪い

朝鮮王と成った。

 衛満の孫の代は、漢の命令に従わず、武帝は兵を出し滅ばした。

 武帝は朝鮮北部に真番[しんばん]楽浪[らくろう]臨屯[りんとん]玄菟[げんと]の四郡を設け

漢の一部とした。

 秦が乱れ漢が国を起こすころ、再び漢は匈奴に攻撃された。

 匈奴に冒頓単干[ばうとんぜんう]と云う王がいた。
 
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 東の東胡とうこ]を撃ち、西の月氏[げっし]を破り漢を脅かした。

高祖は匈奴を征服するため派兵したが、反って、て返り討ちに遭い、匈奴の侵略は止ま

らなかった。

武帝は漢の名将衛青、霍去病[かっきょへい]等名将を派遣し、死力を尽くし匈奴を漢北

に追いやった。

当時、漢の西方の諸国を総称して西域[せいいき]といった。

西域の中央アジアに大月氏と云う民族がいた。

中国の西北境に住居していたが、匈奴に破れ西方に逃れた。

武帝は大月氏と組み匈奴を挟撃することを決意し、張騫[ちょうけん]を遣わしたが大月氏

は応じ無かった。

しかしこの頃に至り、西域の形勢がよく分かり、漢と西域の交通交流が開かれ、交易

が始まった。

更に武帝は秦国最後の乱れに乗じ独立した、南越の内乱を平定し其の地を占領した。

又、西南夷に居た蛮族を服従し、漢の勢力を拡大した。

武帝は頻繁に遠征を行い、晩年には長命不死を願った。

大願成就の為、無益の祭祀を行い、蓄積した財力を消費した。

あらゆる手段を施し、塩、酒、鉄器の専売を始め、国民の財を絞り上げた。

晩年のころ、武帝自ら悔い改めて、専ら国民の安全と財産に心を費やした。

霍光[かっこう]と云う政治家は、昭帝、宣帝二代十九年に亙り良く仕え、平安国家を治めた。

宣帝も賢明で、深く心を民政に注いだ。

宣帝は武帝の意志を継ぎ、西域の大国鳥孫[うそん]と協力し匈奴を苦しめた。

又西域都護[せいいきとご]を置き、太守鄭吉[ていきち]を任命した。

鄭吉は西域三十余国を治め、国威が落ちぬよう懸命に努力した。

しかしその後の諸帝は宦官[かんがん]に惑わされ、或は外戚に圧力を掛けられ、政治の

綱領は全く緩んでしまった。

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 外戚の一族に王莽[おうもう]と云う、天下を狙う人物がいた。

西暦八年、王莽は帝位を奪い、国を新と改め政治制度を改革した。

重税を課し、早くも反乱を招いた。
漢の景帝の遠孫に当たる劉秀[りゅうしゅう]は、王莽の大軍を混陽に打ち破り、王莽は乱

兵に殺された。

新は十五年で滅び去た。

二十五年、劉秀は帝位に即き漢室を再興し、洛陽に都を設けた。

劉秀は名を改め光武帝と云う。

光武帝は国内の平定を図り、玉門関の外にある西域には干渉せず,内政に力を注ぎ教化

を盛大にする様努めた。

二代明帝、三代章帝は、良く業を雑ぎ治平が続いた。

インド仏教が、中国に伝わったのはこの頃である。

王莽の時代、匈奴、西域の両国は王莽に対抗し始めた。

八十九年、後漢和帝の時、臣竇憲[とうけん]は匈奴を撃破し勢いを挫いた。

更にこの力を借りて、再び西域に進出した。

班超[はんちょう]を西域都護に任じ,三十一年間,西域に駐留した。

班超は、漢の威力を西域に知らしめた。

班超は遠い西国、大秦に甘英[かんえい]を派達した。

大秦とは,羅馬帝国、即ちローマ帝国、ローマである。

ローマは昔から中国の絹を珍重し交通を望んだが途中、ペルシャに妨害され行き来すること

が出来なかった。


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  甘英もペルシャの西界に達したが、ローマに到達することが出来ず、敢え無く本国に

帰った。

 百六十六年、桓帝の時、ローマ王アントンは南方の海路より中国に使者を送り込んだ。

 此のときからローマの商人は、時々中国にやって釆た。

 光武帝より和帝に至る間、国内は平和が続き匈奴、西域共、中国に服属した。

 しかし和帝似後、六代の諸帝は幼弱で外戚、宦宮の双方は権勢を交えて争った。

 同じ百六十六年党錮の獄を起こし、宦宮を非難する諸名士を捕らえ、ますます憚ることが

無かった。

 霊帝の時、黄巾の賊が国中を騒がせた。

 宦官は袁紹に滅ばされた。

董卓[とうたく]は献帝を立て暴力的政治に臨み、国中騒然となり、群雄並びたった。

 群雄の中で、曹操が勇気と知略に優れていた。

 董卓を打ち破り、献帝を迎え入れた。

黄河南北の地を平定し、勢力を伸ばした。

群雄の中の一人、漢の景帝の後裔劉備玄徳[りゅうびげんとく]は、諸葛亮孔明[しょかつ

りょこうめい]と云う賢者を得て其の勧めに従い、江東の孫権と同盟を結び曹操に戦いを

挑んだ。

二百八年、同盟を結んだ劉備玄徳と孫権は、曹操の大軍を打ち破った。

此の戦いを赤壁の戦いという。

現在の湖北の西北で揚子江に臨む山川である。

劉備は巴蜀漢中[はしょくかんちゅう]に拠点を置き、曹操は江北を領有し、孫権は江東に

領土を得た。

二百二十年、曹操の死後、その子操丕[そうひ]は献帝の位を奪い、洛陽に都を造り魏帝

と称した。

 
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  二百二十一年、劉備玄徳は成都、今の四川省成都県に都を造り蜀漢帝[しょくかんて

い]と称した。
 
 二百二十九年、孫権は呉帝と称し、建業、今の南京に都をした。

 三国の内、蜀漢が最も小さな国である。

 魏の国や呉の国の力量と大差は無かったが、劉備は孫権と戦って敗退し白帝城で没した。


 その後、諸葛亮孔明は幼少帝禅を助け、呉の国と和解し幾度も魏国と戦ったが、思うように

ならず戦闘態勢のまま五丈原、の陣中で没した。

 諸葛亮孔明の死後、蜀漢は国力が衰退し、剣閣険[けんかくけん]も最早時間の問題と成った。
 
 遂に魏の将軍司馬懿[しばえい」は、蜀漢を攻め滅ぼした。

 魏の将軍司馬懿は諸葛亮と互角に戦い、又遼東を平定し蜀漢を壊滅させた大功労によって

、其の子孫は権力を振るうに至った。

 二百八十年、司馬懿の孫司馬炎[しばえん]は、魏の帝位を奪い晋の武帝[しんのぶてい]

と称した。

 同じ二百八十年、武帝は呉の国を滅ばし、後漢末より八十余年、中国一統をなした。


                                     [此の項終わり」

 
 

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